ゴッホ紀行とアートの森

第20回: パリ〜1

 1886年3月初旬のある日、モンマルトルのグーピル商会で執務していたテオのもとに、赤帽が一通のメッセージを届けた。
「一気にやって来てしまったが、怒らないでくれ。さんざん考えた。しかしこうすることが結局いまの僕たちにとって時間の節約になると信じたうえでの行動だ。ルーヴルの方形の間に行っているので、正午すぎか、できればもっと早く来てほしい」
 広い部屋に移る6月まで待ってほしいとあれほど伝えておいたにもかかわらず、無断でパリに来てしまった兄の行動に、おそらくテオは憤りのあまり舌打ちしたにちがいない。だが、兄をそのままルーヴルに放っておくわけにゆかない。モンマルトルからルーブルまでは、馬車を飛ばせば20分ほどの距離である。テオは複雑なおもいを抱きながら兄を迎えるためにルーヴルに向かった。ほぼ2年にわたるゴッホのパリ滞在は、このようにして始まった。
 何度もいうようだが、ゴッホの生涯をかなりの精度をもって知ることができるのは、テオに宛てた652通の手紙と、知人や画友に送った手紙の数々によるところが大きい。しかしこのパリ滞在中には、テオと同居していたこともあって、出張中のテオへの3通と知人に宛てた3通しか書いていない。このことが、パリにおけるゴッホの2年間を不透明なものにしている。したがって『パリ』の章で述べるゴッホの姿は、テオの妻ヨハンナが書き残した『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』などから推察せざるをえない。しかしながら、ゴッホとともにこの芸術の大都会に滞在することは、無数といっていい芸術家たちの生にふれることにもなるから、ここではその幾人かに目を向けて、しばしの時を過ごしたいとおもう。

 すでに述べたように、テオの仕事場はモンマルトルにあった。グーピル商会からこの店を任されていた彼は、印象派の作品を集中的に扱ったが、この時代、印象派を売る画商など、少なくとも大手では、テオの店をのぞけば一店もなかった。まだまだアカデミズムの圧倒的な画壇支配が続いていたから、売れない絵を扱っていたテオの立場は、商会のなかで孤立していて、やがて経営陣との対立が表面化し、そのことが最後の段階でゴッホの生涯を左右することになる。
 モネはテオ以外の店には絵を出さなかった。ルノワールやセンザンヌ、シスレー、ピサロ、ドガなど印象派の最盛期を築いた画家たちは、テオのこの勇気ある行動を讃え、感謝した。その意味でテオという人物は、ゴッホがその遺書のなかで表現したように、ひとりの画商というよりも、印象派の隆盛に大きな役割を果たした孤高の芸術家といえる。彼の視野には、すでに商会の利益や発展よりも新しい芸術の到来によるアカデミズム打倒という画壇の一大変革が映じていたのである。
 ゴッホがパリに出て来た時、すでに上に述べた画家たちはひとかどの大家になっていて、モンマルトル大通りのテオの店を活躍の舞台としていたから、そのことに対する敬意をこめて「大通りの画家」と呼んだ。いっぽう、彼自身を含め、パリに来てすぐに知り合ったゴーガンやロートレック、ベルナールなど若手の画家たちを、「まだまだ未熟」とのおもいをこめて「裏通りの画家」と呼んでいた。

 モンマルトルは、パリ市街の北辺に聳(そび)える丘である。もっとも聳えるといっても、その標高はわずか129メートルにすぎない。平坦な地形に盛り上がる独立峰で、その頂上には天をついて屹立する巨大な白亜のサクレクール寺院が建っている。
 頂上の半分ほどのスペースはサクレクール寺院が占め、残り半分は、簡素な佇まいのサン・ピエール教会やカフェなどが密集していて、そのまん中にテルトル広場がある。その小さな広場では、多くの画家達が、自作を並べて買い手を求めたり、イーゼルを立てて観光客の似顔絵を描いていて、観光シーズンともなると、画家や観光客達が入り交じって大変な混雑となる。
 この広場を起点にして、石畳の歩道は、ある時はくねった坂道となって、またある時は直線の階段となって、四方に向かって丘を下ってゆく。
 私はこの界隈の、いかにも芸術都市パリを象徴するような雰囲気が好きで、たびたび訪れた。たしかにルーヴルやオルセなど多数の美術館は、芸術作品そのものを観るという点では申し分ないが、それらの芸術を生み出した土壌ともいうべき「彼らが住み、制作した街」というものに目を転じた場合、モンマルトルは最も多くのことを語ってくれるひとつにちがいない。
 10数年前のことになるが、パリにアトリエを構える兄の案内ではじめてこの地を訪れた私は、サクレクールやテルトル広場を散策したあと、「ラ・ボエーム」という名のカフェで休憩した。12月にしては日差しの暖かい晴天の日のことである。その店はテルトル広場のサン・ピエール教会側に面していた。降り注ぐ陽光を受けて華やかに輝く金メッキに縁取りされた大きなガラス扉を押して中に入ると、暖かいコーヒーのいい香りが漂っていた。そして、兄に導かれて奥に行き、一本の柱に張られた金属製のプレートを見た時、おもわず清冽な感動をおぼえた。そのプレートには、
「画家モーリス・ユトリロが、しばしばこのテーブルで描いていた。いつもその傍らには、母ヴァラドンがその姿を見守っていた」
 と書かれていた。その刹那、ユトリロが、すぐ前の椅子に座ってスケッチブックを開いて筆を動かし始めるかのような錯覚に襲われた。私にとって、それほどにリアリスティックな印象だった。
 ユトリロはこの場所から、道路を隔てた向かい側にあるサン・ピエール教会を描いている。しかし実際にその場から教会に目をやると、とてもその絵のように距離を隔てては見えない。かといって、戸外に出て教会から遠ざかると、今度は「ラ・ボエーム」や他の建物が邪魔をして教会の全景を阻んでしまう。どうしてもこのカフェ以外の位置から描いたとは考えにくいのである。制作にあたって彼は、彼自身の目を広角レンズにして眼前に広がるモチーフ全体を小さな画面に収め、独自のデフォルメを施してこの作品を仕上げたのだろう。このことはべつに不思議でも大胆でもなく、ゴッホもふくめた当時の印象派以降の画家達にとってごく自然な手法だった。
 私は、ユトリロの座った席に着いてコーヒーを飲み、しばらくこの画家について考えてみた。

 

*写真左:サクレクール寺院 *写真右:通りから見たサクレクール寺院

 ところで、私の心の中のモンマルトルといえば、まず初めに『ラ・ボエーム』が浮上してくる。といってもカフェの名ではなく、19世紀後半に書かれたアンリ・ミュルジェ作の小説であって、「ハーグ〜1」で述べたように、シャルル・アズナブールはこの作品の劇場用として同名のシャンソンを作曲した。憂愁と叙情に溢れた感動的な名曲である。
 しかし『ラ・ボエーム』といえば、アズナブールよりもっと以前、1896年にイタリアのプッチーニによって作曲されたオペラが、より有名だろう。四幕からなるこのオペラは、プッチーニ特有の美しい旋律によって不朽のオペラに仕上がっていて、現代でも最も人気ある作品としてたびたび上演されている。
 ラ・ボエームとはボヘミアン、つまり「俗世間の掟に従わず放縦な生活をする人。芸術家などに見られる(広辞苑)」からきた言葉で、この作品では日々の糧にさえ窮している画家、音楽家、詩人などの芸術家の悲しくも生気に溢れた青春時代が描かれている。舞台設定はモンマルトルの安アパルトマンだが、これは作品の書かれた当時、すでに多くの画家達がモンマルトル界隈で制作活動を続けていたことにヒントを得たもので、これ以来、モンマルトルといえば芸術家たちの活動の舞台という定評が広く世界に広まった。カフェ 「ラ・ボエーム」の名も、そのような背景によって付けられたものだろう。
 モンマルトルを麓(ふもと)から歩いて上ってみることにする。
 パリの三大キャバレーの一つ「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」はモンマルトルの麓を画するクリシー大通りに面していて、そこから丘を上る殷賑な街路の一つにルピック通りがある。両側にカフェや食料品店などが立ち並ぶその通りを丘の中腹あたりまで上ってゆくと、右側にゴッホがパリ時代の二年間を過ごしたアパルトマンの前に出る。
 ルピック通りを更に上ると、数分も歩かないうちに、パリ市街を見下ろす一基の風車に遭遇する。レストラン「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」のシンボルとなっている風車だが、かつては丘全体に30以上あった風車も、いまは2基しか残っていない。建物に溢れ返った現在のモンマルトルからは想像もできないが、当時、この丘の大部分には葡萄畑などが散在していて、人為的に目立った建築といえば、12世紀建立のサン・ピエール教会と風車ぐらいのものだった。サクレクール寺院の建設は1919年のことだから、印象派の多くの画家たちはその青壮年期にこれを見ていない。しかしユトリロやモディリアーニの時代以降の画家は、その壮麗な天蓋をカンヴァスに描き出すことができた。
 この地点から東に水平移動すると、やはり数分も歩かないうちに、かつて「洗濯船」という風変わりな名をもつアパルトマンが建っていた場所に出る。湾曲した坂道の中ほどにあるこの場所には今は別の建物が立っているが、なぜこのアパルトマンが有名かというと、かつてピカソ、マチスなどの画家が住んでいたからで、いわばラ・ボエームを地で行くような存在だったからである。モディリアーニもまた、パリに出てきた当初、洗濯船に近いコーランクール通りのアパルトマンに住んだ。
 このようしてモンマルトルを巡る小路を歩いていると、そこかしこに誰かの絵で見た記憶のある風景が次々と視界を騒がせる。
 坂を上り切ってテルトル広場を過ぎ、カフェ「ラ・ボエーム」の前を通り過ぎて逆方向に下る。二本目の辻を左に曲がれば、コルトー通りに入る。この通りの中ほどの右手にモンマルトル博物館があるが、この建物にかつてユトリロのアトリエがあった。
 道路に面したガラスの扉を開けて中に入ると、そこは受付になっていて、ここで入場料を支払う。受付の横のガラス扉を開くと、さほど大きくない中庭に出るが、その突き当たりに博物館の建物がある。
 煉瓦造りの三階建ての博物館には、モンマルトルに関するあらゆる資料が展示されていて、たとえば、時代を経るに従ってこの丘の外見がどのように変化してきたかを物語る絵や地図があるかとおもえば、自分の首を手に持ったサン・ドニの不気味な立像があるといった、若干雑然とした印象を与える展示内容になっている。サン・ドニという人物は中世に実在した高僧で、ある罪を得てモンマルトルで斬首されたところ、一旦倒れた死体がすっくと立ち上がり、傍らに転がった自分の首を抱えて歩き始め、セーヌ河のノートルダム寺院まで歩いたという、一種の聖人伝説になっている。ノートルダム寺院の正面入口を覆うアーチを注意深く眺めれば、首を抱えたサン・ドニの彫刻に気づくはずである。
 モンマルトルに積もり積もった歴史と風説を押し込めたような展示品を見て歩くうち、ようやく三階の大部屋にユトリロ関連の展示コーナーを発見した。そもそもが民家を改造した建物だからさほど大規模ではないが、それでもパリ市街を見下ろすその部屋は、住居として考えれば十分過ぎるほどの広さである。
 展示品の一つに1923年、ユトリロ40歳の写真があるが、ネクタイをしめて口髭を蓄えたその姿は、どこから見ても画家には見えない。職務に忠実な銀行家や公務員のような印象を受ける。もっともこの写真の時期には、すでに過度の飲酒や乱行が収まって画家としての全盛期も過ぎていたから、いわば画家の脱け殻に近いユトリロが写っているといっていい。
 1881年に撮られた16歳のシュザンヌ・ヴァラドンの全裸の写真もある。すでにモデルをしていた時期で、ユトリロを生んだ年である。目の大きな美しい女性で、その大きな目元はユトリロに引き継がれている。
 この博物館にある彼の作品といえば、1950年(67歳)に描いた11点のモンマルトル風景だけだが、残念ながらこれらの絵には若い時代の作品に見られる感動はない。見ないほうがよかった、とかすかにおもった。
 博物館を出てさらに坂道を下れば、葡萄畑を過ぎたあたりの街角に建つ、ピンクの壁の小さな建物が目をひく。「ラパン・アジル」というカフェ兼シャンソニエで、ユトリロもよくここに通ったし、当時は若い芸術家たちの溜り場だった。ラパン・アジルとは「跳ね兎」の意味だが、もう一軒、彼らの溜り場だったカフェの名は「シャ・ノワール」といって、こちらは「黒猫」の意味である。この建物は現存しない。
 かつて夜の11時を過ぎて「ラパン・アジル」に行ったことがある。さほど広くない店内はほとんど満席だった。壁ぎわのテーブルについてブランデーを注文し、女性歌手のシャンソンに耳を傾けたことを、かなり鮮明な映像をともなって記憶している。

 モーリス・ユトリロは1883年12月26日パリに生まれ、1955年11月5日、南西フランスのダックスで71歳の生涯を閉じるが、画家としての彼の才能が華々しく開花したのは25歳頃からの10年足らずにすぎない。一般にいわれている「白の時代」とそれに続く数年である。
 その始まりの25歳というのは、画家修業を終了して本格的制作活動に入る年齢としてはまず妥当なところだが、それから10年そこそこの最盛期というのは、いかにも短い。それ以後、死までの40年足らずの間、その名声とは裏腹に、彼はもはや一流の画家でもなんでもなく、使い果した才能のカケラを引き摺って、ただ枯渇した荒野をさ迷うのみだった。しかしその不毛の長い時間のなかで、彼の目はいつもモンマルトルを見つめ続けていた。ユトリロにとってのモンマルトルとは何か。それは、あまりにも短かった画家生活の誇るべき記念碑であり、青春の感動や叫喚、悲哀や苦悩を凝縮した記憶のスクリーンでもあった。
 母シュザンヌ・ヴァラドンは、絵のモデルをしていた16歳の時、ユトリロを産んだが、父親の名は不明である。ただ、その頃に彼女が付き合っていた男性の一人でスペインの画家ミゲル・ユトリロが自分の子と認知したため、法的には彼の子供となったが、その間の経緯はよくわからない。
 シュザンヌは、幼い頃よりサーカス一座のアクロバットとして地方巡業をしていたが、ある事故で骨折したためその仕事をやめ、モデルに職を変えた。仕事のかたわら、時間さえあれば、絵を描いていたので、その熱心な様子と作品の出来栄えの良さを見たドガやロートレックは、彼女に画家になるよう勧めた。ユトリロ出産ののち、彼女はいよいよ絵画の道を進むことを決意し、ユトリロの養育を母クーロンに委ねて、懸命の画家修業に没頭した。この頃、彼女はムージスという男と結婚していて、彼女の目は夫と絵画に集中的に向けられたため、その視野から外された格好のユトリロは、淋しい少年時代を過ごさざるをえなかった。
 やがて彼は、父の希望でモンマルトルのロラン中学に入学するが、その在学中に酒を覚えた。アブサントである。これはアルコール濃度が70パーセントという強い酒で、値段が安かったために当時の労働者や低所得層の人たちは好んで飲用したが、多量の飲酒は中毒につながることが多かった。このアブサントを、彼は執拗なまでに飲み続ける。
 両親が通学用に与えた1等車の汽車賃を、2等に乗ることによってその差額を得、酒代として使った。これ以降、ユトリロは片時もアルコールを手放せない生活に没入するが、その直接の原因は、母に捨てられたも同然の寂寥の日々だった。もとより孤独に堪え難い性格を持って生まれた彼は、母のいない毎日の淋しさを紛らすため、酒に手を伸ばしたのである。
 学校を卒業して17歳になった彼は、パリ市内の銀行で働き始めた。しかし、初めのころは社の雰囲気に溶け込んで熱心に業務に就いていたものの、しばらくすると、仕事上の意見の相違で同僚や上司と衝突を繰り返すようになった。その不快さを紛らすために仕事を終えてからはますます酒に浸り、除々に無断欠勤の回数が増えて、たまに出社しても呆然と怠惰な時間を過ごすばかりで、その無気力な就業姿勢に業を煮やした経営者はとうとう彼を解雇してしまった。
 もとより会社に勤めることじたいが無理だったのである。その後も商社など転々と職を変えたが結局続かず、アルコール浸けの生活に没入することになる。
 一年後、重症に陥ったアルコール依存症の治療のため、サンタンヌ精神病院に入院。しかしそこでも病院の孤独に耐えかねた彼は、医師の目を盗んで酒を飲み、とうとう手に余った医師は、アルコール以外に精神が集中できる対象を与えようと、ユトリロに絵を描くことを勧める。
 退院した彼は、一年にわたって再び仕事に就こうと努力するが、結果は以前と同じだった。しかし、酒と喧嘩の日々を過ごしながらも、ようやく自分には画家の道が最も適しているのではないかと自覚するようになる。20歳である。これが画家ユトリロの出発点となった。
 ユトリロは筆を執った。絵についてのすべてを母が教えたが、おそらく母の血を色濃く継いでいたのだろう、いったんデッサンを始めてみると、周囲のだれもが驚くほどの速さで上達していった。しかし、それでも彼は、医師が期待したようにアルコールを手離すことができない。
 このころ、母とともにモンマルトルのコルトー通り、現在のモンマルトル博物館に住んで日々制作に励んだが、出来上がった作品のほとんどは酒代として居酒屋の手に渡った。そんなユトリロを、母ヴァラドンは、少なくとも積極的にはアルコールから救おうとはしなかったようである。もはや手のつけられない状態になっていたのだろうし、そんなアル中の息子の将来を、ほとんど諦めていたのかもしれない。そして息子の酒浸りを横目に、彼女はユトリロより三歳年下の画家アンドレ・ユッテルと親しくなって、詩人アポリネールらとの交友も深める。
 21歳で軍隊に召集されるが、極度の飲酒による体力衰弱により、すぐに退役となった。街に帰った彼は、再びモンマルトルの酒場を飲み歩き、アルコールに自分を見失っては他人と喧嘩して、警察に連行された。それでも酔いの醒めた時には一心不乱に筆を取るが、夕闇が近づくと、目に見えない何ものかに誘われるようにして酒場に足を踏み入れる。酒代を手に入れるために、描いた絵を僅か2フランで売った。カフェで飲むコーヒー一杯が25サンチーム(1/4フラン)だから、この売値がいかに「ただ同然」のものだったかがわかる。
 このような乱れた生活を続けるうち、25歳になると突如としてその作品は輝きを発する。いわゆる「白の時代」の始まりだが、これ以後もますます酒量は増え、作品の質の向上とはまったく逆に、その生活はいっそうの凄まじさを加えてゆく。

 

*写真左:モンマルトル博物館 写真右:ラパン・アジル

 好調な制作状態を維持しつつも飲酒と乱行によほどの体力を消耗した彼は、2年後にはアルコール中毒治療のためにサンノワの療養所に2ヵ月入院した。復帰後、再び制作を続けたが、夜になると相変わらず酒場に通い、泥酔しては喧嘩し、警察に拘留される事態が頻発した。
 翌年、再びサンノワの療養所に入院するが完治しない。
 どのようにしてアトリエに帰ったのかさえ記憶のない彼が目を覚まして朦朧とした意識を取り戻す時、にわかに何ものかに憑かれたような厳格な表情に変貌してカンヴァスの前に立つ。筆を取り、画面に走らせる。そこには、白を基調としたサクレクールやサン・ピエール教会、モンマルトルの繁華街などが、荘重な姿で再現された。そして夕闇が迫れば、カフェに足を向ける。このような生活のなかで仕上げた絵をサロン・ドートンヌ(秋期展〜フォーヴのグループが中心となって1903年に設立した年次展覧会)に出品したところ、急速に高い評価を得るようになった。
 「白の時代」と呼ばれる絶頂期はなおも継続するが、その私生活は、アルコール依存症による入退院を繰り返し、夜の巷では泥酔のため警察に保護されるといった惨憺たる様相を呈し続けた。
 残された証言によれば、ユトリロは、いくら泥酔状態にあっても気品を失わなかったという。しかしこの言葉は、おそらくユトリロの名誉を守るためにのちに作られたものだろう。なぜなら、中学の同窓生の一人が次のように証言しているからである。
「酒に酔っ払ってモンマルトルを徘徊するユトリロを、街の人達は容赦なく殴りつけた。酒場の店主に呼ばれた警官はもちろんのこと、客たちや愛人、母親さえも彼を殴った。彼をからかう子供たちは、騒がしく嘲笑しながら石を投げつけた。おそらく彼ほど人から殴られた画家はいなかっただろう」
 ユトリロに会いたければ酒場に行け、といわれたほど、いつも彼は酒場にいた。飲んでいる時はけっして椅子には着かず、カウンターの前に立って黙々としていたが、時間を経て酔い潰れそうになると、「またか」とばかりに店主や客たちは容赦なく彼を店から追い出し、その行為に対して少しでも抵抗の気配を見せると、歩けなくなるまで殴りつけた。弾き出されるようにして店を追い出された彼は、酒場前の溝に倒れ込んで、悲痛な呻きを発し、ぼろぼろに泣くのである。この情景を想像すれば、どこを見渡しても「気品」など見当たらない。
 もちろんこのようなひどい仕打ちは、彼が無名の頃に限って行なわれたものだった。29歳のサロン・ド−トンヌ出展から翌年の個展開催、さらにアンデパンダン展出品によって急加速の高い評価を得てからは、さすがに人々は彼を流行作家と見做して、殴りつけたり罵倒したりはしなかったが、遠巻きにしては軽蔑の目で見つめ続けた。
 しかし、私たちの眼前にある「白の時代」の作品から、泥酔と乱行の日々を想像することはできない。そこからはただ、憂愁と愛とひたすらに悲しい人間の生のみを見出すことができる。酒浸りの彼が酔いから醒める時、そのわずかの間隙を縫ってモチーフを見つめる鋭い感覚がよみがえり、それは心の底にわだかまるメランコリーの感情と同化して、一気に憂愁のモンマルトル風景を描き上げた。泥酔、乱行、憂愁、悲哀が絶妙のバランスをもってユトリロの筆を動かしている限り、それがユトリロ芸術の神髄であって、それらの要素のひとつ、たとえば泥酔という彼にとってのひとつの「制作動機」が欠落した時、白の時代は終わりを告げる。
 画家としての彼の生命は、おそらく三十代後半で終息した。なおも私生活は入退院の繰り返しだったが、画壇での名声は上昇し、絵も高値で売れるようになっていた。その意味で確かにユトリロは成功者となった。
 このころ、「白の時代」展が開催されている。それまでの傑作を集大成した展覧会だった。その翌年、ようやく飲酒乱行は収まって、ごく普通人としての日常生活に入るが、その時にはすでに画家としての生彩も活力も失われていた。まるで酒が、天から与えられた絵の才能を道連れにして、ユトリロの体から飛散してしまったかのようである。
 この後の彼を語ることは、ユトリロの芸術を知るうえでおそらく無意味だが、栄光の事績のみ、記しておこう。
 1925年、「フランス絵画の五十年展」に選ばれて巨匠たちと肩を並べて展示された。一級の画家としての地位を確固たるものにしたといっていい。1928年、ナポレオンが創設し、軍事や文化の功労者に与えられるフランス最高の名誉レジオン・ドヌール勲章を授与された。1935年、52歳の時には、彼の作品の愛好家リュシー・ポーウェルと結婚。
 ユトリロの生活は、年を経るごとに成功と平安を重ねていくが、しかしこれらの事実をいくら列挙してみたところで、もはや画家としてのユトリロの真の姿はどこからも見えてこない。ユトリロの芸術は、「白の時代」に、苦悩と煩悶と泥酔の合間を縫って一心不乱に描き続けた凄絶な戦いの日々にこそ見出すことができるのである。
 1955年11月、旅先の南西フランスのダックスで肺充血のため死去。ベッドの横のイーゼルには、モンマルトルのコルトー通りを描いた未完のカンヴァスが掛かっていた。享年71歳。

 20世紀の初頭から残っている現在のモンマルトルの街並は、一部の修繕や補強、原型を尊重した建て替えを除けば、ほとんどユトリロの時代と同じといっていい。その場に立ってちょっと時空を超えた気分になれば、雨に光る石畳の小路や坂道、黒塗りの鉄の手摺りを備えた長い階段、ぎっしりと詰まったアパルトマンの群れの合間に、カンヴァスを立てて絵筆を動かしたり、泥酔の足を引き摺るようにして徘徊するユトリロの幻影を見ることができるかもしれない。
 1955年、死の床に残された未完のモンマルトル風景は、おそらく遠く過ぎ去った青春時代の記憶を懸命に掘り起こし、力を振り絞って描いたものだろうが、たとえその絵を見なくても、いま私たちは、観光の合間にわずかな時間を割いてこの小さな丘の裏通りを歩くだけで、ユトリロの視野にあった風景そのものを目にすることができるのである。

 

*写真左:モンマルトルの階段 *写真右:サン・ピエール教会のマリア像