思うこと 第168話           2006年11月14日 記       

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその21ー
ラバウル2泊3日の旅ー第4話ー
ラバウルの戦跡を訪ねて

 ラバウルはガダルカナル島やパプア・ニューギニアなどの南海の激戦地の陸海軍の司令部があったところで、数多くの戦跡が残されていた。11月2日の検診の合間にその戦跡を訪ねた。戦跡の多くは先回の第167話で話した灰に埋もれた旧ラバウルの地にあった。連合艦隊司令長官山本五十六元帥がブーゲンビル島で撃墜される数日前までここで指揮を執っていた海軍司令部跡の地下壕(ヤマモト・バンカー)もここにあった。下の写真がその地下壕入り口である。

爆撃にも耐えられるように司令室は地下深くに作られていた。

この日はあいにく停電で地下に降りてゆく事は出来なかったが、当時の状況に思いを馳せるには十分であった。この地下壕(ヤマモト・バンカー)のすぐ横に木造平屋の戦争博物館があり、ゼロ戦の残骸をはじめ多くの遺品を見ることが出来た(下写真)。


 ラバウルの丘には至る所に旧日本軍が掘ったトンネルが数多く見られ、その全長は500kmを越すという。連合軍の空爆を逃れ、兵士たちはトンネルの中での生活を強いられた。陸軍の第八方面司令部もこのトンネルの中に作られていたが、入り口はジャングルの木で覆われているらしく、我々は近づく事も出来なかった。

 さて、私の最大の関心事は、第157話で私の伯父豊島文雄の手記にも出てきて、そしてまた、戦記のなかで幾たびともなく出てくる「大発」(陸軍の小型上陸用舟艇、「大型発動機艇」の略)の残骸をここラバウルで見ることが出来るという情報であった。ラバウルとココポの中間あたりに、大発洞窟(Barge Tunnel)と呼ばれるトンネルがあり、5隻の「大発」の残骸が残っているというのである。そして、それをついに見ることが出来たのだ!

このコンクリートの洞窟のなかで、敵の襲撃を避けながら戦闘に備えていた5隻の「大発」があったのである。先頭の「大発」が一番原型をとどめていた。

案内の方に大きさの指標にと立ってもらって撮影した(手前が艇の後部にあたる)。
艇の内部と先端部を撮影した(下写真)。

さらにこの奥にあと4隻の艇体があるとの事であったが、暗くてよく見えなかった。

 最後に寄ったのが戦争博物館(ココポミュージアム) で、前庭には日本軍の使用した戦車,戦闘機,魚雷,ジープの残骸が置いてあった。


下の白いのが旧日本軍のハイテク兵器:酸素魚雷の残骸である。


 ここに司令部があったにもかかわらず、ラバウルの日本軍は、真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)のわずか一年後(昭和17年12月ごろ)には連合軍に制空権も制海権もすべて奪われ、その後補給もほとんど絶たれ、圧倒的な武器・火力の差を見せ付けられながら、猛烈な爆撃のなかで、トンネルに身を潜めながらもジャングルを開墾し、来るべき玉砕に備えつつ、自給自活の耐乏生活をしながら終戦までの2年8ヶ月を過ごしたのであった。このいきさつならびにラバウルの名将軍・今村均については、次章第169話以降でくわしく述べるが、今村均将軍の苦悩とそのもとで一緒に耐えた将兵の苦労に思いを馳せ、涙なしには見れないそういう光景であった。