真宗音文化研究会・創刊号 -渡邊 顯信-

 ・ 「佛教讃歌の現状」1つの視点(上) … 渡邊 顯信


(紙枚の関係により本号では1・2を掲載し、3・4は第二号に掲載する。)
1 はじめに‥ 問題の所在(与えられた課題)
2 佛教讃歌の誕生経緯、その普及・発展の歩み
3 佛教教団内の佛教讃歌の現状及び今後の可能性
4 布教・教化活動における佛教讃歌の実践的活用の展望

1 はじめに‥問題の所在(与えられた課題)

近年 洋の東西を越え幅広い音楽活動を推進されている宣心院大谷暢文師より、下記の課題を与えられた。

[ 佛教讃歌の現状について ]
明治期のキリスト教における賛美歌の影響を受けて作られ、普及してきたことは確かなれど、 賛美歌に比べると、十分普及したとは言えないと思われる。また、佛教教団内部においての 方向性としても、停滞もしくは衰退気味で、数多くの佛教讃歌が十分活用されていないのが現状。 そのような現状と今後の可能性、またいかに佛教讃歌を布教に生かしていくか、という点についての 所感提出を。

師の誠実な姿勢に導かれ、浅学菲才の身を恥じながら、与えられたご縁を新たな学びの機縁にさせて戴くことを ご容認願いたい。拙稿を進めるため便宜的に与えられた課題を前述の四分形式にして卑見を提出させていただく。 まずはじめに、拙稿なりの「佛教讃歌の定義」を確認しておきたい。
周知のように、明治期以前から日本では佛教の音樂を表現する言葉として、「声明」の語が使用されている。 「声明」は サンスクリット「abda-vidy」の直訳語であるが、本来はインドの学問体系の基本的分類法 「五明Paca-vidy-sthna」の最初にあげられる術語で、言語学や文字音韻学などをその内容としていた。 すべての学問の基本となるものであり、「bha(注釈・音・言)」や「phaka(暗唱者・朗読者)」の別名もある ように、声楽等の音楽性も重要な要素となっている。因みに五明とは、次の通りである。

 (1)声 明(abda-vidy)…言語・文字音韻・文法に関する学問。
 (2)因 明(Hetu-vidy)…論理学、真理解明に関する学問。
 (3)内 明(Adhytma-vidy)… 自宗の教理・教義・主旨、特に佛教の真理に関する学問。
 (4)医方明(Cikits-vidy)… 医術(医学・薬学 etc)に関する学問。
 (5)工巧明(ilpa-karma-sthna-vidy)… 諸種の工芸・技術・芸能・暦数に関する学問。
     (注.身工巧…細工・書画・舞踊  語工巧…讃詠・吟唱)

このように「声明(abda-vidy)は、意思交換を円滑にする学問成立の基本であり、重要な要素であった。 さて「佛教音樂」の定義について、「佛教の音樂」と分解し拙稿の基本的姿勢を簡単に記しておきたい。
「佛教」は、周知の通り「佛陀(Buddha)自覚者の教え」であり、語根「budh(目覚める、悟る)」と 過去受動分詞「-ta」を語源とする言葉で、「本当(真実)ののあり方に目覚めた人の教法(こころ・精神)」であり、 「苦しみ悩みにもつれている人生のから開放され、解けた方の教え」とも換言できようか。
「音樂」は、music( musike, musica)に対応する語であり、中国古代でも道徳や倫理と密接不可分な関係に ある術語であった。拙稿ではその詳細な分析や論述を省略するが、「音(心にしみ伝わる真実のひびき)」を 「楽しむ(願う)心の響流関係」と理解している。
次に「佛教讃歌、佛教音樂」の誕生した当時の社会的状況理解も、重要な検討要素となろう。明治維新による 厳しくも激しい社会改革の波浪は、旧態依然としていた封建的教団体制の佛教界にも、例外なく根本的な改革を 求めてきていた。 1868(慶応四)年3月の神祇官再興・祭政一致復興の布告に始まる一連の廃佛毀釈は、 「三条教則(1872[明治5]年)」、「大教院(1873[明治6]年)」等とその都度変化はあったものの、 教団をして護法運動から近代的教団体制改革へと向かわしめた。
  すなわち、従来の「坊官制度(家老・家司・用人)」による宗務機構が見直され、「衆議所(1869[明治2]年3月)」、「三局制(講学局・法務局・事務局‥同年七月)」を経て、「仮寺務所(執当・執事・議事・納戸‥一八七一[明治四]年八月)」、「寺務所(改正掛による寺務改正の効果あり。 1872[明治5]年3月)」制度へと逐次整備されて行くことになる。
この宗務機構および学事の近代化機運促進のうえで、大きな影響を及ぼした事象の一つに、 東本願寺新法主現如(大谷光瑩‥1852‐1923)の欧州宗教事情視察旅行(1872[明治5]年9月13 日〜明治6年7月23日)があげられる。現如は、世界の大勢を知り西洋文明の現実を見聞し、あすの東本願寺 教団への憂いを払拭すべき手段として、この旅行を決行した。
因みに当時の明治新政府も前年の1871(明治4)年11月、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・ 伊藤博文などを欧米に派遣し、以って国政充実・整備の手段としていた。西本願寺もまた、1872(明治5)年1月、 連枝澤融・島地黙雷・赤松連城などを欧州に派遣している。
岩倉より半月余り前にパリに着いていた現如らは、かの地でこの政府要人たちとも数回会談している。 ところで現如はその随行員に石川舜台・松本白華・成島柳北・関信三の四名を命じたが、彼らは後年、 それぞれに大きな足跡を残すことになる。
現如らの帰朝は、1873(明治6)年7月23日であった。その翌月8月14日には、寺務所に総務職が 設置され、現如が任ぜられ、新宗務体制の整備が始められた。同日、石川舜台も改正掛兼議事・翻訳局用掛に 任ぜられている。翌8月15日には、成島柳北を局長として迎え、柳北の門弟である真宗東派学塾(浅草別院内) の英学助教国井忠雄を附属とした翻訳局が創設され、開局の準備が開始された。
東本願寺が宗務機構として「四課制(式務課・教育課・度支課・監正課)」を整備したのは、1875 (明治8)年5月のことである。この事実から、当時の東本願寺が欧州視察で得た現如らの新知識に寄せた熱い 期待や時代を先取りする事業《翻訳局創設》を最優先させた趣意が容易に想像できる。開局式は1873(明治 6)年11月5日で次のような主旨の記録が残されている。
「佛教ヲ奉ズル者ヲシテ、其ノ教法ノ起コリシ国ノ事跡、国土ヲ熟知セシメ、隔靴掻痒ノ感ナカラシムル事。 〔中略〕 欧羅巴、米利堅諸国、皆他邦ノ学術ヲ手広ク考究シ、自国ノ知識ヲ拡開スルノ時ニアタリ、本邦 ニ於テモ諸国ノ学科ヲ兼学スベキハ勿論ナリ、マシテ佛教ヲ奉ズル者、印度ノ学術ニ従事セザレバ、基本ヲ 知ラザルニ依テ、却テ欧米諸州ノ人ニ笑ハルルニ至ラン・・・・・〔後略〕」
この表現に、当時の切迫した状況が知られよう。すなわち、佛教の研究にはサンスクリット(梵語)の原典研 究が不可欠であることを、遍く僧徒に知らしめ、読ましめんとすることにあり、諸外国の各宗教の実態も知ら しめんとすることでもあった。
かくして遠大な計画・構想を以って、欧米文化吸収の努力を開始した東本願寺は、翻訳局員として当時の優秀な 人材を広く在野からも登用している。インド最古の宗教文献として著名な『リグ・ヴェーダ本集 (g-Veda Sahit)』の翻訳事業(英訳からの重訳)を筆頭に、現在三十三部一三七冊余の成果が残されている。 翻訳局開設は、東本願寺の新規宗政改革の一環ではあったが、同時にわが国のサンスクリット文献研究の曙光と もなっている。すなわち、英訳からの翻訳に限界を感じていた東本願寺は、本格的サンスクリット修学の途を開 いたのである。
1876(明治9)年6月、南條文雄(1849〜1927)・笠原研壽(1852〜1883)の二名を英国 のサンスクリット学者 Max Mller(1823〜1900)の許に留学させたのである。実にわが国の近代的佛教 研究の開幕であった。
この気運を引き継いだのは、十四年後の高楠順次郎(1866〜1945 Oxford Univ. )、
二十三年後の荻原雲来(1869〜1937 Strasbourg Univ.)、24年後の渡邊海旭(1872 〜1933)などである。爾来、わが国の近代的な佛教文献研究は急速に進展することになったのである。
2 佛教讃歌の誕生経緯、その普及・発展のあゆみ

 本項目については、すでに先学諸師の優れた業績が多数の著作や論稿として蓄積されている。 その詳細については、個々の論著に委ねるのが妥当なので、拙稿ではその概略を略述的に紹介するにとどめたい。  「佛教讃歌」という名称には、「佛教唱歌・讃佛歌・佛教聖歌・讃仰歌」などそれぞれの時代状況により、 数種の呼称が考えられ、使用されてきた。

(1) 明治期
この明治期の文明開化は、「佛教音楽の創草期」にあたり、佛教唱歌・佛教童謡の運動開始時代でもある。 一八七九(明治12)年「文部省音楽取調掛」設置の洋楽手法による作曲開始は、和洋折衷的分野も開拓。 「越天楽」のメロディーによる替歌『法の深山(1890年 作詩 土岐善静)』などは、その初期的作品群の 典型として有名。
1887(明治20)年「名古屋法雨協会」 設立、1889(明治22)年 岩井一水(東京 小石川) 「佛教唱歌会」結成、1902(明治35)年 東京浅草 九品寺内 東光社「佛教音楽会」創設などの組織結成は、 佛教唱歌の運動を促進せしめた。具体的には岩井一水・土岐善静・大内青巒・近角常観・暁烏 敏等の精力的 推進により、佛教唱歌や佛教童謡として日曜学校・幼稚園教育の中で利用され、諸行事で頻繁に活用されていた。 佛教讃歌そのものではないが、当時の気運が知られる一般的作品の一つとして、1900(明治33)年 瀧 廉太郎 22歳時の発表作品『花』があげられる。本曲は、彼の組曲「四季[花盛(花の初期名)・納涼・月・雪]」中の春の 作品であり、日本における西洋音階を用いた最初の合唱作品である。異色的事例として1912(明治45)年2月 「歌劇 釈迦」(松尾松葉 詞 ハインリッヒ・ヴェルクマイスター 曲)の帝国劇場上演がある。

(2) 大正期
大正期には、近代的気運の高揚から「大正デモクラシー」なる言葉も流行。教化的文語調が多かった文部省制定唱歌 への問題展開として、言文一致への機運が高まり、幼児・児童性を配慮した口語調の芸術性豊かな童謡や詩の重要性 が提唱された。1918(大正7)年発刊の鈴木三重吉主宰の児童文芸雑誌『赤い鳥』や翌年発刊の『金の船 (後に改題「金の星」)』などに北原白秋・西條八十や野口雨情・三木露風などが新しい童話や童謡を発表。 彼らの詩に積極的に作曲した山田耕作(昭和五年以降 耕筰)や成田為三・弘田龍太郎等が、そしてまた中山晋平 や本居長世・草川信等が優れた作品を多数発表し、全国的に流行して行った。今日もなお愛唱され歌い継がれて いる名作が多い。彼らの多くが佛教を題材にした作品も発表していたこの時期は、佛教音楽の成長期とも言われ、 数多くの基本的な「佛教讃歌」が生み出されている。
1918(大正7)年「恩徳讃[1]」(親鸞和讃 澤 康雄 曲 本願寺派布哇開教教務所発表)、 1919(大正8)年「み佛に抱かれて」(日曜学校同人 詞 野村成仁 曲)、1923(大正12)年 「真宗宗歌」(立教開宗700年記念 真宗協和会[真宗連合の前身])、1925(大正15)年 「報恩講の歌」 (黒瀬智円 詞 野村成仁 曲)などが発表された。明治期同様、1922(大正11)年「歌劇 釈 迦」 (伊庭 孝 詞 竹内平吉 曲)の浅草 金龍館上演記録もある。

(3) 昭和期
昭和期には、キリスト教聖歌に対して「佛教聖歌」の名称が表面化するほどの佛教音楽の隆盛期を迎える。 新元号に替わって早々の1927(昭和2)年、梵文テキストの「歌劇 佛陀の生涯 ―佛所行讃―(世尊の降誕)」 (弘田龍太郎 曲 東京大学佛教青年会館上演)も注目されるが、特筆事項は、1928(昭和3)年 文部省宗教局内の 「佛教音楽協会」創設である。理事・評議員には 文学者(幸田露伴・高野辰之・野口雨情・北原白秋等)や 作曲家(田辺尚雄・小松耕輔・本居長世・山田耕作・弘田龍太郎・藤井制心等)、その他 佛教学界 (高楠順次郎・常盤大定・椎尾弁匡・小野清一郎)や財界の有力者等各分野の有識者を擁していた。 具体的には、1929(昭和4)年「佛教聖歌 第壱回発表 懸賞当選歌並曲『花祭の歌・朝の歌』」のように、 「新作歌詞の公募、専門家の作曲後に発表演奏会」なる形式で、1940(昭和15)年「佛教聖歌 第十一回発表 懸賞当選歌並曲」発刊まで 合計173曲が発表・発行され、佛教音楽活動への影響は多大であったが、 第二次世界大戦(太平洋戦争)勃発という時代の流れのためにストップ。
ところで、この官制的佛教聖歌運動が大勢を占める中で、無名の詩人江崎小秋(1902〜1945)が創設した 「日本佛教童謡協会」(1927[昭和2]年)の業績はあまり知られていない。拙稿では、その概略を確認しておく 必要がある。
江崎は、「正義や真理のためと信じ、終日、激しい労働に黙々と汗しながらも、貧しさに追われながら死んで行く純 情そのものの人々」を虐げる者の、あまりに多い現実世相を悲嘆して、「純情な人々にこそ与えられるべき安慰のた めに」、そしてまた「児童の情操教育を阻害している軍歌優先の学校教育の偏狭さに対する改革のために」、佛教童謡 の重大使命を決意しての設立趣旨であった。崇敬していた野口雨情の激励とその紹介により、佛教音樂を研究していた 弘田龍太郎との出遇いにより、「私の勇躍は筆舌に尽くされなかった」と言う。
さらに江崎は言う。「佛教の文字や、寺院殿堂、佛像、佛具等々が歌謡に入っているから讃佛歌であるとか、 佛教民謡、佛教童謡であるというような見解は、正しくない。作品の中に流れているあるものこそ宗教歌謡であり、 佛教歌謡である。わが国に伝播されている古謡こそ佛教歌謡の母胎であり、祖先の声である。今、我々は、この見地に 起ち上がって復興させねばならない。佛陀の加護や必ずと信ずる。‥‥‥」と。
このような信念のもとで、佛教文芸活動や『佛教童謡曲譜と遊戯』シリーズの出版とその実技指導や普及活動を、 本多鐵麿や賀来琢磨などのコンビとともに努めている。1932(昭和7)年には協会の機関誌『新佛教音楽』を発刊 、その顧問に高楠順次郎・北原白秋・弘田龍太郎・中山晋平・宮城道雄・野口雨情・藤井清水などの支援を得、 同人には本多鐵麿・賀来琢磨・吉川孝一・小松清などが参加している。そして1934(昭和9)年には、 『佛教音楽全集T佛教聖歌曲集8(児童篇)』なども刊行。しかし世相が急速に右傾化していったのは、 先述の通りで、1945(昭和20)年5月25日夜、数度目の東京大空襲で、江崎は焼死した。遺体は運び去 られて見つからなかったという。

(4) 戦後以降
1945(昭和20)年8月15日、6千万人もの死傷者を記録した過酷な第二次世界大戦が終結し、全世界的な 恒久平和が約束されたが、これまでの国家体制を根底からくつがえされた日本の社会は、初めての敗戦で絶望的な 混乱の極みにあった。
1947(昭和22)年3月、大谷光暢・智子東本願寺法主夫妻は、この混乱した社会状況を何とか音樂の力で 復興したいと願い「大谷樂苑」を創設し、翌 1948(昭和23)年6月 公募詞による新作讃仰歌 一〇曲を 発表演奏している。中断していた日本の佛教讃歌創作活動復活の端緒となった。 因みに今日でも各宗派で頻繁に歌 われている「みほとけは」(仲野良一 詞 信時 潔 曲)は、大谷樂苑選定の「讃仰歌第一番」であり、1977 (昭和52)年の創立30年演奏会までの発表総数は30数曲に及ぶ。
 数年前、ある演奏家(打楽器)がしみじみと感想を伝えて下さった。「昭和初期・中期の大作曲家達がこのよう な作品を多数残しておられたとは知らず、企画・制作して参られた大谷の皆様に敬意を表します」と。
 「大谷樂苑」創設の翌1948(昭和23)年冬、別の団体も胎動開始。「伝統の宗教を活かしつつ 近代音楽と 四つに組んで、日本の音楽界に新生面を開拓」の趣旨で、大谷派内の音楽家(権堂円立・清水 洪・清水 脩・岩崎成章 等)を中心に、「日本宗教音楽協会」が発足。早速 山田耕筰「梵音響流」・清水 脩「カンタータ 蓮如」が中心の 「日本宗教音楽大演奏会」を開催(東京日比谷公会堂[四月二十四日]、京都 東本願寺 大師堂[五月三日]、大阪 朝日会館[五月四日])している。
この演奏会は、「佛教音楽の進むべき道 ― 大きな反響を与えた演奏会 ―」として高く評価された。翌昭和二十 四年四月には、清水 脩 曲「交声曲『平和』」中心の「日本宗教音楽演奏会」が京都 松竹座で開催されている。
対日講和条約発効による新生日本誕生の翌年一九五三(昭和二十八)年、佛教系大学(大谷・龍谷・京女・光華)の 活動が原動力となり、「一九五三年四月三十日作曲‥大谷大学男声合唱団・龍谷大学男声合唱団のために」との 献辞がある新作男声合唱曲も契機となって「京都学生佛教音樂研究会(略称 学佛音)」が発足した。
その会則第2条に「佛教音楽を基とし、合唱音楽を中心に会員相互の宗教的情操を養い、佛教音楽の研究並びに 普及発展を期す」と謳っている。同年九月の第一回演奏会では、その新曲、《メッツォソプラノ・テノール ソロ付 「交声曲『阿難』」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)》が初演されている。その後、一九五六(昭和三十一)年の 「ブッダ・ジャヤンティ(釋尊降誕二五〇〇年記念行事)」での「交声曲『佛陀』」 (長田恒雄 詞 伊藤完夫 曲)」演奏、一九六一(昭和三十六)年の親鸞聖人七〇〇回御遠忌記念 「交声曲『歎異抄』(土岐善麿 詞 清水 脩 曲)」初演では、中心団体となるなど社会的行事にも積極的に 参加していた。因みにこの「交声曲『歎異抄』発表初演」は、親鸞聖人七〇〇回御遠忌記念事業として初めての そして唯一の「東西両本願寺合同主催」行事であった。しかし、この「学佛音」は、発足十年を迎えて間もない頃、 残念ながら解散してしまった。
一九六一(昭和三十六)年 親鸞聖人七〇〇回御遠忌法要は、佛教讃歌の必要性と組織的進展を願った更なる組織 「大谷派合唱連盟(大谷派本願寺)」や「佛教音楽研究所(本願寺派本願寺)」の設立に結実し、 今日まで継承されている。以下に戦後の作品群の若干を年次的に抄録してみよう。

一九四八(昭和23)年 「山科の路」(長田 恒雄 詞 清水 脩 曲)
蓮如上人四五〇回忌法要
交声曲 蓮 如」(土岐 善麿 詞 清水 脩 曲)
[ = 一九四九(昭和24)年 大谷派本願寺 厳修。
一九九八(平成10) 年五〇〇回忌法要 厳修時再演。]
一九五〇(昭和25)年 交声曲「樹下燦々」(阿南知也 詞 清水 脩 曲)
「禮讃 無量壽」(親鸞 正信偈 清水 脩 曲)
一九五二(昭和27)年 男声合唱組曲「廟堂頌」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)
交声曲「降誕讃歌」(土岐善麿 詞 清水 脩 曲)
一九五三(昭和28)年 「たとひ大千世界に」(親鸞 和讃 清水 脩 曲)
交声曲「阿 難」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)
一九五四(昭和29)年 交声曲「大いなる母」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)
「雲霧頌」(川上清吉 詞 清水 脩 曲)
一九五五(昭和30)年 「想 念」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)
「独 居」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)
一九五六(昭和31)年 南方佛教二五〇〇年記念
交声曲「佛 陀」(長田恒雄 詞 伊藤完夫 曲)
「無漏の灯」(長岡宜雄 詞 清水 脩 曲)
「朝」(長田恒雄 詞 清水 脩 曲)
「板敷山の夜」(長田恒雄 詞 清瀬保二 曲)
[大谷樂苑創立五周年記念]
一九五七(昭和32)年 「菩 提」(遊亀山清照 詞 清水 脩 曲)
一九五八(昭和33)年 「小さきいのち」(水野行信 詞 清水 脩 曲)
「み光さやか」(青木啓介 詞 清水 脩 曲)
「煩悩に眼さえられて」(親鸞 和讃 清水 脩 曲)
交響曲「涅 槃」(黛 敏郎 曲)
一九六一(昭和36)年 親鸞聖人七〇〇回忌法要
交声曲「歎異抄」全十章(土岐善麿 詞 清水 脩 曲)
一九六二(昭和37)年 佛教楽劇「念佛太郎左」(長田恒雄 詞 菅野浩和 曲)
一九六三(昭和38)年 「聖徳太子」(薮田義雄 詞 清水 脩 曲)
「弥陀の名号となえつつ」(親鸞 和讃 清水 脩 曲)
一九六六(昭和41)年 傳教大師生誕一二〇〇年記念
交声曲「傳教大師讃歌」全九章(土岐善麿 詞 清水 脩 曲)
一九六六(昭和41)年 交声曲「涅 槃」(森 正隆 詞 大中 恩 曲)
交響曲第六番「シンフォニア・サンガ」(松下真一 曲)
一九七三(昭和48)年 親鸞聖人八〇〇年慶讃法要
頌讃曲「親 鸞」(井上 靖 詞 松下真一 曲)
一九七四(昭和49)年 法然上人 開宗八〇〇年慶讃法要
「音楽法要連頌」(薮田義雄 詞 團 伊玖磨 曲)
一九七五(昭和50)年 「佛 陀 @」(松下真一 曲)
一九七六(昭和51)年 「佛 陀 A」(松下真一 曲)
一九七八(昭和53)年 「涅槃の時」(薮田義雄 詞 小山 章三 曲)
一九八六(昭和61)年 歌劇「親 鸞」(菊村紀彦 詞・曲)
一九八八(昭和63)年 「戦争に いのち奪われた あなた方よ」(高 史明 詞 木村雅信 曲)
一九九六(平成8)年 蓮如上人五〇〇回御遠忌記念
混声合唱組曲「蓮如抄」(太宰行信 詞 木村雅信 曲)
一九九八(平成10)年 蓮如上人五〇〇回忌法要記念
「音楽法要」(木村雅信 編)
蓮如上人五〇〇回忌法要記念
「蓮如讃歌」(仲野良一 詞 木村雅信 曲)
蓮如上人五〇〇回忌法要記念
「めぐまれしこのいのちあり」(太宰行信 詞 木村雅信 曲)
二〇〇二(平成14)年 御堂合唱団創立四〇年記念
「花こぶし[恵信尼文書]」(渡邊愛子 詞 安谷屋武人 曲)

本抄録の最後に、近年の佛教音楽関係出版物の二・三点を確認しておく。

一九九四(平成6)年 『浄土の音楽集成』 (全二十四巻 同朋舎出版編)
(一九九四(平成6)年八月三十一日 同朋舎出版)
Aセット  佛教讃歌(CD Book・楽譜 全十二巻)
Bセット  法要儀式のための雅楽 (CD 全二巻)
法要儀式のための声明(CD 全八巻)
VIDEO(解説 全二巻)
一九九五(平成7)年 『佛教音楽辞典』 (天野傳中・飛鳥寛栗・岩田宗一等編)
(一九九五(平成7)年五月二十日 法蔵館)
一九九九(平成11)年 『それは仏教唱歌から始まった 戦前仏教音楽事情』(飛鳥寛栗)
(一九九九(平成11)年十二月二十八日 樹心社)

以上抄録ゆえの限界はあるが、合唱作品を中心にその流れを辿ると、昭和二十年代前半から四十年頃の 清水作品が際立つ。これは学佛音を中心とした特に谷大・龍大両男声合唱団育成への熱い期待を物語っている。
しかしその後始まった高度経済成長の進展やGNP世界第二位など、利潤第一主義的社会現象は、過度の消費社会 の拡大に直結し、趣味や興味など関心の多様化は、「音楽機器の電化」とともに新種の影響をもたらした。
すなわちカラオケ産業の隆盛に象徴的な「個人プレイ重視傾向」であり、これまでの「大勢の心を合わせての アンサンブルやハーモニーを創造する喜びへの軽視傾向」である。「以降次号へ」