思うこと 第154話           2006年10月26日 記
                      
2006年10月27日 追記(赤文字)      

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその7ー
戦場跡を訪ねてーその1ー

 今日は午前中で検診業務が終了したので、午後は戦場跡を訪ねた。よりよき理解のためにもう一度第149話で紹介した図を下に載せる。

下の写真はアウステン山頂で今日私が撮影したものである。

ではこれから、この山頂の慰霊塔、山頂からみた丸山道ジャングル、テテレ海岸、コリ岬、ムカデ高地、イル川河口の激戦地跡を訪ねた写真を紹介する。
下の写真がアウステン頂上にある岡部隊の慰霊塔である。

この塔の裏面は、涙なしには読めないものであった(下図)。

この山頂から見た丸山道のジャングルは、当時の兵士の苦難をしのばせ、万感胸に迫る思いであった。

下の写真は米軍がはじめてガナルカナル島に上陸したテテレ海岸からコリ岬を望んだものである。

この海岸にはその時に米軍が使用した水陸両用艇LVTの残骸(約30台)が残されていた。

この時、米軍は全く抵抗なく、無血で日本軍が建設した空港(今のヘンダーソン空港)を制圧している。
この戦略の要の空港を奪還するために、一木支隊、川口支隊、そして最後に第2師団と3波にわたる計3万人の兵士を投入した。しかし、火力の差、情報戦能力の差(米軍は日本軍の動きをほぼ正確に把握できていたのに、日本軍は米軍の状況を全く把握できていなかった、というより、精神力で突撃すれば必ず勝つと過信し、情報戦を軽視していた)、海上では制海権を失い始め、制空権はほぼ米軍に抑えられていたこと、そして、作戦のミスの積み重ね等の複合要因により、直接の戦闘で5000人の尊い命を失い、約一万5千人が餓死(マラリアの追い討ちもあり)という地獄の辛酸の中で命を落としていったという。私は、現場を視察するうちに、これらの兵士を死に追いやった、本国で現場の事情も知らず机上で作戦をたてて命令を下していった軍司令部に憤りを感じずにはおれなかった。無念このかたない。
下の写真がイル川(中川)河口を上流側から写したもので、

この100メーターほど下流が砂州でふさがれた河口で(アリゲータークリークと呼ばれている。今回はそこまでは行けず、道路から河口方向を写した)、重火砲と機関銃で陣を作って待ち構えていた米軍の正面から一木支隊が銃剣かざして突撃し、全員玉砕し、海岸を血と死体でうめつくした悲しい戦場跡である。

 10月27日追記:何と今日、パプアニューギニアに向かう飛行機がアンダーソン飛行場を飛び立った時、そのアリゲータークリークが眼下に見えたので、急ぎここに写真を追加アップする!


次の写真がムカデ高地で、

ここの一番高いところに慰霊碑があった(下図)。

ここからルンガ川を望む景観は今は平和なたたずまいであるが、

しかしながら、

この左手前の防衛線鉄条網跡も教えるように、ここで多くの将兵が命を落としたのである。
あまりにも悲しい出来事であった。

さて、明日はこの島を発ちパプア・ニューギニアに向かう予定であるが、出発までの時間を使って、今日訪れる事が出来なかった西側の戦場跡を訪れたいと思う。