日本医事新報「ジュニア版」
第351号(平成8年4月発行)
鹿児島大学医学部第三内科教授 納 光弘
〈エッセイ〉
出会いを大切に
はじめに
人生において出会いの大切さはいい古されてはいるが、まさに真実をついている言葉である。特に医学徒にとって、師との出会いは大切であり、諸君らの参考になればと願って、私は自分の体験を語ることにより出会いのすばらしさについて話したいと思う。
初期研修での患者さん達との出会い
私の学生時代は、まだ古き良き時代の最後の頃にあたり、自由で活力ある楽しい時代を過ごさせてもらった。大学の六年を通して所属していたサッカー部での先輩方との出会い、すばらしいクラスメイトとの出会い等の生涯の友達を得たことが何より大きなことであった。
昭和41年に卒業したが、卒業式を前にして楽しかった学生時代を振り返り、これと全く同じ六年間を繰り返せるなら何もいらないと思った程であった。しかし、卒業して医者になり、臨床の現場にとび込んだとたんに、学生時代とは比べものにならない生きがいのあるすばらしい世界がそこにあることを知って、改めて感動した。以来約30年間、内科医として文字通り臨床に感激しながら、ここまで歩いてきたが、その内容は、時の変遷と共に大きく変わってきたように思う。
医者になった始めは処方を覚え、救急処置の仕方を習い、胃透視や胃カメラ等の検査手技に熟達していくことに喜びを感じ、そしてまた、病棟医として患者さんを直接診療できることに胸を躍らせたのを覚えている。
やせ細って青白い顔で原因もわからず数年間寝ていた患者を、頸部小指頭大のリンパ節の腫脹を手がかりに、その生検の病理診断からリンパ節結核の診断を主治医になって一週間程で診断し、半年後に全快退院した時には見違えるような健康な美しい女性に変わり、彼女はしばらくして幸せな結婚式をあげた。このように、自分の手で、目の前の患者の病気を治していけるという感動は、学生時代にはとても予期していないことであった。
あるいはまた、週に一度大学病院を離れて、遠方の私立の消化器の専門病院に胃透視と胃カメラのアルバイトに行かせてもらった時、わずか半年間で九例の早期胃癌を診断し、全例手術にもっていき、その後再発もなく完全寛解したこともうれしい出来事であった。
その病院で早期胃癌の診断をしたのは私が初めてで、その中には当時としては珍しかったUA型やUB型が含まれていたこともあり、消化器内科に入局して二年目だった私には、ことさら、感激が強かったことを覚えている。
しかし、理想的医療を求めて全国的に広がった青年医師連合の運動は、当時、私がいた九州大学病院内でも燃え広がり、学内の殆んどの教官、医局員、学生が日本の医療の将来のあるべき姿を考えることに、多くの時間と情熱を割き、結果的には学内に機動隊が常駐するという異常な事態となったのだった。
友人の半分は大学に残り、半分は大学をやめて野に散る中で、私が行くあてもなく大学をやめたのは入局後三年たった時であった。
日野原先生との出会い
郷里の鹿児島に帰り、内科を開業していた父を手伝っていた私は向学の夢捨てきれず、米国臨床留学資格試験(ECFMG)に合格し、レジデントとして行く先の病院を探したが、時期的に良い病院はすでにあきがなく、三流以下の病院のみから許可の返事があった。
しかし、がっかりしていた私に朗報が舞い込んだ。聖路加国際病院の内科のシニアレジデントをしていた友人のY君が都合で止めることになり、その後任に私を推薦してくれたのである。すぐに面接にとんで行き、幸い採用されたが、ここでのシニアレジデントとしての体験は、私のその後の医療生活に極めて大きなものを残してくれた。
何よりも大きかったのは、すばらしい数多くの指導者に出会ったことで、中でも日野原重明先生(現病院長)との出会いは一種のカルチャーショックともいうべきもので、それまで少々天狗になっていた私の臨床の腕が思い上がりにすぎず、患者さんを診るということがどんなに厳しいものであり、そして奥の深いものであるかを教えて頂いたのであった。
日野原先生の回診は、毎日200人程の外来患者を診られたあとにあり、一人一人の患者さんに関する病棟医の説明に的確な指示を与え、少しでも疑問点があると、「なぜこの値は高いの?」など、「なぜ」と聞かれるのが常であった。この「なぜ」に答えを見つけようとする中から新しいことを学び、そしてまた、思いもかけない診断や治療に結びついて行くこともたびたびであった。常に患者さんの立場に立って考えるという医療人として最も大切な基本を教えて頂いたのもこの時であった。
米国式のレジデント制を柱とした研修教育体制の良い点をここで学んだが、同時に大学病院との人的交流が必ずしも十分でなく、大学との連携をもっと良くすることで、若い人の卒後教育の実効がもっと上がるのではないかということも感じたのであった。この時の体験が、後に私が大学で卒後教育に携わるようになって、研修病院と大学との有機的連携に力を入れることになったその源になっているといえる。
すなわち、現在私の教室には、愛称で我々が「臨床真黒こげコース」と呼んでいる卒後研修のコースがあり、卒後4〜10年間、心ゆくまで幅広い臨床研修に徹するというコースで、毎年4〜5名の若人がこのコースを選択している。
このコースは、卒業後すぐか、または入局して数年後に聖路加国際病院、沖縄中部病院、虎の門病院、飯塚病院などの国内研修病院で、あるいは米国のレジデントとして、2〜5年間研修し、大学においても間口を狭くしない形の研修体制を組み、臨床に強い医師を養成しようというものである。そのまま幅広い臨床医として育っていくか、適当な時期から特定の専門領域に入っていくかは、本人の希望で選択できるようにしている。
このコースの他に、クリニカルリサーチを組入れた通常のコースや大学院コースなどがあるが、コース間の移動も自由にできるようにしてある。
いずれのコースでも臨床に根ざしたものを目指しているが、最初に紹介した「臨床真黒こげコース」が臨床に徹したコースであり、かつまた、研修病院と大学の長所を組合わせたコースと自負している。このような卒後研修体制は、私が両者の長所を知り、また両者の短所に悩んだ自分自身の経験から試行したものであるが、この試行に飛び込んでくれた若人の力のおかげで、私の期待以上の成果を上げつつあることはうれしい限りである。
井形先生との出会い
生涯の恩師、井形昭弘先生(現国立療養所中部病院長)との出会いは、私が夢見ていた米国への臨床研修を断念したことから始まった。
日野原先生の御推薦もあって聖路加病院での研修中に、私はアルバート・アインシュタイン・メディカルセンターの内科にレジデントとしての留学が内定し、留学までのしばらくの間、英語の勉強もかねて横須賀の米国海軍病院の内科で研修させてもらっていた。
丁度その時、開業していた父親が脳卒中で倒れ、私は留学を断念し、郷里の鹿児島に帰り、父親の病気回復までの半年間、病院を一手に支えることになった。一度内定した留学先を断ると、それが記録に残って、良い病院への留学は不可能になるので、断ることは決断を要することではあったが、大切な両親のためだと考え、私は割りとあっさりと母親から電話を受けたその場で郷里へ帰ろうと即断したのであった。私はそのまま開業医として一生を終るつもりで、情熱を持って一般内科の診療に当たった。この時の開業医としての経験は、私にとって極めて貴重なものとなった。
その当時は、臨床医としての自分の力に自信を持っていた時期であったが、一生懸命患者さんの診療に当たることが、どれ程大きく感謝され、そしてまた、病院も目に見えて発展していくかということを実感させてもらった。
半年して病状がかなり回復し仕事に復帰してきた父親に、そのまま仕事を続けることを申し出たのであったが、もう一度大学に帰るよう説得され、鹿児島大学医学部第二内科の当時の主任教授の佐藤八郎先生に入局をお願いした。
佐藤先生の教室は、日本でも指折りの消化器内科で、また、先生は心の広い温かい方であった。先生は卒後5年も経っている私の入局の申し出を喜んで受け入れて下さった上で、丁度その時に新設された鹿児島大学の第三内科の井形昭弘教授のもとに入局して勉強するよう薦めて下さった。井形先生は東京大学の神経内科から42歳の若さで鹿児島大学第三内科の初代教授としてお見えになったのだった。私は井形先生にお会いし、すばらしい人に出会ったことを直感し、言葉の一つ一つに感動し、佐藤先生のお薦め通りに井形先生の門下生となった。
井形先生のもとで勉強させてもらう中で、井形先生の患者さんを大切にした診療への取り組みに感動する毎日が続いたことを覚えている。それまで全く経験したことのなかった神経内科の診療や研究が、想像したこともなかったほど面白く、奥の深いものであることを教わり、感激しながら過ごしているうちに、もう24年が経ってしまったことになる。
井形先生にお会いしていなければ私の人生は全く違うものになっていたと思うと、その井形先生に御紹介して下さった故佐藤八郎先生の御恩の深さに、どんなに感謝してもしすぎることはないと思っている。
難病の患者さん達との出会い
入局後一年たった頃、国立療養所南九州病院に待望の筋ジストロフィー病棟ができ、私は初代の神経内科医長として出張した。この少し前から、井形先生の方針で鹿児島県下の難病検診と取り組んでいたので、ここに移ってから更に難病検診に拍車がかかり、休日はよく検診で過ごした。学生のサークルとして「難病問題研究会」が発足し、一緒に県下をくまなく検診して回った。
この一連の検診で筋萎縮症の患者さん達の実態が明らかにされ、最も入院の必要な患者さん方には筋ジストロフィー病棟に入院してもらった。この私共の難病検診は、当時国からも高い評価を得た。一方、筋萎縮症の患者さんとの出会いにより、この病気の解明と治療法の確立というテーマを与えられたと感じ、以後そのために私の青春の情熱を注いでいった。
また、この時の検診で、井形先生と私達は特異な臨床症状を持つ痙性脊髄麻痺が極めて多いことに気付き、後にこれらの患者さん方がHTLV-Tというレトロウイルスによって起こる新しい疾患単位に位置づけられることを発見し、HAMと名付けるに至ったが、これもまた患者さんとの出会いを大切にすることが臨床家にとってどれ程大切であるかということを私共に実感させてくれた出来事であった。
留学先での師との出会い
筋ジストロフィー症の解明に取組みたいという私の願望は、出張先の筋ジストロフィー病棟から大学に帰ってもますます強くなり、昼間の診療が終ったあと、毎日夜中の一時頃まで研究室にこもる日が続いた。睡眠時間と食事の時間を切りつめて、それ以外の時間は一日中仕事と研究に夢中になっていた。
半年程たって、イギリスのニューキャッスルで行われた国際神経筋学会に参加し、ここで当時東京大学神経内科助教授であった杉田秀夫先生(現国立精神・神経センター総長)や東京大学薬理学教授であった江橋節郎先生にお会いし、国際舞台での日本人研究者の活躍に直に接し感動した。
その後、井形先生の御推薦のもとに、半年間江橋先生の研究室に国内留学し、そこで杉田先生からも直接研究を指導して頂いた。ここでの半年間で、サイエンスの厳しさと深さを教わり、毎日深夜まで研究される江橋先生や杉田先生の研究者としての真摯な姿に感銘を受け、そしてまた、すばらしいお人柄に感動したのであった。わずか半年ではあったが、この間に私のその後の研究者としての基礎が形成されたように思う。この後、井形先生のもとに帰り、再び夜も昼もない生活がスタートした。
それから三年後、杉田先生のもとにメイヨークリニックのエンゲル先生が訪ねてこられ、杉田先生の御紹介で鹿児島にも来て頂いた。エンゲル先生は当時筋肉病学の世界の第一人者であり(今でも尚第一人者であるが)、私が最も留学したいと願っていた先生であった。私は数々の論文を通して研究者としてのエンゲル先生にはすでに出会っていたわけであるが、エンゲル先生は私のことはそれ程ご存じではなかったので、鹿児島での数日間、私の研究の全てをみて頂いた。エンゲル先生は、私の研究を評価して下さって、その縁であっという間に留学が決まり、半年後に実現したのであった。留学が決定した時の感動がどれ程のものであったか、想像して頂けると思う。
メイヨークリニックでの2年8ヶ月の留学は、研究の上でも実に多くのものを得ることができたが、エンゲル先生の研究者としての生活や姿勢にもっと多くのものを学んだように思う。
そしてまた、もっと大切なことは、妻と娘2人の4人家族で、アメリカン・ライフを心ゆくまで楽しむことができ、我々家族にとって忘れることのできないすばらしい青春時代を過ごすことができたことであろう。留学時代に出会った多くの友人達も得がたい貴重な宝となった。
現在私の教室では常時10〜20人の若人が国内外に留学しているが、一流の研究室に留学することのすばらしさをできるだけ多くの若人に体験してもらいたいというのも私が留学を推奨する理由の一つである。
すばらしい教室員達との出会い
井形先生のもとに集まった若人は、本当にすばらしい人材が多かった。井形先生は教室員一人一人の個性を大切にされ、それぞれの能力を存分に発揮させることに腐心された。だから教室はいつも生き生きとしていた。
私は留学から帰ってきた1980年に助教授になり、学生の教育、教室員の指導、教室の運営も私の仕事の重要な部分となり、人を教えることの喜びを存分に味わった。
1987年には井形先生が鹿児島大学の学長になられ、後任の教授に就任させてもらったので、人を教える喜びに接する機会は更に多くなった。私の教室運営の基本方針は「井形イズムを継承し、発展させる」であり、教室員の能力をいかに存分に発揮させるかということに全力をあげてきた。
私が教授になって9年になるが、最近の5年程の間に教室員から5人の教授(福井医大第二内科・栗山勝教授、山形大学子病態学・一瀬白帝教授、鹿児島大臨床検査医学・丸山征郎教授、同難治性ウイルス疾患研究センター・出雲周二教授、同医療情報学・熊本一朗教授)が誕生し、また、公立、私立の多くの病院長や部長、医長が輩出して活躍しているが、いずれも井形イズムを実践してきた若者達の見事な開花といえよう。
教室員もすでに100人を越えたが、一人一人、方向性は異なるが、それぞれすばらしい能力を持っており、今後どんな花を咲かせていくか、楽しみである。残された教授生活12年を教室員ならびに学生の教育に全力で楽しませてもらったあと、定年になったら、今度は毎日一日中好きなゴルフをさせてもらおうと思っている。
おわりに
はじめ私はこのエッセイのタイトルを「出会いのすばらしさ」としていたが、途中で「出会いを大切に」に変更した。出会うことも大切だが、すばらしい出会いを「感じ」、それを「大事にする」ことこそ極めて大切なことであると信ずるからである。私の人生にとって最もすばらしい出会いであった妻との出会いを例にとっても、お見合いであったが、すばらしい人だと「感じる」ことができた私自身の感性も大切であったわけで、このエッセイで述べたすばらしい出会いの数々も、そのすばらしさを感ずることができなければただの出会いにすぎなかったと思う。このことこそが、諸君ら若い学徒に最も私が贈りたい言葉である。