私にとってゴルフとはどんな存在か?

 私にとってゴルフは特別な存在で、私の人生に多大の影響を与えてきたように思う。うまくなろうと決心したある日(平成4年1月1日)から、仕事の合間に練習に励み、ある日曜日には朝から夕方まで“ドライバーだけ”に限定して打ち続け、1000球をこえたこともあり、それは、練習というより、修行という感覚であった。薩摩藩の示現流の練習が木立に全力で木刀で1000回打ち込むのが日課になっていたことに比べれば、私の修行などちょろいものにはちがいないが、それにしても10万個のボールを打つという当初の目標を達成したのは平成5年の11月3日で、2年弱の歳月を要したが、その日をもって練習ボウルのカウントもやめ、以後は練習の質の向上へと向かった。
上手になりたいという思いは強く、小学館から発刊されていたジャックニコラウスの絵入りの日本語訳されていた解説書を繰り返し繰り返し読み、どうしても納得ゆかない文言が誤訳でないことを確かめるために、米国出張の際に原本を買い求め疑問を解決したこともあった(ひだりの写真の左が日本語訳本で右が英語の原本)。
レッスン書も相当な分量読んだ(本棚に並べて少なくとも1メーターはこえたと思う)。


レッスン用のビデオも次々買って繰り返し見た。現在手元に残ってる分だけでも右写真の様に3メートル弱であるが、結構後輩や友人やゴルフ部の学生に気前よく分けてあげたので、それらを入れると4メートルを超えると思うが、これらのビデオに私の小遣いから支払われた額は、優に50万円を超えたことと思う。最下段の右側から12本はアメリカ出張の折買った原本で、特にニコラウスののは英語のヒアリングの練習もかねて幾度も幾度も見たので、英語の言葉が今でも記憶に焼きついているほどである。

 しかしながら、これほど気合を入れて頑張ったかかわらず上達のスピードは極端に遅く、平成7年春にオフィシャル ハンディキャップが11になったのが限界で、その後、仕事が忙しくなり、練習もラウンドも殆ど出来なくなったこともあり、現在、ゴルフは極端な低迷が続いている。音感のない人(私もその一人であるが)にとって、練習してもなかなかうまく歌えるようにならないのと同じように、私もどうやらゴルフのための素質は相当悪い様である。でも、それは仕方のないことであり、だからといって悲観する必要は全くなく、能力がないからこそ、上達の喜びも大きいと考えている。私にとって、ゴルフの道は、ウサギではなく亀さんの歩みに徹したい。もう一度、ゴルフ道に打ち込むのは、定年後であろうか(神経難病とHAMの治療法の確立までは、そちらに全力をあげたいので)。できれば、その前に、もう一度、健康管理のこともあり、わずかな時間でもいいから、練習の喜びだけは再開したいものである。