真宗音文化研究会・創刊号 -渡辺 愛子-
 ・仏典童話執筆余話 … 渡辺 愛子

不可思議としかいいようの無いご縁によって仏典童話を書き始めて三十七年が経ちました。 処女作の「ジャータカ物語」三冊は二十年間増刷が続けられました。「仏典童話」も初版から十年間増刷が続けられ、 まもなく第二集が出版されます。三年前には英語訳が出され、ラジオで放送されると、繰返し聴きたいという要望に 応えて、二年前に朗読のCDも出版されました。さらにアニメ化されてケーブルテレビで放映され、現在十五作が三本の ビデオカセットになって出版されています。昨年にはエスペラント訳が出版され、それを読まれたウズベキスタンの 平和運動家がIBC(International Biographical Centre Cambridge,England)に推薦、 Twenty-First Century Award for Achievementという賞が届けられたのが昨日のことでした。
こうした一連の流れは、私個人にとりましては「何故こんなにまで?」と不思議を通り越して、空恐ろしいような 感じさえ覚えるものです。しかし、個人の立場を離れてこの状況を観るとき、これほどに必要とされている事実に 出会います。

  二千五百年前、人間ゴータマが仏陀・釋尊となってくださったのは、釋尊ご自身の内的要請とともに、 それ無くしては真の人生を生きてゆけない時代社会の状況がありました。
親鸞聖人が釋尊の教えの中に淨土真宗を顕かにして下さったのも混迷極まりない時代にあっての深い自己凝視から でした。
四、五年まえアメリカの友人が、ニューヨークではイスラム教に改宗する人が増えていると言いました。 純粋に聖なるものを求めての改宗というよりは、政治的、経済的理由によるのではないかという危惧を禁じえません でした。ちょうどその頃、勤務先の光華女子大学のセミナーで仏教徒として他の諸宗教を学ぼうという取組みが ありました。六回にわたる連続講座のあと私自身、如何に知らないかという事実に驚き、同時に、いずれも目指す 方向は変わらない、ただその民族、歴史、文化、自然環境などの差異がそれぞれの特色になっていることを確認しま した。これからは仏教の学びとともに意識して、他の宗教も学んでゆかねばと痛感しました。
そこに九・一一テロが起きました。驚きは言うまでもありませんが、決して晴天の霹靂ではありませんでした。 すでにタリバーンによるバーミヤンの大仏爆破がありました。このような重大な出来事にただ反戦の署名をインタ ーネットで送るだけで、どこかで他所事としている自分に後ろめたいものがありました。 「一市民の私に何ができるというのか」という開き直りで誤魔化してきました。
そうこうしている内に、身近に年少者の凄惨な事件がまた起きてしまいました。自殺者は一年に三万人を超えるように なり、鉄道での人身事故には驚かなくなりつつあります。そして自衛隊のイラク派遣が現実問題となりました。 もはや「一市民に何ができるというのか」という姿勢から「一市民の私に何かできることはないのか」に変わらざ るをえなくなりました。遅きに失する感はありますが。
そんな時に「真宗音文化研究会」が設立されました。同じことを考えていてくださったと、意を強くしています。 そこで、私にできるかもしれないことは仏典童話ということになります。まず、仏典童話との出遇いから書くことに します。

 大谷大学の二回生の頃だと記憶しています。東本願寺の「同朋」の編集をしておられた松本梶丸氏が童話のページを 刷新したいと彼の先輩に相談、原始仏教を専攻し大谷大学図書館に勤務していたその先輩はジャータカを提案しました。 松本さんはそれに賛成し、ついでに書く人も推薦して欲しいとなりました。昼食時間を図書館で過ごしていた私にこの 仕事が訪れました。一介の学生に一年間の童話連載の仕事は願ってもあり得ない幸運でしたが、肝腎のジャータカを全 く知らないのですから話になりません。残念ながら断るほかありませんでした。
すると、司書氏は南伝大蔵経二十八巻から三十九巻を机上において「やるだけやってみてはどうですか」とのこと でした。
さて、読んでみると初めてのはずですのに、どこかで聞いたことがあるような、懐かしさを感じました。 そして五四七話中三一六番目、兎本生物語まで読み進んだ時、身震いがしました。それは私が小学校一年生のとき 、学芸会で六年生が演じた劇と同じ物語でした。戦後間もない子供時代、テレビは勿論、ラジオがあったかどうか 記憶がおぼろです。文化にほど遠い暮らしのなかで、幼稚園も保育園も無縁で、名前の読み書きも知らずに小学校に 入学しました。国語、算数などの他、オルガン(足踏み)の伴奏で歌を習ったり、運動会のためにお遊戯の練習をする のが別世界のことのように楽しかった、そんな時代でした。
そういう一年生の秋、生まれて初めての学芸会は私の人生初の一大文化イヴェントと言っても大げさではありませんで した。身長の低い私は講堂の最前列にしゃがみ、目の前の舞台に次々に繰り広げられる合唱、合奏、劇などを、文字通 りかぶりつくように観ていたのです。その最後が六年生の劇で、それが兎本生物語でした。タイトルが何であったかは 覚えていません。
物語はおおよそ次のようでした。舞台は森の中、杖にすがって歩くやせた老人を助けようと、食べ物を探してきた森の 動物たちがそれを調理するために焚き火を熾すと、食べ物を探せなかった兎が「どうか私を召し上がってください」と 焚き火の中に飛び込むのです。すると老人はたちまち神さまの姿になり、空腹な老人のために命を捧げようとした兎の 真心に感じてこれを世界中の人々に未来永劫に伝えたいと、月のおもてに兎の姿を描いた、というストーリーでした。 六歳の私がそれをどの程度理解したかわかりません。ただ途方もなく感動したことは確かです。現代のように進んだ技 術のないころ、組んだ薪を赤いセロファンで覆って、下から電球で照らした程度のことだったろうと思うのですが、燃 え盛る焚き火に飛び込む兎と自分が一つになって拳を握り、ドキドキと激しい動悸をしていたに違いありません。それ が一瞬の後に神さまに救われ、その上、永遠にほめたたえられるという物語に、子供ながらに難儀の多い暮らしを 生き抜いてゆく励ましを受けたのだと思います。
それから十三年後、大谷大学の図書館で兎本生物語と再会したのです。幼な心に蒔かれた種が途中で枯れることなく 私の内で生きつづけ、発芽の機を得たのでした。私は迷うことなく「月のウサギ」を第一作として提出しました。 当時の出版部長、宗正元氏は、文筆修行もしたことのない素人のものを温かく受け容れてくださったのでした。 これがジャータカとの出遇いです。そして一年間「同朋」に連載させて頂いたのです。次の執筆者の都合で十四話書 きました。連載が済んでしばらく後、読者からジャータカをまとめて欲しいとの声があったそうで、 こんなに恵まれすぎて良いものかと思ったものです。
あと一話書き加えて十五話とし、五話ずつ三巻で出版と決まり「金色の鹿」 ―ジャータカ物語― がかわしまきくこ さんの挿絵で出版されました。昭和四十五年春のことでした。
二巻目は出ないまま、やがて売り切れ、気がつくと手許に一冊もありませんでした。私の処女出版をせめて一冊手許 に残したく、出版部に電話をかけたのはほぼ十年後でした。出版部にも残りはないとの返事、事情を話すと電話の相 手は偶然にも大学時代の同級生、海秀道氏でした。懐かしさと気安さが手伝って、十年前の出版計画の話まで遡ってい ました。海氏のお陰で新たに三巻のジャータカ物語が十五話十五人の画家の挿絵によって出版されました。 それが現在の絵本ジャータカ物語です。昭和五十六年のことでした。
私にこの道を拓いてくれた前述の司書氏と卒業後結婚、その夫が難病から生還してくれたのがこの頃でした。 他社の同種の仕事が一段落した頃に、再び出版部から執筆依頼、今度はジャータカに限定せず広く経典に取材してと いうものでした。こうしてようやくこれが私のライフワークと気づいたのです。
故西元宗助先生から花岡大学先生をご紹介頂いたのもこの時でした。花岡先生はそれまで「仏教童話」と呼んでいた のを「仏典童話」とされました。それはいわゆるお説教を脱して文学を志向されるものでした。私も「ジャータカ物語」 がお説教的であったことが反省されました。文学の高みにまでは届かなくとも、せめてその姿勢でありた いと願いました。
花岡先生の忘れられないご教示は「何も教えることはありません。ただひたすら書くことです」とのことでした。 これは大きな導きでした。
私の場合、そもそもの出発が子供時代の感動との再会であったことが、筆の進め方を自ずと決めてくれたのではない かと思います。執筆にあたって予め留意するというような客観性は持ち合わせず、ただ感動を伝えたい、それに尽き ると言えます。
お経を読んで、その中に感動せずにいられない物語に出遇うと、ただひたすらそれを伝えたいという一種の衝動のか たまりにグングンと押されるようにして書き進んでいる、そんな気がします。
問題は肝腎の感動がいつも起こるわけにはいかないことです。どちらかといえば感動しやすい性質であると言えます。 つい夢中で感動を話している時「そんな些細なこと…」とつまらなさそうな表情に時々出会います。「また始まった」 という反応もあり、「疲れない?」と呆れられることもあります。「そんな風に感動する人はボケないそうよ」 と近頃とみに物忘れが激しくなった私は皮肉られる事もあります。些細なことにいちいち感動していられるほど人生は 長くはないと言われることもあります。そういう性質であってもお経に向かって童話の材料を探す時、 なかなか見当たらない方が多いのです。一ヶ月の猶予期間のうち三週間ほどは取材に当てられます、と言えば聞こ えがいいのですが、事実は三週間が無為に過ぎてしまうのです。お経の量は膨大ですから次から次へと探せば果てしな い作業です。そして恐らくそうすれば必ず見つかるということにはならないはずです。
それで、今月はこの章からと おおよそ区切って読みます。最初のうちはこれぞという話に出会わないのです。何度か繰返し読みます。 それでも見つからずかなり焦ってきます。締切を控えて背水の陣で望みます。するとそれまではさほどに感じなかった 話が突然、光を放ち始めるのです。何のことはありません。感動にさえ慣れてしまっているのです。 あるいはお経の世界になれてアンテナが錆び、錆び落としに毎月三週間も必要だったということです。 題材が決まれば、あとはただひたすらにその感動を伝えることに没頭します。いつもぎりぎりか二、三日遅れて提出、 出版部の担当の方は本当に辛抱強く耐えて下さったことです。
「同朋新聞」の連載中もまた「仏典童話」が出版されてからも、読者の方々から感想を頂きます。その中で特に 心に残るのは、私自身はそこまで気づいて書いていなかった、それを読者の方が深く読み取ってくださっているこ とです。また、読み終わって心に残る漠としたものを、繰返し読む事で次第に明らかになってくる、それが楽しいと 言ってくださる方もあります。そんな時決まって思い出すことがあります。それは故舟橋一哉先生が授業で教えてく ださった「仏以一音演説法、衆生随類各得解」という一句です。「仏さまは一音を以って法を説かれる、聴衆は各々が その機根に随って理解する」という意味です。「一音」の理解に二つあって、一つは「一つの事柄」もう一つは「一つの言語」、つまりパーリ語で語られたが、聴衆は自分の言語で理解する、つまり現在のような同時通訳を介さずに直接的に聴衆は理解できた、それほどに釋尊の説法は優れていたというものです。これはいささか深読みが過ぎて釋尊を讃嘆するあまり生じた後世の説ということでした。 ただ私の十五年間のホームステイのホステス体験ではそういうことが何度かありました。私の英語力を超えるとき でも相手との気持ちが相当に通じている場合には知らない単語でも話が通じる、「その言葉はこういう意味ですか」と 尋ねると間違っていないということがありました。もっとも卑近な例から釋尊の言葉を類推すること自体が傲慢の謗り を免れないことではあります。もとに戻って、一番目の理解、釋尊が同じ一つの事をお話になられても聴く人それぞれ の人格、体験、力量によって異なるということ、それを痛感するのです。もちろん、私の書いたものが必ずしも釋尊の お気持ちを正しく伝えられているとは言えないのですが。お経の中のお話を伝えて、その理解がそれぞれ異なるという ことにはいくつかの意味があります。いわゆる誤解もあります。しかしそれとても、私の理解を中心に考えるから誤解 と思うので、そういう理解も可能なのだという新たな発見が齎されることになります。
書き手の意図と違わないけれどもう少し読み取って欲しい場合と、反対にそこまで読み込んでくださるかと敬服し、 こちらが教えられる場合があります。これはひとえにその方の人生の歩みの然らしめる賜物です。
また先ほどの聴く人によって理解が異なるということと、さらに同じ人でも時によって異なるということも含んでいる と思います。書き手の私自身が変哲もない話と読み過ごしていて、いよいよ締切が迫ると、突然、光を放つように。 同じ物語もたとえば家族を失うなどの体験のあとで読むと感想が深まります。
学校教育の国語の場合に誰方も経験があることでしょうが、ある文章の感想が問われ、その解答の幅が狭いことです。 教育の場面ではある程度やむを得ないことかもしれませんが、それぞれ異なる感想が受け入れられ、尊重されて、 そこから更に次のステップへという姿勢が望まれます。「衆生随類各得解」とはなんと広やかで温かい包容力かとあ らためて感嘆します。金子みすずさんの「みんなちがって みんないい」と通底する世界です。
昨年は清澤滿之百回忌にあたり師についての出版物や講演会も多くありました。その中で、師が晩年、暁烏敏師に 「石にかじりついても説教者になるな」と言い遺されたことが私の心に響きました。難しいことはわからない私が 清澤滿之師を身近に仰げるのはこの一点であり、等閑になるばかりの学びの姿勢を絶えずこの遺訓によって正して ゆくほかないと実感しています。