思うこと 第169話 2006年11月15日 記
パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその22ー
ラバウル2泊3日の旅ー第5話ー
水木しげるの『ラバウル戦記』
ラバウルに行くにあったって読んだ本が2つある。
水木しげる氏の『ラバウル戦記』は、次の写真の様に
従軍中に描いた絵を上段に、その説明が下段になっており、とっても読みやすく、ユーモアあふれる文章の中に、上等兵に理由もなくビンタを食らわされ続ける初年兵の二等兵の辛さ、戦争の極度のむごさ、そして無意味さを自分の体験のように味わった。水木氏は従軍中、爆撃で片腕も失っている。土民と親しく付き合い、というより、土民から唯一好かれた兵士だったようで、水木しげる氏の人間性があふれでており、終戦の時に土民から日本に帰らずにこちらに残って一緒に暮らそうとせがまれ、ラバウルに居た約10万人の兵士のなかでただ一人現地除隊を申し出たその経緯に感動した。結局上官に説得され、一度は日本に帰ったものの、その後幾度となくこの地に帰ってきて、土民と共に過ごす生活を今も繰り返していると、現地の方々から聞いて、びっくりしたと同時に深い感銘を受けた。『水木しげる』は漫画家としての芸名で、本名は武良 茂
(むら・しげる)である。1922年(大正11年)、鳥取県の港町、現在の境港市の生まれであるから、現在84歳になられるはずである。 今でもパプア・ニューギニアに時々お見えになっておられるとのことであるから、私が念願の再訪問が実現出来た時に、偶然の出会いがあればと、夢を馳せる事であった。現在は、ご自身の体験をもとに、平和の大切さをひろく訴えておられるとの事であった。皆さんご存知のように、水木氏は復員後、紙芝居製作、貸本マンガ店経営を経て漫画家となられ、1966年「テレビくん」第6回講談社児童漫画賞を受賞、これをかわきりに代表作を続々と創作。以後「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」など、多数のまんがを精力的に創造してこられている。私は、ここラバウルで、「ゲゲゲの鬼太郎」の原型となったこの地の土民の妖精の踊りの衣装があるとの情報を得たが、残念ながらラバウルではそれを見る時間がなかった。ちなみに、「ゲゲゲの鬼太郎」の原型となったものとは別な衣装ではあるが、イメージをもっていただくために、この地の土民による類似の踊りの一例をお見せしよう(下図)。
ところが、以外にも、「ゲゲゲの鬼太郎」の原型となったこの地の土民の妖精の踊りの衣装らしきものが、この国の紙幣に印刷されているのを発見したのである。50キナ紙幣には、この国のマイケル・ソマレ首相の顔が印刷されている。
その首相の顔の右側に妖怪の踊りの人形群が印刷されているのに気付いたのである!そして、その中に、捜し求めてかなわなかった、あの、ゲゲゲの鬼太郎の原型となった妖怪人形にちがいないと思われる妖怪人形がいたのである(下にその拡大写真を示す)。
人形の頭の上に大きな“一つ目”が乗っていたのだ。
まさに“金の玉”がしびれるほど驚いたのであった!
さて、話を水木氏の従軍時代にもどす。 水木しげる氏が召集され、ラバウルに向けて門司を出港したのは昭和18年11月であるから、制空権も制海権も連合軍に握られてしまっていたラバウルに撃沈されずに到着できたことは、当時の戦況からすると奇跡的でさえあった。事実、水木らを乗せた信濃丸の直前にラバウルに向かった兵員輸送船もその直後の兵員輸送船も撃沈され、この信濃丸がラバウル・ココポ地域に到着できた最後の兵員輸送船となり、その後は到達できていない。水木しげる氏の上陸地点と従軍地の地図を下に示す。
当時、ニューブリテン島の戦況は、制空権、制海権を連合軍に抑えられていただけでなく、
地上においてもタラセアとガスマタには豪州軍がすでに上陸に成功し強力な陣地を築いていた。すなわち、島の西半分を完全に支配し、かつ、じわじわとラバウル方面へと進出中であった。このような戦況の元で、戦況に関しては情報を知るすべもない水木二等兵が、命ぜられるまま右往左往しながら生死の境をくぐった手記で、私は、本当にいろいろ考えさせられながら、この旅の間、繰り返し読ませていただいた。
さて、ラバウル旅行でもう一つ読んだ本『責任 ラバウルの将軍 今村 均』は、先の水木しげる氏が軍の中で最も下の階級であったのに対し、今村 均将軍は最も上の階級であったので、ある意味、対照的な内容であった。私は、これほど、感動した本はかってなかったというほど感動した。読みながら幾度涙で中断したことであろう。この本、『責任 ラバウルの将軍 今村 均』については、あまりに中身が濃いので、追って、別の章で述べる。