思うこと 第145話           2006年10月15日 記
                       2008年11月10日 重要追記
                       2008年11月16日 再追記

重要追記:2008年11月10日
今朝、メールを開けた所、次の様な極めて貴重なご意見が寄せられた。
『先生のHPには、BP卿が郷中教育を参考にしたと乃木日記に 書かれているとありますが、私も乃木日記を読んだのですが、BPとそのようなやり 取りの場面を発見できませんでした。また、乃木神社にもお聞きしたところ日記には そのようなことは記載されていないとのことでした。 先生は、どのような文献よりその情報を得られたのでしょうか? よろしければ、教えていただければ幸いです。 昨年公開された映画「チェスト」にもBSと薩摩が関係しているような感じがしまし たが・・・はっきりしません。 ぜひ、先生の情報を教えていただければ幸いです。』
このメールを読んで、私はびっくりして、次の様なお返事を差し上げました。
『ご丁寧なメール、ありがとうございました。 メールお読みして、私自身とても恥ずかしい気持ちになりました。 と申しますのは、私自身、『乃木日記』をよんでおらず、ネットで読んだ『郷中教育 をお手本にしたイギリスのボーイスカウト』という小文(アドレス下記)
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/ja6xwv/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4.txt
を鵜呑みにして書いてしまいました。 記載がないということですので、私のホームページの記載に早速追記訂正を入れさせてい ただこうと思います。 貴重なご指摘、ありがとうございました。 そしてまた、私の軽率な記載のために有村様にご迷惑をおかけしたことに、謹んでお 詫び申し上げます。』
この様な経過で、乃木日記に記載されていると記した部分を訂正したのが下記の文章中の赤字で記したところである。
今後、どこからこのような説(風評?)が出てきたのか私自身も知りたいと考えている。
まずは、私自身『乃木日記』を読むことにし、AMAZONで調べてみたところ、次の2種類の出版物があった。
1.『乃木将軍日記』 乃木希典著、乃木将軍威徳顕彰会 1936年出版 古書 5000円
2.『乃木希典日記』 乃木希典著、和田 政雄編集    1970年出版     9600円
どちらを買うべきか迷ったが、どちらも内容は同じものと判断し、より古い1.の『乃木将軍日記』を注文した。
これを読ませてもらった結果については、読み終わり次第このHPのこの『思うこと145話』に追記する予定です。

この私のHPを読まれた方で、何かこれに関する情報をお持ちの方はぜひ私までメール(下記アドレス)
osame2@m2.kufm.kagoshima-u.ac.jp
をいただければ幸いです。


再追記:2008年11月16日
今日、待っていた『乃木将軍日記』
届いた。

本の表題と末尾のページを示す。

日記の原文は私の力では判読できなかったが、幸い、活字でフリガナまで付けたものが全てのページで示されていたので、助かった。

早速全てのページを読んでみた。
やはり、メールで指摘されたとおりで、どこにも、ボーイスカウトに関する記載はみられなかった。
何か別の書物に記載されていると推察される。
この件で、どなたか、心当たりのことありましたら、私のHPのメールで教えていただければ幸いです。
納 光弘 2008年11月16日 記

郷中教育についてーその3−
ボーイスカウトの制度のモデルは薩摩の
『 郷中教育』

 乃木 希典(のぎ まれすけ)は、作家司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』などの作品により、軍事的才能が皆無の「愚将」と評価されているとはいえ、明治時代を代表する軍人で、畏敬と親愛を込めて乃木大将などの呼称で呼ばれることも多い人物である。 乃木 希典は大正元年(1912年)9月13日に、明治天皇の後を追って夫妻ともども自害し殉死した(乃木希典63歳、静子夫人53歳)。 乃木希典は日々の出来事を丹念に日記に残しており、自害の寸前まで日記をつけていた。その日記は現存しており、『乃木希典日記』として公開されている。乃木希典は根っからの長州人であり、薩摩の郷中教育で育ったわけではない。しかし、『薩摩の郷中教育が英国発祥のボーイスカウトのモデルであった』ことが、この日記の中で語られているとの記載を下記のネット情報で得た。
『郷中教育をお手本にしたイギリスのボーイスカウト』
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/ja6xwv/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4.txt

 ボーイスカウトはイギリスの軍人ベーデン・パウエルが1908年に青少年の心身を健全に育成するために創始したものである。 
上記のネットの小文 『郷中教育をお手本にしたイギリスのボーイスカウト』の記載によると、1911年、イギリス国王ジョージ五世の戴冠式に明治天皇、皇后のご名代として派遣された東伏見宮依仁親王ご夫妻に随行した乃木希典(当時陸軍大将)がボーイスカウトの訓練を視察した時の模様がこの日記に記載されているとのことである。乃木大将がパウエル卿に「このようなよい制度をどのようにして創られたのですか」と尋ねたところパウエル卿は「あなたのお国の薩摩における“郷中教育”の制度を研究し、そのよい点を採り入れ組織しました。」と答えた、と。もしこれが事実とすると、なぜパウエル卿は郷中教育を研究したのであろうか。その理由を語るには、当時の大英帝国の状況にふれる必要がある。世に名高いボーア戦争(1899−1902年)では予想外の苦戦を強いられ、国際的な正統性を失い孤立を深めていった時期にあたる(状況はこれまで世界に敵なしと思われていたアメリカが、イラク戦争で予想外の困難を強いられ、かつ国際的な正統性を失い孤立を深めている現在の状況と酷似しているがーアドリブでしたー)。おりしも、1901年に大英帝国繁栄のシンボルであったビクトリア女王も死去している。まさに、大英帝国の国民のあいだに自信喪失感が漂い始めた時期であった。その様な状況の中で、ベーデン・パウエルの目には1904年から翌年にかけての日露戦争で勝利した日本人が、愛国心に富み、ロシアに対し一丸となって戦うモラル高き民族に見えたのである。パウエルがこの日本人のモラル・士気の高い原因を調べてゆく中で、ロシアのバルチック艦隊を完全に打ち破った連合艦隊の司令長官の東郷平八郎元帥、また満州軍総司令長官の大山巌元帥の二人とも青少年時代を薩摩の郷中教育で育った事実を知った。そして、この薩摩の郷中教育を研究し、これに感銘し、この精神を取り入れてボーイスカウトを創始したという。すなわち、パウエル卿は日露戦争だけではなく、1868年に起きた薩英戦争にも着目ていたことになる。この戦いで、薩摩は常勝のイギリス艦隊7隻を錦江湾に迎え、艦隊に死者11名、負傷者39名の損害を与えた上、錨を切って引き上げざるを得ないという屈辱を味わせた(後に、この錨は薩摩がイギリスと手を結んだ後にイギリスに引き渡された)。パウエルは、この戦いにおける薩摩の若者の士気の高さの源泉が薩摩の郷中教育にあることを読み取ったという。圧倒的な武力の差があるイギリスやロシアを苦戦させたのは、兵力の差ではなく、士気の差にあること、そのことと、南アメリカ地域でのボーア戦争で圧倒的な軍事力と戦士の数をもってしても苦戦をしいられた理由がボーア人(オランダ人移民)の士気の高さであったことと2重写しのように重なって見えたのではないかと思われる。実は、パウエル卿自身がローデシアや南アフリカで前線部隊総司令官などを務めてた経歴を持っている。ハード・パワーの限界に直面した英国にあって、ソフト・パワー強化が叫ばれ始めた流れの一環として、パウエル卿は“心”の教育をも重視した薩摩の郷中教育を取り入れて次世代の兵士を育てるための青少年への軍事訓練としてのボーイスカウト運動を始めたという。この、パウエル卿によって創始されたボーイスカウト運動は瞬く間に世界へと拡がっていったことはご存知の通りである。