個人的出来事 第28話        2006年2月16日 記ああ

オーロラを求めてーその6−

アラスカ5日目


2月15日の朝、昨夜の大感動を思い出しながら目覚め、窓から外を眺めると、白樺の枝は白く美しい、幻想的な樹氷に変身していた。








かずかずの感動と思い出をもらったチェナ温泉ホテルを後に、迎えの小型バスでフェアバンクスに向かった(車で90分)。
フェアバンクスはアラスカ第二の都市で人口8万人。
ちなみに、第一の都市のアンカレッジは人口23万人。
ここで、アラスカとフェアバンクスについてちょっとだけおさらいしよう。
アラスカ州は面積では全米第一で日本の総面積の4倍の広さであるが、アラスカ州の総人口はわずかに62.万人にすぎない(鹿児島市の人口に相当する数の人々が日本の4倍の土地に住んでいる計算になる!)。
アメリカがロシアからアラスカを買いとったのが1862年。その後40年間は現在のフェアバンクスの地には町も村もなかったが、1902年この付近で砂金が取れる事がわかり、ゴールドラッシュの人々のテント村が発展して町となり、3年後の1905年にはアラスカ内陸部に始めての“タナ河流地域鉱山鉄道”が開通し、開通に貢献した米国の上院議員のチャールス・フェアバンクスにちなんで“フェアバンクス”と命名された時には、この町はアラスカで“一番大きな町”となっていたという。1910年には人口11,00人にまで発展したこの町も、手作業が主の金鉱採掘が陰りはじめるとともに衰退し、1920年には人口は1,000人にまで減ってしまった。
しかし、膨大な推定埋蔵量の金鉱脈の重要性から、1923年に米国がアンカレッジからフェアバンクスまで鉄道を開通させ、大型機械の金鉱削減機を鉄路で運び込んだ途端に、金の生産量はとてつもなくあがり、米国の発展のみならずこの町も大発展をとげた。
さらに、太平洋戦争勃発にともない、米軍はフェアバンクス周辺に軍事拠点を築き、連邦政府はアラスカに10億ドル以上のお金をつぎこみ、“にわか景気”をフェアバンクスにもたらした。
1959年にアラスカは49番目の州に昇格したが、内陸部の雇用は厳しくフェアバンクスは次第に衰退した。
そこでもう一度この町に活気を取り戻させたのがアラスカ油田の開発とパイプラインの建設で、多くの雇用をもたらした。さらに、近年、日本を中心としたオーロラ観光も持続的な発展をこのフェアバンクスにもたらしつつある状況といえる。
さて、ホテルに着いた後、小一時間のフェアバンクス観光に連れていってもらえたので、その時の写真とともにフェアバンクスを案内しよう。このパイプラインもその時に写したもので、右の写真はパイプラインの割断面の展示で直径1.5メートル、鉄の厚さは約10mmとのこと。継ぎ目をなくするため鉄を流しだして作る工法は日本の製鉄会社グループの独占技術として、日本が製造を独占したとのこと。中に詰まっているのは、油とともに流す壁面洗浄の器具とのことであった。

ダウンタウンの中心部にある銅像は“最初にアラスカに渡ってきた家族”と書いてあり、アジア大陸から渡ってきた先住民を記念したものである。10万年前ごろから1万7千年前ごろまでに、アジア大陸からはじめてアメリカ大国に人類が移動し、その子孫が、エスキモー、アメリカインディアン、南米のインディオとして現在に至っていると言われているが、そんなに太古の昔に初めてアメリカ大陸に渡ってきた家族にしては立派すぎる服装だと、最初疑問に感じたのだったが、その後で案内してもらったアラスカ大学内の博物館を見学して、古代エスキモーの高度な文明・生活様式を知り、合点がいったのであった。これだけの防寒服を作れる文化を持っていたからこそ、極寒の氷を渡って移動してこれたといえよう。一万3千年前頃だったかと記憶している青森県の3内丸山遺跡の人々も“最初にアラスカに渡ってきた家族”の流れの上流の人々と広い意味で同じグループをなす可能性を指摘されているが、あの縄文文化に於いても共通する高度な文化を持っていたことを思い出すことであった。

この博物館の入り口付近の壁一面が悲劇の写真家・星野 道雄氏の作品で飾られ、氏を称える説明パネルも貼ってあった。
 右端の写真をみて、感無量の気持ちで胸がいっぱいになった。雪原の表面に熊の足跡がしっかりと映し出され、熊は振り向いて、写真を撮っている人・星野氏を見つめている。「熊と会話ができる写真家」と呼ばれるほど、アラスカの自然を、そして動物を愛した星野氏。その星野氏が、こともあろうに、彼が愛して止まなかったヒグマに襲われ、非業の最期をとげることになろうとは! 星野氏の安らかな冥福を祈って、静かに黙祷をささげたのであった。



同じアラスカ大学の敷地内にひときわ目を引く立派な建物(左写真の銀色に輝いている建物)がアラスカ大学国際北極圏研究センターである。日本政府とアサヒビールの支援で出来たとのことで、ここのセンター長は日本が世界に誇るオーロラ研究の第一人者の赤祖父俊一先生である。
 先生は1930年、長野県佐久市のお生まれで、東北大学理学部地球物理学科を卒業され、大学院在学中にアラスカ大学地球物理研究所(左写真の後ろ側の大きなパラボラアンテナのある建物)に移られ、ここで博士号を取られた。その後、40年以上この大学でオーロラ研究一筋に打ち込まれ、オーロラ研究で世界に冠たる先導者になられたのである。私は、今回の旅行にあたって日本で赤祖父先生の本でオーロラについて勉強したこともあって、お会いしたかったが、残念ながら今回は実現しなかった。


この大学からの眺望もすばらしく、右の写真はその眺望の一こまで、私はこんな重層の霧を見たのは初めてのことで、極寒の地ならではの現象であろうか。この大学の丘を降りる途中にトナカイの牧場があったが、はじめて本物のトナカイを見て驚いたことは、鹿の2倍ほどの背丈をもった大きな動物であったことである。



ホテルは、プリンセス リバーサイド ロッジという大きなホテルで、その名の通りチナ川のほとりに立っていたが、部屋の窓から撮った写真の様に、川は凍っており、その上を車が走っていた。
 このホテルのビジネスセンターは24時間開いており、インターネットが日本に繋がった時は、本当に嬉しかった。
 メールを読み、返事やメールを発信し、そして、それまでに書いてあった「オーロラを求めて」をHPにアップできたのである。

 ところで、市内観光を案内してくださったのはアメリカパシフィックツアーズ社取締役の伊藤幹雄氏で、伊藤氏から私は多くのことを学んだ。この会社の立ち上げの頃からずっとアラスカにお住まいで、こちらで結婚して生まれた息子さんはモンタナの大学生とのことで、伊藤氏の生き様にアメリカで活躍する日本人の一端を見させていただいた。アメリカパシフィックツアーズ社のHPは http://www.aptoursalaska.com/ なので、興味のある方は覗いてほしい。

夜は10時に迎えの小型バスでオーロラ観察に出かけた。
左の写真はパンフレットをデジカメで写したもので、この観察ロッジはフェアバンクスの北32キロのクリアリー・サミットの頂上に建っていた。
このロッジを運営しておられる熊谷 誠・亜希子夫妻に暖かく迎えられた。コーヒーを飲みながら、北側に大きく取ってある窓越しにオーロラの出現を待ち、出そうな時に熊谷氏が教えてくれ、窓の外に大きく作られた撮影ベランダに出て撮影するようにプログラムされていて、多くのオーロラー観光客のメッカとなっている。
このロッジの由来についてパンフレットには次のように記載されている『1997年の冬、ローガン・リケッツと熊谷誠という2人の友人が「ソファーに座りながら、ちょっとお洒落な雰囲気でオーロラが見える場所があるといいなあ」という話をしていました。「あ、僕の両親が、30年前に手に入れた土地があるんだ。クリアリー・サミットの頂上にある、最高の場所だよ。」そんなたわいもない会話がきっかけで、1998年の夏、オーロラ・ボラリス・ロッジ(通称オーロラ・ロッジ)の建築が始まりました。雪の中で丸太の皮むき、人力で大きな木材を高さ5mまで持ち上げたり、とにかく、一歩一歩ゆっくりな手作業でした。オーロラ鑑賞を目的に作られたロッジですので、自慢は北の空に面した大きな窓です。皆様も是非オーロラ・ロッジは、アラスカの大自然を満喫しにいらしてください。』
HPのアドレスは http://www.mosquitonet.com/~deepalaska/JapanesePageOne.html なので、オーロラ観光に興味のある方はぜひ覗いてほしい。
 さて、この日は、昼間は晴天であったが、ロッジについた頃は空は厚い雲に覆われていたので、私は最初から「今日は出ないね」と言いながらニコニコしていたが、これもすでに、昨夜、今冬最大のオーロラを見た者のゆとりであった。雲がわずかに薄くなった時、雲を通してかすかに右写真のオーロラが観察されたが、「雲越しのめずらしいオーロラ写真が撮れた」と喜んだのも、余裕のなせるわざであった。
明日もここにまた来る予定であったので、明日の下見の意味も大きかった。
明日への期待を胸に、午前2時に熊谷夫妻に別れを告げ、迎えの車でホテルに向かった。
ああ