日本医事新報「ジュニア版」No.290(平成2年2月号)p.31
私は何故現在の科目を選んだか
納 光弘(鹿児島大学教授)
私は、今この原稿を、南インドのバンガロールというところで書いています。
私達が日本で見つけた新しい脊髄疾患HAM(HTLV-T-associated Myelopathy)と、この地方のTSP(Tropical spastic paraparasis)が同一の疾患であるかどうかの調査のためにやってきたのですが、臨床像には類似点も多く、あとHTLV-T抗体の結果が楽しみなところです。
さて、私が医者になろうと思ったのは、小学校の頃に父が私達兄弟に野口英世の伝記の紙しばいを買ってくれたのがはじまりです。紙しばいに感激した私達兄弟は、幾つか野口英世の伝記を読み、医学への道を志し、結果的に四人の男兄弟の全員が医者になってしまいました。
開業医であった父が、特に私達に医者になることをすすめたわけでもなく、「私は医者になってよかったと思っているが、お前達の人生はお前達自身で決めろ」といつも言っていただけに、やはり紙しばいの影響は大きかったと思います。
私の内科は、神経内科、呼吸器、免疫性疾患、ならびに血液凝固を専門にしており、私自信は現在神経内科を主に診ていますが、最初からこの道を志したわけではありません。
私が卒業した昭和41年は、全国で青年医師連合運動が盛り上がっていた時で、私達も自分個人の将来についてよりも、日本の医療の将来のあるべき姿を考えることに、より多くの時間と情熱をさいていた時代でした。
はじめ私は、消化器を専門とする内科に入局し、一般内科を志向し、由あって、昭和46年には鹿児島市で父を助けて一般内科の開業医となっていました。
丁度その頃、鹿児島大学に第三内科が新設され、その初代教授として東京大学の神経内科より井形昭弘先生(現・鹿児島大学長)がおみえになったのでした。私は、井形先生にはじめてお会いしたとき、すばらしい人に出会ったことを直感し、入局をお願いして、快く拾っていただいたのでした。
卒業してすでに5年間、内科の他の分野だけやってきて、神経内科は全く未知の世界でしたが、しばらく教わるうちに、すばらしく楽しい臨床の世界であることを体験したのでした。他の臨床の分野では、これほど自分が患者の診断の治療に貢献したという実感をもてなかったと思います。
ともあれ、「目の前の患者さんのために、我々が何をするのが一番よいかということを考えるなかから、学問が生まれる」という井形先生の教えに感激して、診療を楽しんでいるうちに、気がついてみたら、あれからすでに18年が経っていた、というのが実感であります。
井形先生は「限りなくローカルであることが、インターナショナルに通ずる」とも教えて下さいましたが、井形先生を中心として私達のグループが発見したローカルな病気HAMが、この度野口英世賞をいただくことになったことは、井形イズムそのものが評価をうけたものとして、感慨にたえないところです。
今後とも、私達鹿大三内グループは井形イズムを伝承しつづける中から、あるべき医療の姿を模索して行こうと考えています。