思うこと 第149話           2006年10月24日 記       

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその2−

 昨日は、羽田空港に着くなり外務省に向かった。 外務省で担当官から今回の検診の説明を受けたあと、パスポートを受け取った。

初めての公用旅券にしばし感動した。その後、パプア・ニューギニアの治安の説明があった。

やはり、治安は“極めて悪い”とのことで、この国では単独者の犯罪は少なく、『ラスカル』と呼ばれる集団犯罪グループが街中でたむろし、犯罪のチャンスをうかがっているとのこと。最近の傾向として、ライフル、ショットガン、及び自家製銃などの銃器を使い犯行に及ぶケースが多く、抵抗して命を落とさないよう気をつけるようにとの注意事項の文書を手渡された。
一方、ガダルカナル島はそれよりは better の“悪い”であった。

この後、タクシーでJR東京駅に向かい、成田エクスプレスで約一時間で成田に着き、ややバタバタしながらJALに乗り込み、今朝7時ブリスベンに着き、ここで乗り換え、いよいよ目的のガダルカナルへ向かった。
 私は旅の途中ですでに下図の2冊の本を読んでいた。

左の本は本年一月に光人社から出版されたばかりの西村 誠氏の著書である。西村氏がカメラマンの湯原浩司氏とともに現地におもむき、取材・撮影したもので、私にとっては極めて貴重な情報源となった。一方、右の本は、NHK取材班が日本ならびにアメリカに残されている膨大な資料調査をもとにまとめた本である。
下図は西村氏の著書にあった地図を後の説明のために写真で撮ったものである。

この地図の四角に囲ってある部分がアンダーソン空港周辺の歴史的激戦地である(下図)

 さて、話をブリスベンからガダルカナルへの機中にもどす。途中島影もなく、どこまでも続く大海原の上を3時間飛んだところで、突然、『これより降下しますのであらゆる電源をお切りください』のアナウンスに窓から覗くと、まさに機はガナルカナル島の西側海岸にさしかかったところであった。

この手前の川が先の地図の西海岸の3本の川の一番手前と推定した。海岸ぎりぎりまでジャングルがせまっている。機はそのまま島を横切ったが、丸山道第2師団進撃路にあたると思われる川沿いのジャングルの上を通過したので夢中でシャッターを押した(下図)。

やがて機はホニアラ市街上空をぬけて旋回したので、海上からヘンダーソン飛行場の滑走路が横一線に見え、その滑走路左端に光って見える河口がイル川(中川)で、この川と煙の間あたりに米軍の待ち構えていた火力の前に突撃し一木支隊が全滅し浜辺を真っ赤な血で染めた “
red beach” である。

機はさらに旋回し、ルンガ岬とルンガ川越しにヘンダーソン飛行場を望み(下図)、

さらに旋回して、ホニアラ市街の上を通り(下図)(写真右上にヘンダーソン飛行場が見える)。

激戦地の横をぬけ着陸した(下図)。

空港周辺は昔から椰子園があったとのことで、確かにそれらしきものが滑走路から見られた(下図)。背景の山が日本兵(総数約3万人)の多くが玉砕(約5千人)あるいは餓死・病死(約1万5千人)していったジャングルに連なっている。結局、私は、機が降下しはじめてから着陸するまでのわずかな時間に、激戦地の重要地点のほとんどを見ることができたが、これは事前に2冊の本から得た情報に基づき頭の中にすでに地図が出来上がっていて、見ただけでそこがどこだと分かった事が大きかったように思う。

この空港は兵士が銃を持って警戒していて、最近の治安の悪化を象徴していた。

空港では大使館の方が迎えに来てくださって、この国で一番高級のホテル、キタノ・メンナダ・ホテル(日本人が経営)(下図)に案内してくださった。ここに写っている3人が今回の外務省巡回医師団全員で、左から田中裕美副看護師長、私、田原博幸小児外科助教授である。

ホテルは街の中心部の浜辺にあり、下の写真は部屋の窓からの眺めであるが、川口支隊、岡部隊の進撃路にあたる海岸と想像する事も困難な“南の楽園”の風情であった。

この後は、また明日!