個人的出来事    第83話     2007年6月26日 記
私の人生転換の2つの出来事


私の人生には10回ほどの大きな転換点があったが、次の小文に載せた2つの出来事はそのれらのなかの2つである。 この小文は、初めて私が入局し3年間過ごした九州大学医学部第三内科(消化器、血液、腎臓を主としていた)の同門会発行のニュース新聞の求めに応じて書いた『巻頭言』である。以下にその写真と、掲載文の全文を添付し、その後、これに纏わる事項に触れたい。


3内ニュース 巻頭言 
夢追って生きる −定年退職の節目にあたって−

      財団法人慈愛会 会長 納 光弘

 私が九州大学第三内科に入局したのは昭和42年で、学内は青医連運動などで騒然としている時期であった。同時入局の21人はお互いにとっても仲がよく、よく遊び、よく学んだ。3年後、約500人の機動隊が学内に陣取り、同意書(詫び状)を書いたものだけしか学内に入れないことに決まり、その提出期限の前日、我々21人は集合し、それぞれの今後の方針を決めることとなった。私は、“野に散る”という道を選んだが、同期入局者の名和田 新君だけは大学に残ってほしいとお願いした。彼こそは、大学人として残り、将来教授になって第三内科を引っ張っていってほしいと私は願ったのである。それは、我々全員の願いでもあった。結局、約10人が名和田君と共に残ってくれ、残り約10人が大学を後にしたのであった。別れにあたって、21人は『進む方向は違っても、いい医師になろうという心のともし火だけは消さずに頑張ってゆこう』と涙ながらに誓いの杯をかわしたのであった。名和田君が我々の夢をかなえて第三内科の教授に就任した時の、我々同時入局者の歓喜いかばかりであったことか!うれし涙にくれ、喜びを酒に託したのであった。名和田教授は、名教授として第三内科の発展に尽くしたのみならず、内科学の発展にも多大の貢献をなし、第100回日本内科学会という、とてつもない節目の学会長に任ぜられ、そして、見事にその大役を大成功裏に果たしたのであった。私が鹿児島大学病院の病院長になった時、ほぼ同じ時期に名和田教授も九大病院の病院長に就任し、私が病院長の過度のストレスによる高尿酸血症から痛風発作を体験した頃、同君も同じ原因による痛風発作を起こしたと風の便りに聞き、親友とは病気までもが似るのかと驚いたのであった。名和田君は63歳の定年退官をつつがなく迎え、そして、高柳涼一教授に教授職のバトンタッチをみごとに果たした。まことに嬉しい限りである。
 しかし、私の場合は、名和田病院長とは異なり、順風満帆ではなかった。病院長職半ばにして、ストレスと過労で疲労困憊し、ついに入院し、病院長職も返上した。4ヶ月に及ぶ入院期間中、私はひたすら考えた。これまでの私の人生は何だったのか? 私の生き方は、間違っていなかったか? ひたすら病院の発展だけを至上目的にしすぎていなかったか? 私自身にも、私と袖触れ合う人たちにも、一体どれほど気を留めたであろうか? 私はもう一度立ち直れるであろうか? さまざまな葛藤と煩悶の時を過ごした。 そして、私は、立ち直った。 この4ヶ月の入院期間に人生感が根底から変わり、私は新しい人生を歩み始めた。 こんなにもすばらしい人生の生き方があったのだ! 今、私は私に入院し考える期間を与えてくださった運命の神様に深く、深く感謝している。私は、この4年間を定年退職までの助走期間と位置づけ、ひたすら準備をしてきた。そして、ついに、今年の3月31日に65歳の定年退職の日を迎えた。そして、私は、新しい人生に飛び立った。私はここでは多くを語らないが、退院後のこの4年間余りのこと、そしてまた今後の私が目指している生き方については、私の個人のホームページに縷々記載してあるので、お暇な時にでも覗いていただければ幸いである。私のホームページは、Yahoo Japan またはGoogleなどで、納 光弘で検索していただければ、一番冒頭に出てきます。
 それでは、第三内科が今後、高柳教授の下でさらに大きく発展することを確信しているという言葉でもって、高柳教授に心からのエールを送りながら、この巻頭言の締めとします。
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私の人生の転換点となった2つのポイントの一つが3年間過ごした医局を去り“野に散った”ことであり、もう一つが、病院長の仕事に疲労困憊の極に至り、病院長を辞し、入院したことであった。どちらも、常識的には人生の挫折ともいえ、事実、どちらも、その時点では将来に展望はなかった。しかし、結果としては、第一の転換点があったからこそ日野原先生に出会え、井形先生に出会えたわけである。第二の転換点の病院長を辞め入院した出来事も、上記のように、結果としては、これを契機に、もっと味のある人生が開花した。
(私は、自分の体験から、挫折こそはさらなる可能性に挑戦できるチャンスであると思っている。) さて、第二の転換点の入院の時(2002年8月27日)の逸話を披露しよう。私は、その1年ほど前、名和田教授から上述の第100回日本内科学会で宿題講演をしてくれと頼まれていた。『第100回の節目の内科学会総会であるから、君が発見・命名したHAMの発見のいきさつと研究の歩みを宿題講演で語ってくれ』というもので、もちろん承諾していた。ところが、その大事な学会の半年前に入院したのである。いつ退院できるかの目処も立たない中、私は病室から名和田教授に電話して、演題取り消しを相談した。名和田君の答えは明快であった。『取り消しなんてしないよ。学会の一番のメインプログラムに組んであるから、それまでに元気になって必ず講演してくれ。這ってでも出てきてね!』であった。私は、2002年末に退院し、2003年元旦明けから大学に復帰した。そして、2003年4月の第100回日本内科学会の宿題講演を5000人の聴衆の前に語り、その責を果たすことが出来た。下の絵は講演終了後の感傷の中で描いた水彩画である。

No 題名 制作年 技法
24 桜ふぶき 2003年04月05日 水彩

内科学会創立100周年を記念する第100回内科学会総会(福岡)の宿題講演に私が指名され、学会の最終日に1時間の講演を無事すますことができ、ほっとして西公園に足をのばした。その日は西公園の桜は満開で、風に花ビラが舞っていた。