思うこと 第176話           2006年11月22日 記       

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその29ー
ポートモスレビーの日本大使館で借りて読んだ戦記本

 今回の巡回診療の途中、ガダルカナルからポートモレスビーに着いた10月27日、大使館の図書室で、私が持ってきた戦記本のなかに無い3冊の本を見つけたので貸していただき、その後の巡回診療中持ち歩き、今回の旅行最後の日までに読み終わりお返しした。その中の1冊はぜひ皆さんにお伝えしたい文言があった。その本は、今や絶版となっている下の写真の戦記である。

 この本は、1982年9月16日戦誌刊行会発行、星雲社発売となっており、現時点では購入不可能の本である。極めて貴重な記録なので、私の手元に残ったメモをたよりに、紹介する。

 著者の星野一雄氏の御略歴は次のように記されていた。
大正3年3月東京に生まる。昭和30年東京商科大学卒(現一ツ橋大)。同年日本化成工業(株)(現三菱化成工業)に入社。昭和14年習志野騎兵第15連隊入隊。幹部候補生として騎兵学校卒業後、昭和15年見習士官として騎兵第41連隊に配属、華北に渡る。昭和18年ニューギニアに転戦し、終戦時第41師団参謀部付陸軍大尉。22年2月復員。三菱モンサント化成(株)常務取締役・日本連水(株)取締役社長を経て、現在菱化商事(株)取締役社長。

 先に第171話で『ラバウルの将軍ー今村均』を語った際、アイタペの米軍陣地に対し、今村均将軍から『攻撃は中止し、ジャングルに避難し自活の道をはかれ』というような命令を受けとったにもかかわらず、現場の安達第18軍司令官はこの命令を無視し、アイタペ陣地への突撃を命令し多くの将兵に無駄死にを強いたことについて述べた。この時、星野氏は第41師団参謀部付陸軍大尉という比較的上層部の立場であったので、この今村将軍からの命令の事、突撃の様子、そして犠牲者の数などについて詳しく述べてあったので、以下に紹介する。参考のためウエワクとアイタぺ周辺の地図を示す。

 以下、本からの私の書き写しメモである(要点のみのメモなので、多少正確を欠くかも知れないがー。) ーー  
第18軍(猛軍)はウエワク地区の警備を第51師団に任せ、私達の第41師団は第20師団とともにアイタペの米軍を攻撃することに決まった。この時、軍司令部からの命令は『軍は東部ニューギニアの要衝を確保し、現地自給により自給を策し、もって敵を牽制し、全軍の作戦を有利ならしむべし』であった。この命令を見て、『攻撃を回避し、山に入って、土民生活をするように』というのが軍司令部の意図するところと分かったのであった。しかし、猛軍司令官安達中将は全軍に対しアイタペ突撃を命じた。この時、18軍の総兵力は後方輸送部隊の1万5千人をのけると2万人の兵力であった。7月10日、その2万人が米軍陣地に突撃した。強力な米軍のトーチカ陣地の前で、大隊は大隊長原田大尉以下ものの5分とたたないうちに全滅に近い打撃を受けてしまった。つづく加来大尉軍も同じように5分とたたない内に全滅した。この突撃で死んだ兵士の数は約1万人にのぼった。8月3日、第18軍(猛軍)の生き残り兵は山に向かって退却を開始した。ーー
 以上が星野氏の著書からの抜粋である。星野氏が所属していた41師団約2万人中、終戦時の生存者はわずか600人に満たなかった。
 この、退却の様子は、『第十八軍は今や軍というよりも、まさに餓死せんとする人間の集団であった』と時の田中参謀は書いていることが『ラバウルの将軍ー今村均』のなかで紹介されている。さらに、この本のなかで、次の記載もある。 ーー
食料が無く餓死につながる部隊で、中、小隊長が統率力を失うのも当然だった。人肉を食う話が陰惨な噂となって広がっていった。ーー
 
『ラバウルの将軍ー今村均』のなかで、ラバウル戦犯収容所での安達中将が首吊り自殺した際に残された遺書の将兵の死を美化した文章に対する足立巻一氏の次の反論も紹介してあった:『戦死はごく一部の軍人をのぞいてはそのように美しいものではなかった。悲壮でも、壮烈でも崇高でもない。むしろ、みじめきわまるものであった。兵卒は天皇のために、あるいは国のために死んだのではない。自分の意思に反し、仕方なしに死に追いやられたのである。』と。一連の飢餓とマラリア地獄の死の行軍の手記を読んだ私にとって、この足立氏の言葉は、胸に迫るものを感じたのであった。