第1回:ブリュッセル

 旅のはじめに、まずベルギー王国の首都ブリュッセルを訪れたい。なぜなら、私がゴッホを研究し、その生涯の軌跡を追い、二冊の本を書くきっかけを作ったのが、この都市だからである。
 1994年から足かけ6年にわたって、私はある企業の駐在員としてブリュッセルに住んだ。赴任するまでの私は、じつはごく漠然とした、ゴッホという人物や作品の表面だけを見つめる、いわば表層的なファンでしかなかった。そして、ヨーロッパに行けば休日を利用してゴッホ生誕の町オランダのズンデルトぐらいには行ってみたいと思っていた。そのおもいの通り、たしかに赴任二週間目の日曜日に車でズンデルトを訪れた。ところが、その初めてのズンデルト訪問が、急角度をもって私をゴッホ研究の道へと進ませることになった。研究といっても、私は絵画史や絵画技法を学んだわけでもない。そのような素人の私にとっての研究のベクトルは、ごく簡潔に「ゴッホの生涯と生き様」に向けられた。なぜそのような研究が可能とおもうようになったかといえば、生家のちかくのゴッホ記念館に展示されている多くの資料を見てみると、幼年から青年期にかけてのゴッホが住んだ町や村のほとんどが、ブリュッセルからクルマで日帰りの距離にあることを知ったからである。つまりブリュッセルは、画家として本格的に活動するまでのゴッホの軌跡の、ほぼ中心にあたる。この利便さをもってすれば、たとえゴッホ研究に素人の私といえども、『ゴッホ書簡全集』を携えて実際にゴッホが生きた土地に立てば、「現場から発想したゴッホの生涯」を語ることが可能かもしれないとおもったからである。そのことが、駐在開始後のごく短期間のあいだに、ゴッホの生きた土地を歩かせることになった。
 記録によれば、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853−1890)がはじめてブリュッセルを訪れたのは1878年7月、25歳のことである。
 そのときの彼には、画家になるなどという考えはまったくなかった。画家ではなく、ただ宗教家になりたいとの一念でこの町の伝道師養成学校に入学し、伝道師の資格を得て宗教家への道を切り開くための最後の挑戦を行おうとしていた。
 「最後」といったのは、これ以前にも宗教者を志して、試行錯誤を繰り返していたからである。
 そもそもゴッホは、16歳で学業を終えたとき、親類の紹介によって、オランダのハーグという町で画商業を営むグーピル商会に就職した。懸命に働いた彼は、その後、そのめざましい仕事ぶりを評価されてロンドン支店に栄転するほどになったが、そのロンドンで、ひとつの失恋によって画商業への熱意を失い、その人生の目標を宗教に向けることを決意した。ここから、ゴッホの試行錯誤がはじまる。
 グーピル商会で働いていたとき、近くの教会でジョーンズという牧師の説教を聞いて感動したことがあった。商会を辞めたゴッホは、そのジョーンズ師に依頼して、下町で極貧にあえぐ人たちに聖書を読んで聞かせる機会を得たが、そのジョーンズですら危惧するほどに寝食も忘れて熱心な活動を続けたため、わずかニヶ月で健康に異常をきたし、オランダに帰郷した。
 それでも宗教家への希望を捨てることはなく、今度はオランダの首都アムステルダムに出向いて、キリスト教界の中核人材を養成する国立神学大学への受験を目指すが、やがてこれも断念。そして、宗教者になるための最後の手段として、ここブリュッセルの伝道師養成学校に入学するのである。
 そもそもゴッホが宗教家を志したのは、父や祖父が教会の牧師だったからで、自分のなかにも宗教家の血が濃厚に流れているものと信じた。ただ彼における宗教とは、生きるうえでのさまざまな苦痛にさいなまれている人たちに聖書を読み聞かせ、その福音を伝えることによって彼らの心に少しでも救いをもたらしたいという、ごく単純なものだったが、じっさいにアムステルダムで神学大学受験のための予備学習をはじめてみると、ギリシャ語やラテン語、代数、幾何、地理、歴史など、悲しみの人たちに聖書を読み聞かせるのに必要とは思えない学科ばかりを習得しなければならないことに大きな矛盾を感じ、やがて「私にはこれらの勉強はむずかしすぎます」と降参し、勉強を中断してしまったのである。しかし彼の本音は、
  「いまの宗教家たちは、役に立たない学問を身にまとい、苦しみや悲しみの人たちを足蹴にしてまでキリスト教会の権威強化だけに心を奪われ、肝心の『救い』には目もくれない。そんな腐敗した組織と権威を醸成するための神学大学など、無用のきわみだ」
 という、強烈な批判をもつにいたっていた。ただ、神学大学の権威を信奉して、そこに入学しようとしているゴッホの受験勉強を懸命に支援してくれている家族や親戚の者たちに、そのようなことはいえない。だから、自分には神学大学に入るだけの学力がないことを理由に、一方的に受験を断念したのである。しかしそれでも、彼の心には宗教家になって人を救いたいという願望が激しく燃焼していた。そして、牧師より格が下ではあるが、教会の権威とは無関係の、あくまで現場での活動に徹する伝道師になるべく、ブリュッセルに来たのである。
 しかし、9月から11月までの3ヶ月間、養成学校で勉強した彼は、「伝道師として不適格」との判定を受ける。学校の主宰者ボクマという人物が、オランダ語やフランス語の文法を教えたため、ゴッホは、
「いまさら何を教えようというのか。アムステルダムと同じことがなぜ必要なのか。貧しい人や悲しみの人たちに聖書を語るのに、なぜそのような勉強が必要なのか!」
 と、反発したためである。ボクマは「彼は服従ということを知らなかった」と慨嘆した。そして養成学校からこの通告を受けたゴッホは、落胆することもなく、最後の覚悟を抱いて、ベルギー南部の炭坑地帯ボリナージュに向かう。

 ブリュッセルはベルギー王国の首都だが、ベルギーという国じたい、日本人にはなんとなく馴染みが薄い。最近はツアーのコースに組み入れられて人気が上がってきているようだが、それでもアメリカやイギリス、フランスなどに比べれば、知名度は低い。しかしベルギーは、地理的にヨーロッパの中心に位置していることもあって、古くから歴史の表舞台に立つことが多く、現代でもヨーロッパ連合(EU)の本部がおかれ、北大西洋条約機構(NATО)の拠点にもなっている。
 この国の歴史は、ローマ帝国衰亡後のヨーロッパ史を彩った主要な事件のあらゆる局面に登場する。それほどに、歴史的には際立った存在だった。だが、それらを語ることは本稿の主旨ではないので、詳細にはふれない。
 日本人に有名なブリュッセルの名物といえば、まずは小便小僧だろう。知人のベルギー人は、コペンハーゲンの人魚姫、ライン川のローレライとならんで、この小さな像を「ヨーロッパの三大『くだらぬ見世物』」といっていた。その表現が当たっていなくもないのは、たしかにコペンハーゲンの人魚姫は、はじめてそこを訪れる者には容易に発見できないほどに小さくて説得力がなく、ライン川のローレライにいたっては、人魚が手招いて往来する船を破壊するという岩礁がいったいどこにあるのかさえわからない。もっともこちらの方は、20世紀初頭に船舶運航の安全を確保する目的で多量の爆薬によって破壊されてしまったから、目に見えるものが何もないのは当然のことである。そうはいってもローレライの場合、ラインの雄大な流れとそれを取り囲む急峻な渓谷を目にするだけでも、一見の価値はある。ひるがえって小便小僧はどうか。たしかに精巧で愛らしいその像は、観光客の目を引きつけてやまないものの、それいじょうのものを求めても無駄である。この像がいつ、誰によって、何のために造られたのか、まったくわかっていない。
 小便小僧は、ブリュッセルの中心広場「グラン・プラス」から徒歩5〜6分の街角に据えられている。グラン・プラスをはさんで反対側には、魚介類を中心としたベルギー料理店が立ち並ぶレストラン街があって、その一画には「小便娘」がある。こちらの方は、小便小僧の人気にあやかったものか、それとも一種のユーモアのつもりで作ったのかはわからないが、いまから二十年ほど前に制作されたらしい。しかし、どのように好意的な目で眺めてみても、この像の拙劣さと品位の悪さは救いがたい。「冗談もほどほどに」というところか。しかし私は、この界隈が好きだ。肩を寄せるように密集したレストランの群れは、あでやかなネオンや装飾などそれぞれの意匠によってその存在を主張し、店先に並べられたテーブルでは、各国からやってきた観光客たちが、北海で獲れた魚介類とフランス・ワインでにぎやかな食事を楽しんでいる。大げさにいえば、まるで街全体が躍ってでもいるかのようで、しぜん、石畳を踏みしめて歩く心までが躍ってくる。

   

*写真左:スワーニュの森(ブリュッセル)  *写真右:ブリュッセルの住宅街

 ベルギー名物の食べ物はといえば、まずムール貝の名がでてくる。この界隈でもそれは同じで、グラン・プラス横のレストラン街の中心部にある「シェ・レオン」は1893年の創業という老舗(しにせ)で、小ぶりのバケツほどの容器にあふれんばかりに盛られたムール貝が売り物である。値段も手ごろで、これを肴に、ネオンで装飾された窓外の煉瓦造りの古い建物を眺めながら白ワインを飲めば、ヨーロッパ情緒を満喫できることはまちがいない。
 料理はムール貝ばかりではない。そもそもベルギーの料理は美味で定評がある。「シェ・レオン」のような気軽に入れるレベルのレストランや、もっとポピュラーなカフェあたりでも、とにかく何を食べてもおいしい。ミシュランの星のついた高級レストランとなると、週末になればパリから泊りがけで食事に来る人もあるほどで、レストランによっては本場のパリを凌駕するほどの店もある。天才料理人ピエール・ウィーナンスがシェフをつとめる「コム・シェ・ソワ」などはその代表で、日本の皇族をはじめ、イギリスのウィンストン・チャーチルなど各国歴代の大物政治家や、作家、学者、芸術家、俳優などがここを訪れている。
 俳優といえば、オードリー・ヘップバーンはベルギーの人である。また、架空の人物になるが、アガサ・クリスティー作の「名探偵ポワロ」はベルギー人の設定になっていて、探偵になる前はブリュッセル警察の刑事だった。
 これらの高級レストランで供される食事は、主にフランス料理である。店によってはベルギー料理やオランダ料理を出すところもあるが、それらの味の系統は、特定のメニューを除けば、フランス料理とさほどの違いはない。現地の料理が美味で定評があるということは、それほど客の舌が肥えているということである。しぜん、日本料理店の味もいい。たしか10軒ほどあったと思うが、雰囲気と味のよさでは、なんといっても「田川」がいい。北海で獲れた魚介類を伝統的な日本料理として供する腕はさすがのもので、天ぷらや寿司もじつに美味しい。庶民的な雰囲気ながら味で勝負の「侍」もすばらしいし、「三辰」という寿司屋のちらし寿司も絶品である。
 なぜベルギーのレストランがこれほどおいしいのかといえば、この国が古くからヨーロッパ文化の中心に位置してきたからである。
 ベルギーが国家として独立したのは1839年のことだが、それまでのこの国はオランダに支配されていた。それ以前にはフランスが、さらにさかのぼれば、三世紀余にわたってオーストリアのハプスブルグ家の支配下にあり続け、それ以前の15世紀には、ブルゴーニュ公国が統治していた。もっと昔の中世にはフランス王国が支配した期間も長い。ブルゴーニュ公国というのは、ワインで有名なブルゴーニュ地方の都市ディジョンに発生した公国で、のちブリュッセルに本拠を移した。それだけに、その時代からベルギーにはワイン文化が濃厚にしみ込み、絶品のワインを支える貴族たちの料理であるフランス料理もまた、長年にわたって磨きをかけられた。このあたりの事情が、現代のベルギーを、ヨーロッパ第一等の「食の国」に育て上げたのである。
 ヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れた16世紀、当時のオランダとフランドル(ベルギー)はスペインの支配下にあった。若干複雑な話になるが、当時のスペイン王はオーストリアのハプスブルグ家の人で、そのハプスブルグ家の長はドイツの神聖ローマ帝国皇帝だった。神聖ローマ帝国というのは、イタリアの古代ローマ帝国の後裔ではなく、ただ「ローマ教会を徹底的に信奉し擁護する」という意味で冠された名である。したがって、当然ながら、宗教改革でローマ教会を全面否定しようとした新教(プロテスタント)を拒絶し、長年にわたって繰り広げられた宗教戦争では旧教(カトリック)側の代表となって戦った。旧教保護の傾向はスペイン王フィリッペ2世においてとくに痛烈だったが、皮肉にもその支配下にあるオランダとフランドルが新教を奉じたため、スペイン王は徹底的な弾圧に踏み切ることになった。これが、前後80年にわたって繰り広げられる八十年戦争に発展するのだが、その初期にスペインに対して頑強に抵抗し、スペイン軍に捕えられて斬首された人がエグモント伯爵である。後年、ゲーテが『エグモント』という戯曲を書き、ベートーヴェンはその戯曲の付帯音楽を作曲した。なかでも『エグモント序曲』はとくに有名で、いまでもコンサートのプログラムにしばしば組み入れられる。すこし遠回りをしたようだが、そのエグモント伯爵が処刑された場所が、ブリュッセルのグラン・プラスなのである。この町の古い建物の装飾に、ときどき自分の首を脇にかかえた首なし人間が描かれているが、これがエグモント伯爵で、ベルギーでは、長年にわたって英雄視され続けてきた。
 エグモントが処刑された旧裁判所前の一画にほどちかい建物の二階に、1852年にヴィクトル・ユゴーが住んだ部屋がある。いうまでもなくユゴーはフランス・ロマン派の作家で、この部屋で小説『レ・ミゼラブル(ああ無情)』を書いた。そして、「グラン・プラスは世界で最も美しい広場である」と絶賛している。この部屋の窓からグラン・プラスを見おろしながら、ユゴーはこの傑作を書き進めた。そのグラン・プラスは、夜になれば広場の周囲に立ち並ぶ橙色の灯りに照らし出され、雨の降った夜など、敷きつめられた石畳がその光を反射して山吹色に輝き、メランコリックな美を醸し出す。ユゴーの言葉に共感する一瞬である。
 ゴッホは、これほど美味で有名なブリュッセルにいても、高級な料理を口にしたことはなかった。それどころか、ほとんどパンとコーヒーしか口にしていない。一文の収入もなく、ただ親の支援で生活している状態では、たとえわずかの金でも無駄に使えなかった。ただ、アルコール好きだった彼は、よくビールは飲んだ。ベルギーは、日本の一都六県の面積しかもたない小さな国だが、国内には300社以上のビール・メーカーがある。ごく普通のピルスナー(日本のビールは、このピルスナーの系統である)からアルコール度数の高いもの、果実を原料にしたものまで種類はまったく豊富で、大げさにいえば、国じゅうのどこに行ってもビール工場を目にすることができる。ゴッホはそんなブリュッセルで、頻繁にベルギー・ビールを飲んでいた。彼はワインとビールをよく飲んだが、それらはいずれも低価格で、水の代用として常用されたから、価格の安いのも当然である。いま、ブリュッセルの中心部あたりのカフェで供される小グラス程度のビールはわずか150円ほどで水より安く、コーヒーとほぼ同価格である。
 さきほど述べたように、ブリュッセルの伝道師養成学校で伝道師の資格が与えられなかったゴッホは、ベルギー南部の炭坑地帯ボリナージュに行って、資格をもたないまま、貧しい炭坑労働者たちに聖書を説いた。しかし、その熱心な活動にもかかわらず、ふたたびその地で宗教界に拒絶された彼は、およそ70キロの道程を歩いてブリュッセルに帰ってくる。ジョーンズ牧師の友人で、ベルギーでゴッホのことをなにかと気にかけてくれるピーテルセン牧師になんらかの助言を求めるためである。この時、玄関の扉を開けたピーテルセンの娘がおもわず身をひいたほどに、ゴッホの身なりはひどかった。ゴッホは、何枚かのクロッキーを持参していたが、ピーテルセンはそのうちの坑夫を描いた一枚を所望した。ゴッホは少年のころから絵が好きで、画商として働きはじめてからも仕事の合間に絵を描いていたが、自分に画家の才能があると思ったことはなかった。とはいえ、ボリナージュのころにも、時間を見つけてはデッサンし、熱心に絵画研究を進めていたのである。
 ピーテルセンは、ゴッホの落胆し切った姿をみて、いま一度ボリナージュに戻ってゆっくり自分の将来を考えてみてはどうかと、助言した。その言葉にしたがってボリナージュに戻るため家から遠ざかるゴッホの悲しげな後ろ姿をみて、師はオランダにいるゴッホの母に宛てて、
「フィンセントは、いつも自らを苛酷で峻厳な境遇に追いやっています。いわば自分で自分の幸福を邪魔しているのです」
 と書き送った。
 このようにブリュッセルという町は、ゴッホにとっていい思い出は少ない。もっとも、彼の生涯を通じて、いい思い出などというものは、ほんのわずかをのぞいて、まったくなかったから、ブリュッセルも、そのような悲しみに彩られた町のひとつにすぎない。
 これより1年2ヶ月後の1880年10月15日、ゴッホはふたたびブリュッセルに戻ってくるが、この時の彼は、自分の進む方向についての一切の迷いを捨て、強固な意志をもって画家への道を歩みはじめていた。ボリナージュでそのことを確信した彼は、本格的な絵画修業をはじめるべく、ブリュッセルに出たのである。すでに27歳の秋を迎えていた。計数してみれば、画家を志してからのゴッホの生涯は、わずか10年にすぎない。その短い時間の間に、あれほど多数の名作を創造したことは、もはや奇蹟といっていい。
 このたびのブリュッセル滞在は、これまでで最長の6ヶ月におよんだ。この時、すでにグーピル商会のハーグ支店に就職していた四歳下の弟テオは、同じくブリュッセル支店の支店長シュミットを通じて、ブリュッセル在住のオランダ人の画家アントン・ファン・ラッパルトを紹介している。二人はすぐに親しくなった。裕福な家に育ったラッパルトは大きな部屋を借りて制作していたので、画家どうしが同じアトリエで制作し互いの長所や欠点を指摘し合うことが効果的な修業方法と考えていたゴッホは、その部屋でともに絵画修業に励んだ。半年後、ラッパルトがオランダに帰るのを機に、ゴッホもまたブリュッセルを去って、両親の住むオランダの小さな町エッテンに帰郷することになる。これがゴッホがブリュッセルに滞在した最後となった。
 しかし後年、彼の作品だけがこの町を訪れることになる。死の前年、南フランスのサン・レミで制作していたころ、彼の絵が、ブリュッセルで開催される「二十人展」に招待出品されたのである。そして、はじめて絵が売れた。『アルルの赤い葡萄畑』と題する作品で、ベルギーの女流画家アンナ・ボックが購入したが、結局これが、生涯に売れたたった一点の絵となった。
 ブリュッセルに、画家のスタートを切ったばかりのゴッホが住んでいた家がある。当時ブリュッセルには、オランダ方面に向かう列車のための北駅と、フランス方面への発着駅である南駅があったが、その間には旧市街が横たわっているので、南北両駅間を直結する路線はなかった。しかし後年、線路を旧市街の地下に通すことで両駅間がつながり、パリからアムステルダムまでの直結路線が完成した。いまでは、パリ発のタリス(新幹線特急)が、ブリュッセルを経由して、アムステルダムや、ゴシック様式の大聖堂で有名なドイツのケルンにまでつながっている。また南駅は、ドーヴァー海峡トンネルを抜けてロンドンに向かう新幹線特急「ユーロスター」の発着駅にもなっている。
 その、南駅から北駅に向かう列車が発車して間もなく、幅の広いガードを越えるが、そのガード脇に、ゴッホが滞在した建物がある。いまは空家のようだが、ゴッホが宿泊料の安さを気に入って選んだホテルだっただけに、その外観はいかにもみすぼらしく、規模も日本の鉛筆ビルほどに小さい。ただ、現在の建物がゴッホの滞在したものかどうかを確認することはできなかったが、その粗末さと古さをみれば、やはりそのように思えてくる。ともあれゴッホは、このブリュッセルを起点にして、画家としての長い旅に出ることになる。その終点に待ち構える悲劇にむかって。

*写真は、冬のグラン・プラス

 

第2回:北ブラバント

 おそらく読者諸氏におかれては耳なれない言葉だと思う。それもそのはずで、北ブラバントというのは国の名ではなく、オランダの一地方名だからである。
 12世紀ごろ、現在のオランダ南部からベルギー北部にかけての広大な地域に、ブラバントという公国があった。そもそもヨーロッパの北西の外れに位置するこの地方は、古代ローマ帝国が滅亡したあとも、フランク王国をはじめとするヨーロッパ中枢を治める強大な権力機構から遠く離れていたために、大国の支配が行き届かなかった。その地理的条件のために、いくつもの小さな公国が林立したが、ブラバント公国というのは、それらのひとつである。ゴッホの時代、すでにこの地方はオランダとベルギーに分割されていて、オランダ側は北ブラバント、ベルギー側はただのブラバント地方と呼ばれていた。ゴッホは、彼が青春時代を駆け抜けたオランダ南部の地を、親しみをこめて「北ブラバント」と呼んだのである。そこには古き良きものへの郷愁が沈潜している。この章では、北ブラバント地方のなかの、ズンデルトとゼーフェンベルヘンを訪ねることにしたい。
 ゴッホの父はプロテスタント(新教)の牧師をしていた。その彼は、勤務地として北ブラバントを転々としたために、しぜんゴッホの青少年期の活動範囲はブラバントを中心とすることになり、それだけに彼の心のなかのブラバントという言葉には、並々ならぬ懐郷のおもいがこめられていた。
 ゴッホ家は、オランダでは名家の部類に属する。17世紀にはこの国の大蔵大臣を輩出し、さらにはオランダ代表として英国王チャールズ二世の戴冠式に出席した人もいた。フィンセントの祖父は高名な聖職者で、12人の子をなした。男子のうち、1人は海軍中将、3人は美術商、1人が書籍商として成功し、父テオドルスだけが祖父の仕事を継いで牧師になった。ただ彼が受け持った教区がいずれも小さな町や村だったから、当然ながらその収入は少なかった。それを補うために、父は農業にも従事したし、少年時代のフィンセントは、よく農作業を手伝わされている。だから、ゴッホ家を貧しい農家だという人もいるのだが、それは正確ではなく、宗教者や画家の仕事を認める寛大な父の血と、裕福な伯父たちの支援があったからこそ、フィンセントはその青少年時代に、試行錯誤ともいえる転職を繰り返すことができたのである。
 ゴッホは1853年3月30日、オランダの南部、ほとんどベルギーとの国境にちかいズンデルトに生まれた。はじめて私がズンデルトを訪れたのは、寒風が頬を刺す2月のことである。ブリュッセルからアントワープを経て、クルマで1時間ほど高速道路を走れば、スンデルトの出口に至る。その間、視界は果てのない平野に占められる。ベルギーの国土の三分の二は標高百メートル以下だが、それはブリュッセルの南西部からルクセンブルグに向かって土地がせり上がっているからそういう数字が存在するだけで、アントワープ以北となると、見渡すかぎり畑と牧場で構成された平野しかなく、時折目に入る赤レンガ色の屋根をはさむようにして、白い牛たちがのんびりと逍遥している。オランダとなるともっと極端で、国土の半分は海面下なのである。
 紀元前55年、ローマのシーザーが、イタリアを遠く離れてこの地にまで遠征してきた。そしてその著『ガリア戦記』のなかでこの地をネダーラントと記述したのが、歴史としての最初の記録となった。ネダーラントとは低地という意味で、シーザーの当時、オランダは海と陸の境目さえ判然としない「低地」だった。その後、堤防を築いて海水を追い払い、多大の犠牲を払って現在の国土を作り上げたオランダ国民の努力は、もはや想像を絶するほどに痛ましいものだった。いまでこそ、名物のチューリップや風車、チーズなどのおかげでいかにも穏やかな国という印象を与えるが、その背景に脈々と流れる国土保全の戦いは、尋常のものではない。
 ズンデルトに入ると、間もなくゴッホの父が勤めた教会がある。トップページ右側の写真がそれで、壁ぎわの一画には、一年前の同じ日に死産したフィンセントの兄の小さな墓がある。その兄の名はフィンセント・ファン・ゴッホ。画家と同じ名だとよくいわれるが、画家の方はフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホといい、ウィレムの部分が違っている。
 教会から徒歩1分のところに、ゴッホの生家跡があるが、当時の建物はいまはなく、不動産屋の店が建っている。ただその壁には、かつてここがゴッホの生家であったことを示す楕円形のプレートがはめ込まれていた。道路をはさんで真向かいには町役場があり、この建物は、ゴッホ終焉の地となったフランスのオーヴェール・シュル・オワーズの役場に似ている。
 メインストリート、といっても、街を貫く対抗二車線の、さほど広くない道路だが、その石畳を5分ほど歩くと、ゴッホ記念館に行き着く。小さな館内には、ゴッホの書簡や小学校時代の資料などが展示されている。しばらく館内を見て回ったあと、生家跡に戻り、暖をとるため、隣のカフェに入った。ぱちぱちと火が弾ける暖炉のちかくに席をとって、アムステルとクロックマダムを注文した。
 アムステルとはアムステルダムのビールで、クロックマダムというのは、軽くトーストした食パンの上に目玉焼き二個をのせた料理である。とても料理と呼ぶほどのものではないが、総じてオランダ料理というのは、この程度のものである。他に名物といえば生ニシンをオイル漬けにしたものや、タコ焼きのような形状をした焼き菓子ぐらいのもので、カフェやレストランでは、高級なものはフランス料理、一般的にはスパゲティやウインナシュニッツェル(ウィーン風小牛のカツレツ)など、どこにでもあるようなものばかりである。とはいっても、オランダ人が「食」というものを軽視しているということではない。
 オランダという国は、そもそもが商業立国だったために、国民のはしばしまで質素倹約の精神が浸透している。浸透というより、何世紀にもわたって人々の血肉に根づいてきた国民性といったほうがあたっているかもしれない。そのことが質素な食生活を醸成し、やがて「オランダ人はケチ」という風評につながった。ダッチアカウント(割り勘)のダッチは、オランダをさす。ヨーロッパではイギリスとならんでオランダはケチの国とされ、そのことを皮肉った冗談が多い。たとえば、夏のバカンス期、オランダ人はクルマでトレーラーを引っ張って地中海に旅行する。気に入った土地で数週間を過ごしてオランダに帰るが、彼らは全旅程にわたって消費する食料をすべてオランダで購入してトレーラーに詰め込み、現地では、トレーラーに寝泊りするのでホテルは利用せず、レストランに入ることはおろか食物さえ買わず、ゴミだけを残していく、それがオランダ人だという。また別の話では、あるイギリス人とオランダ人が水を満たした洗面器を前にして、どちらが長く顔を浸けていられるか競争しようといった。勝った方には1セント与えられる。ヨーイドン!で顔を浸けた2人は、必死で耐えるが、やがて動かなくなった。両名とも窒息死したのである。他の国の人たちからここまで悪くいわれる国民というのも辛いだろうが、じつはこれはオランダとイギリスばかりではなく、すべての国について同じような、少々悪意を込めた冗談が存在する。日本と違って土地続きのヨーロッパでは、何世紀にもわたって領土争奪戦が繰り広げられてきたが、たがいの「敵」に対する揶揄は、平和な現代になっても、このようなかたちで息づいているのである。「他国」の例を挙げると、たとえばベルギーとドイツの国旗は同じ配色の三色旗だが、ドイツは横三列、ベルギーは縦三列になっている。ベルギー人は、ドイツは貧乏国家だから、旗を長期間掲げて擦り切れてもいいように、横三列にしている、といって揶揄する。二度の大戦でベルギーに大きな損害を与えた強国ドイツに対する、せめてもの意趣返しなのである。
 食の話題から少し脱線したが、要するにオランダというのは、そういう国なのである。ついでながら、クロックマダムとならんでクロックムッシュというのもあって、こちらの方は、どういうわけか目玉焼きが一個である。
 次に私が訪れたのは、ゼーフェンベルヘンという名の、ズンデルトよりもっと小さな村である。一般道のルートをとると、ズンデルトから北へ20キロ強の道のりだが、視界に広がるオランダの田園地帯はとにかく美しい。低地の国だけに、運河や池が方々に点在していて、運河の川面は、周囲の地面より高い。風車もある。牛もいる。なぜだかわからないが、ベルギーの牛が白やベージュがほとんどなのに、オランダに足を踏み入れたとたん、牛の色が白と黒のツートーンカラーになる。
 11歳になったゴッホは、地元の小学校を出てゼーフェンベルヘンにある寄宿学校に入学した。父テオドルスは、長男のフィンセントを教育するために、田舎町の牧師の収入にしてみれば破格の資金を費やした。この学校はプロフィリという人物が経営していたが、ゴッホの死後、その画名がこの村に轟いてきた時、彼はゴッホをまったく記憶していなかった。それほど目立たない、おとなしい子供だったのだろう。ゴッホはのちにこの学校に入学した時の淋しさを書いている。
「僕はあの秋の日、僕を寄宿舎につれてきて下さったお父さんとお母さんの馬車が帰ってゆくのを、学校の玄関に立って見送っていた。ぬかった道を遠く見えなくなるまで見送っていた。何日か経ったある日、同級生の一人が、運動場に立っていた僕に、『誰か君を訪ねてきた人がいる』といった。それがお父さんだとわかると、僕はもう夢中になって駆け出し、お父さんの首に抱きついた」
 この文章からもわかるように、ゴッホは極端な淋しがりやだった。それは終生変わることはなかったが、その寂寥がかろうじて癒されたのは弟テオとの書簡によってである。言い方を変えれば、テオとの652通におよぶ往復書簡は、孤独に満ちたゴッホの精神に勇気を与え、その生を支え続けたのである。
 ゴッホが両親を見送った寄宿学校の玄関に、私は立っている。前面の道路はぬかるみではなく、いまはきれいに舗装されているが、人もクルマも通らない。商店もなくカフェもない、まるで無人の村のようだ。ゴッホが抱いた氷のような寂寥がひしひしと伝わってくるようである。

 

*写真左:ズンデルトの町役場 *写真右:ゼーフェンベルヘンの寄宿学校

 

 ゴッホがブラバントで成長期を迎えた時期より100年ほど前の1765年夏、9歳のウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)がこの地を訪れている。一家あげての2年にわたるイギリス旅行の帰路、ゲント、ブリュッセル、アントワープを経、北ブラバントに足を踏み入れた。そしてズンデルト、エッテンを経て北上し、ロッテルダムに至っているが、その途中、病名や場所は不明ながら、父レオポルドとモーツァルトが相次いで病に倒れている。
 この長大な旅行の目的は、演奏旅行である。結果として3年間の大旅行を果たすことができたわけだから、この天才少年の集客力と興行収入力は並はずれたものといえる。故郷オーストリアのザルツブルグを出た直後、ドイツのフランクフルトでの演奏会では、ゲーテがモーツァルトのピアノ演奏を聞いている。ゲーテ14歳、モーツァルト7歳だった。またイギリスに渡ってからは、バッハの末子ヨハン・クリスチャン・バッハに知遇を得、この21歳年長の大音楽家から多くのことを学んだ。そのような演奏旅行の帰路、ポリフォニー(多声音楽)発祥の地といわれるネーデルラントを訪れるべく、一行はブラバントに入ったのである。
 ブリュッセルから西へ1時間ほど高速道路を走ったところに、古都ブルージュがある。いまではベルギー観光の目玉になっているところで、「北のヴェニス」とも称されるほど、町には美しく運河が巡っている。運河を囲む17世紀の街並みは、まさに古都という呼称にふさわしく、もしそこに観光客の姿がなければ、数百年の昔にタイムスリップした錯覚に襲われることは間違いない。その運河がクランク状に屈折したところに、ホテル「デュク・ド・ブルゴーニュ」がある。ブルゴーニュ公の名を冠したホテルで、その名にふさわしく、運河に面したレストランの料理は美味で定評がある。そしてそのホテルの正面玄関の向かいに、「モーツァルト・ハウス」という名のレストランがある。上の旅行の折りに一行が宿泊したとされるホテルである。建物じたいは周辺の街並みと同様、数百年の風雨に耐えた煉瓦造りのすばらしいものだが、内部は近代的な仕様に改築されていた。食事のために入った私は、手紙や宿帳など当時のモーツァルトの痕跡を探してみたが、何も発見できなかった。しかたなく、「本日のお薦め定食」の薄切りビーフステーキにブルゴーニュの赤を注文して、ゆっくりと食事を楽しむことにした。
 ところで、ブルージュを訪れる多くの日本人が見落としているものがある。時間の余裕がないからかもしれないが、これはぜひ見ていただきたい。「デュク・ド・ブルゴーニュ」から5分も歩けば聖母教会に行き着くが、この内陣に、ミケランジェロ作の『聖母子像』が安置されているのである。30歳の天才芸術家が創ったこの彫刻は、ミケランジェロの最高傑作といっていい。それほどのものがブルージュにあるのに、その存在さえ知らない人が多い。この聖像は1514年からこの教会に安置されているから、モーツァルトもこれを見たはずである。
 私は、ゴッホとモーツァルトが、その芸術において、ひどく似通ったものをもっていると思っている。もっともゴッホ自身はベートーヴェンの交響曲を愛した。
 音楽というのは、現代でこそいろんなオーディオ機器によってどこにいても楽しむことができるが、ゴッホの時代、ベートーヴェンの交響曲を聴くには、演奏会場に行かなければならなかった。でなければ、総譜を読むか、ピアノ演奏用に改訂された楽譜によって演奏されるピアノを聴くしかない。ゴッホの場合、コンサートホールでオーケストラを聴いたという記録は、アルルに行く直前、パリの思い出にとテオが誘った時以外に残されていない。しかもこの時のプログラムはワーグナーで、ベートーヴェンではなかった。交響曲という、フルオーケストラが必要なコンサートは、大都会中心に行われていたから、もしこれ以前に彼が聴いているとすれば、画家の道を歩み始めた27歳以前の、宗教家を志していたころかグーピル商会に勤務したころに、ロンドンかハーグ、ロッテルダムあたりで聴いたものとおもわれる。画家になってからの彼は、日々の制作費と食費を捻出するのにせいいっぱいの生活状態を続けていたから、コンサートに行く余裕などまったくなかった。ただ、ピアノというのは裕福な家庭に行き渡っていたから、ピアノ用に改訂されたベートーヴェンを聴いた可能性の方が、はるかに強い。
 ゴッホはベートーヴェン芸術の雄渾さに深く感動した。だが私は、ゴッホの作品上に横溢するメランコリーは、むしろモーツァルトにちかいと思っている。モーツァルトの死の26年後の1817年、はじめてその伝記『モーツァルトの生涯』を書いたフランスの作家スタンダール(1783〜1842)は、その著書のなかで、
「モーツァルト、この甘味な憂愁の天才。彼の音楽は、何よりもまず、心に憂愁の影をよび起こして感動させるようにできている。彼が陽気になったのは、おそらく生涯に二度しかなかっただろう」
 と記している。それほどにその音楽は人間の深い哀愁と悲しみに満ちているが、表面を聞き流すかぎりにおいて、それらのほとんどは快活で上機嫌である。ゴッホの場合も、明るく鮮烈な色彩で描かれた画面には、たしかに快活さと陽気さが表出している。だが彼が、
「芸術の真髄を把握するためには、長時間にわたる懸命の仕事が必要だ。僕の目標はとてつもなく高いものだが、それに到達することがまったく不可能とは思わない。そう、人に感動を与えるような絵を描きたい。人物にしても風景にしても、そこいらに無数にある感傷的なメランコリーではなく、本当の悲しみを描いてみたい」
 というように、その作品をじっくりと観察してみると、そこには、人間がただ生きているというだけでもつ、運命的な深い悲しみと憂愁を見ることができる。それはゴッホの人生そのものの活写でもあった。
 モーツァルトはいっている。
「少なくとも芸術や学問を志す者の場合、旅というものは、その感性を研磨するための必須の刺激であって、その意味で、旅をしない者は不幸といえる」
 彼は35年10ヶ月の生涯で、10年2ヶ月を旅した。ゴッホの場合、37年と4ヶ月の生涯において、その大半を旅したことになるが、モーツァルトとの決定的な違いは、自分の家をもたなかったことである。つまりそれは、旅ではなく、放浪あるいは漂白というべきものだった。
 ゴッホの写真は、13歳と18歳に撮った2枚があるが、成人してからのものはない。たった1枚、パリで画友ベルナールと向かい合って話している姿があるが、これはベルナールを撮ったもので、ゴッホはそのがっちりした背中だけを見せている。したがって私たちは、ゴッホの顔というものを、自画像によってしか知ることができない。彼はいう。
「写真に写った像というのは、まるで死人のように冷たい。しかし肖像画というものは、その像じたいに画家の心を映し出しているので、絵そのものが生命をもっている。けっして機械にできることではない」
 ゴッホは終生、頑ななまでにこの「写真嫌い」を通した。もし彼が現代の高度な写真技術を知れば、この意見に訂正を加えるかもしれない。
 ゴッホ家の家政婦の話によると、少年時代のゴッホは一家のなかで最もかわいくなかったそうで、よく野原を散歩してはスケッチしていた。弟のテオととくに仲が良く、将来は二人で画家になろうと約束していた。9歳の時に描いた石橋のスケッチが残されているが、さすがにすばらしい出来で、天才の片鱗を十分にうかがうことができる。その天才を育んだブラバント。緑が豊かでヒースが群れる広大な野原、清冽な流れをたたえる小川やそれを囲む美しい草花、視界のそこかしこに点在する緑濃い林、そして透明度の高い太陽光線に満ちた白雲と蒼穹。このブラバントの天地こそ、ゴッホの天才を成長させた世界であり、その芸術の萌芽をしっかりと大地に植えつけた大気そのものなのである。その姿は、いまも当時のまま残されている。

 

*写真:ズンデルト郊外−北ブラバントの野

 

第3回:アムステルダム〜1

  

 アムステルダムはオランダの首都である。しかし、この大都会には王宮はあるものの、行政機能のすべては、南に30キロほど下がったハーグに集中している。その意味でアムステルダムは、政治経済の中心というより、オランダの象徴ともいうべき存在といえる。
 オランダのほとんどの町には大小さまざまな運河が貫流しているが、この都市のそれは、規模において、がぜん他を圧している。王宮がおかれた旧市街を軸として運河が幾重にも楕円状に巡り、それらは何本もの直線の運河によって縦横に連結されていて、はじめてこの町を訪れた私は、どこへいっても遭遇する水面に、新鮮な驚きと感銘をおぼえたものである。
 ガラス張り天井の観光船に乗ると、市街の狭い運河から港口まで回ってくれて、この一時間弱の「航海」の途中、主な観光名所はほぼ見ることができる。この港は、昔はゾイデル海に面していたが、現在この海はアイセル湖という人口湖になっている。アムステルダムから北に向かって60キロほど走ると、オエファーという小さな町に行き着くが、この町外れを起点とする全長32キロにおよぶ大堤防が、ゾイデル海を北海から隔離して、アイセル湖という名の淡水湖に変えてしまったのである。1932年に完成したこの堤防は、将来アイセル湖を陸地化する目的で築造されたというが、もしこれが現実のものになると、オランダという国は琵琶湖の面積を大きく上回る国土を手に入れることになる。壮大といえば、これほどの気宇壮大はめったにない。大堤防の上に立って眺めると、内海側がごく穏やかな表情をたたえているのに比べて、外海側には、北海の灰色の波が幾重にも荒立っていた。
 アムステルダムには、国立ゴッホ美術館がある。休日に行くと、いつも入場券を買う人の列ができていて、あまり観客が多い時には入場制限が行われるから、開館直前に行って並んでおかないと、その日の予定が狂ってしまうことがある。アムステルダムから南東方向に車で一時間ほどの距離にはクレラーミューラー美術館があって、この二つの美術館で、ゴッホ作品の大部分を所蔵しているといっていい。
 ゴッホにとって、アムステルダムにはいい思い出がない。
 第一回で述べたように、ゴッホは、海軍中将のヤン伯父の家に寄宿して、神学大学受験の事前勉強のために1年3ヶ月を過ごした。年齢でいえば、24歳から25歳にかけてのことになる。この時ゴッホは、神学大学がパリサイ派の巣窟だとして受験勉強を放棄したが、そのことを深刻に胸に刻みつけた事件が、ヤン伯父の家の前で起きる。パリサイ派というのはイエスの時代に存在したユダヤ教の一派で、イエスはパリサイ派の宗旨が「偽善である」として激しく指弾した。ゴッホは、神学大学をはじめ、宗教界の中枢を占める者たちが、パリサイ派と同じように偽善的な存在だと断じたのである。
 ある秋の日、その事件が起きた場所、カッテンブルグ橋に私は立った。それは、町を巡る運河のひとつが港に流れ出たところにかかる小さな鉄の橋で、このすぐそばにゴッホが寄宿していたヤンの家があった。なんの変哲もない、無味乾燥な工業地域である。
 ゴッホがその日、自室で勉強していると、窓の外から造船所の工員たちの騒ぎが聞こえてきた。耳を済ましてみると、どうやら橋のちかくに一人の少年があやまって落ちたらしい。即座に部屋を飛び出した彼は、付近にいた造船所の工員たちと一緒になって懸命に少年を探したが、ようやく発見した時には、すでに息絶えていた。その夕べ、喪に包まれた家を見舞った彼は、若い母親が取り乱し、泣き叫ぶ光景を目のあたりにした。いま彼女の悲痛を癒すには、どうすればいいのか。宗教者としてできることといえば、聖書を読んで聞かせることしかない。たとえそのようにしたところで、悲しみにさいなまれた母親の心を癒すことはできないかもしれないが、宗教者としてはなんとしてもそれをやらなければならない。ところが、いまの宗教界は、ただ聖書を読むという簡潔で浄化された作業を果たすだけのために、とてつもなくハードルの高い資格を設定している。なぜ聖書を読んで悲しみの人を慰めるのに、ギリシャ語やラテン語、代数、幾何が必要なのか。ゴッホは、この事件を契機にして、神学大学とその奥にある宗教界というものに決定的な偽善を見出し、やがて受験勉強を放棄する。
 いま私の立っているこの場所で、ゴッホは一人の少年の死を悼み、母親の深い悲しみをおもって悲嘆にくれ、目に涙して宗教界の権威主義を呪った。身をよじらせるようなこの葛藤が、やがては宗教界からの訣別につながり、「自分の絵が少しでも見る人の心の慰めになれば」とのおもいを込めて画家の道を歩ませることになる。言い換えればゴッホは、キリスト教によってではなく、その作品によって人の心の救済を目指した。これが、ゴッホが自らの芸術に課した高邁な目標なのである。
 六年後、ドイツとの国境にちかい町ヌエネンの両親の家で絵画制作に取り組んでいたゴッホは、オランダ絵画の黄金時代ともいえる17世紀絵画を研究するために、アムステルダム国立美術館を訪れている。同行者はアントン・ケルセマーケルスという人物で、彼は「ゴッホの弟子」を自称していた。もっともゴッホ自身は、たしかにヌエネンで複数の画家志望の者たちに絵を教えていたものの、先生という認識はまったくなく、「一緒に勉強しましょう」という至極謙虚な姿勢で臨んでいた。ゴッホという人物、その性格は激烈で、あたかも狂気と同居しているかのように思われがちだが、事実はそうではない。日常の彼は、物静かで、人にやさしく、理路整然とした会話を好んだ。ただ絵を描いている時の姿は、熱中のあまり、周囲の者たちの目には異様に映ることもあったが、これは古今の本物の芸術家なら取り立てていうほどのことではない。もし彼が、粗末な服ではなく、上等の服装に身を固めたとしたら、おそらくかなり立派なビジネスマンに見えただろう。
 ある時、ケルセマーケルスが、自宅の庭で絵を描いていると、そこにゴッホがやって来て、
 「そうです、そうして野外で描くのがいいのです。そうだ、あの屋根の傾斜角度がわかりますか。せいぜい45度ぐらいのはずです。これでは傾斜が強すぎる。とにかく戸外で描くことぐらい勉強になることはありません。いろんな対象物を相互に比べる。そして遠近法を注意深く研究することです。それから、最も重要な色調の会得に進みます。概して絵を描く仕事というのは代数みたいなものですね」
 先生としてのゴッホの「指導」とは、このようなものだった。
 アムステルダム国立美術館を訪れたゴッホは、あらためて先輩画家たちの偉大な足跡にふれ、感動的な刺激を受けた。なかでもレンブラント(1606〜1669)、フランス・ハルス(1581〜1666)、フェルメール(1632〜1675)の3人から決定的な啓示を受けるが、フェルメールについては、その卓抜した技術に深い感銘を抱いたものの、心底からその芸術を賛嘆するようになるのは、アルル以降のことになる。そのことは、のちの章で述べたい。
 フランス・ハルスは、アムステルダム西郊の町ハーレムで活躍した肖像画家で、ハーレムの旧市街には「フランス・ハルス美術館」がある。
 17世紀のオランダは、大国スペインから武力で独立を勝ち取り、さらに海洋大国イギリスと東南アジア地域における制海権争奪戦を展開中の強国であり、その勢威はまさに「黄金の世紀」と呼ばれるにふさわしい絶頂期に達していた。貴族や有力者たちはこの最盛期のなかで富と名声を謳歌し、自分の姿を誇示する目的でこぞって肖像画を描かせていたから、オランダ各地の美術館には、いまも無数といっていいほど大量の肖像画が残されている。しかしこれらの肖像画には、いかにも権力や名声に酩酊したかのような男たちがうんざりするほどならんでいて、ほとんどが何の芸術的価値もない、凡庸きわまりない絵ばかりである。しかし、このような時代にあって、フランス・ハルスとレンブラントは、彼ら同様多くの肖像画を描いたけれども、それらは権力におもねる絵でもなく、私利を貯えるための絵でもなかった。それらの画面にあるものは、肖像を通して人間の内面に潜む喜怒哀楽と相対し、真摯な姿勢と卓抜した技術で描き上げた人間の究極の尊厳そのものだった。なかでもフランス・ハルスの作品は、無邪気に笑いこける少年や少女、酒に酔ってふざけあう男や女など、まことに無防備な庶民を描いたものが多く、そのことがこの画家の大きな魅力となって、現代まで脈々と続く高い人気を作り上げているのである。

 

*写真左:カッテンブルグ橋 *写真右:アムステルダム国立美術館

 レンブラントについては、もう少し紙面を割きたい。なぜならレンブラントこそ、ゴッホが終生にわたって、ミレーとならんで自らの芸術の目標として置き続けた画家だからである。
 レンブラント・ファン・レインは、1606年に、アムステルダムとハーグのほぼ中間に位置する町レイデンに生まれた。姓のレインというのはラインのオランダ読みで、ライン川のことである。彼の両親がライン河畔で製粉業を営んでいたからこの名がついたのだが、要するに「ライン川のレンブラント」というほどの意味で、あまり古くからの家柄を誇る名家ではなかった。ついでながらライン川は、スイスのボーデン湖に源を発し、ドイツを貫流し、マインツからコブレンツにかけての名所「ライン下り」を形成して、やがてオランダから北海に流れこむ。
 父はレンブラントを法律家にしようとしてレイデン大学に入学させたが、レンブラントの体の奥底にうごめく芸術への渇望がやがて大学を中退させ、父の期待に反する道へ進ませることになった。画家の道を歩み始めた彼は、すぐに活動拠点をアムステルダムに移し、26歳で『トゥルプ博士の解剖学講義』を描いて一躍大スターとなった。これ以後しばらくの間、肖像画の制作で高収入を得、その資金をもってアムステルダムに豪華な家(現在の「レンブラントの家」)を購入したり、美術品蒐集に多額の金を使ったりという、収入支出とも派手な生活が続く。しかし、「その売れっ子生活」も、ある時期を境として変貌を遂げることになる。顧客たちがその芸術に不信を抱くようになったのである。
 それは、火縄銃手組合の依頼で制作した大作『夜警』が発端となった。
 依頼者たちは、完成したこの絵を見ていっせいに失望落胆し、やがてそれはレンブラントへの糾弾に変質した。現在アムステルダム国立美術館に展示されているこの絵は、たしかにこの時代の他の肖像画とはまったく違っている。画面に描かれたほとんどの人物が、陰になったり横を向いていたりで、ほとんど目立たないのである。当時のオランダでは、画家に支払う総制作費を、依頼者たちが均等に人数割りして負担することが通例だったから、彼らの自己顕示欲を平均的に満足させるには、すべての人物が同じように目立っていなければならない。だが『夜警』の場合、画面中央付近の二人だけが主役であって、他の人物は、画面全体の構図を成立させるための端役でしかない。つまりレンブラントにとっては、大部分の火縄銃手組合員たちの姿は、彼が描きたかった劇的な場面を構成するための分子でしかなかったのである。薄暗い陰の中や事物に隠れそうな人物像はとても肖像画といえるものではなかった。結局この作品は、火縄銃手組合の謁見の間に飾られることになって一件落着したが、この事件を境にして、レンブラントの人気は急激に下降線をたどることになり、日々の経済状況も悪化した。36歳のことである。
 この時期までの彼の私生活は、その華やかな名声とは逆に、じつは辛酸に満ちたものだった。『トゥルプ博士の解剖学講義』でアムステルダム第一等の画家と認められて二年後に、サスキアという、六歳下の、どこか命のか細い女性と結婚するが、結婚後まもなく両親をあいついで失い、四人の子供のうち3人が早生し、さらに最愛の妻サスキアまで結核で失う。そしてサスキアが逝ったこの年、『夜警』が完成している。『夜警』における作風の変貌は、これら愛してやまない者たちの死と無関係ではないだろう。世俗の名声をいくら勝ちえたところで、それを喜ぶ者は、彼の周囲にだれもいない。無限の寂寥のなかから、レンブラントは彼が愛した者たちを迎え入れた崇高なもの、つまり神そのものの存在を描こうとした。それまでめざし続けてきたこの目標を、『夜警』のなかで大胆に実現しようとしたのである。もはやそれは肖像画ではなく、迫り来る敵から祖国を守るために夜警を続ける者たちを「素材」にして描いた「人間の情念」であり、それらの人々をつかさどる「神の存在」だったから、当然ながらその絵は、当時の肖像画とはまったく異次元のものとなった。
 サスキアとの間に生まれた長男ティトゥスと二人暮らしになった彼は、ティトゥスの世話をしてもらうために家政婦を雇い入れる。ヘルティエ・ディルクスという女性で、やがて二人は男女の仲になり、一時は結婚をおもうようになって婚約を決意するが、しょせん淋しさを紛らすための愛は本物ではなく、レンブラントの方から彼女を遠ざけるようになり、やがてこの婚約話は立ち消えとなった。しかしヘルティエは、この一方的な婚約不履行を怒って訴え、裁判所はレンブラントに200ギルダーの支払いを命じた。当時の平均的労働者の年収が250ギルダーだったことをおもえば、この額がどれほどのものだったか、おおよそ推し量ることができる。
 このころ描いた『ティトゥスの肖像』が、ロッテルダムのボイマンス美術館に展示されている。前述のように、当時の肖像画というものは写真のような正確さを求められていたが、この絵は、線や色調、筆触、背景の処理にいたるまでまったく違っていて、しかもおそらく写真以上にティトゥスという少年を活写しているのではないかと思えるほど、人物は生気にあふれている。もし作者名を隠して展覧すれば、19世紀ロマン派の作家の手になるといってもけっしておかしくはない。それほどに先見に満ちた絵であり、それだけに当時の観衆はほとんどレンブラントという画家を理解できなかっただろう。
 その後もレンブラントは凋落を歩み続ける。
 ヘルティエとのことに懲りたレンブラントだが、やはりティトゥスの面倒をみる家政婦がいなければ絵に集中することができないので、こんどはヘンドリッキェ・ストッフェルスという女性を雇い入れた。入籍こそしなかったものの、事実上レンブラントの第二の妻となる女性である。48歳になったレンブラントは、彼女と内縁関係を続けていることを教会会議から糾弾されるが、無視。世俗のことなど、もはやどうでもよかった。絵はほとんど売れない。二年後にはとうとう自ら破産宣告し、私有財産のすべてを市が主催する競売にかけ、その収入を借金返済にあてることになった。手持ちの70点の絵は、予想をはるかに下回る値段しかつかず、自邸もさほどの高値で売れなかった。彼とティトゥス、ヘンドリッキェの三人は、西教会にちかい、低所得者の集まるユダヤ人街に転居した。
 これ以後、63歳の死までに残された13年間、悲愴はレンブラントに追い打ちをかけ続ける。
 死の五年前、アムステルダム市は彼に『クラウディス・キウィリスの謀議』を題材とした絵を制作するよう依頼した。市が、すでに過去の作家となりつつあるレンブラントを起用したのは、昔日の偉大な実力と名声を評価し、栄光の復活を期待したからだったが、できあがった絵を見た市当局は、ひどく落胆せざるをえなかった。すでに孤高の境地を飛翔していたレンブラントの芸術をまったく理解することができなかったのである。市は彼に絵の修正を求めたが、レンブラントはそれを拒否する。このため、制作費は支払われなかった。このような事態の連続が、私生活の窮乏にいっそうの拍車をかけた。
 愛するヘンドリッキェは彼に先立つこと四年にして逝き、あれほど愛していたティトゥスも結婚直後に27歳で死ぬ。彼のそばに残った肉親は、ヘンドリッキェとの間に生まれた娘コルネリアひとりになってしまい、最後は彼女がレンブラントを看取ることになる。死の一ヶ月前、ある画家がレンブラントのアトリエを訪れた時、彼は『寺院のシメオンと幼児キリスト』を制作中だった。この事実より、レンブラントの死因は急性の病気、おそらく心臓病ではなかったかといわれている。
 オランダの権力者たちはこぞって彼を無視したが、死の二年前、イタリアのフィレンツェ大公コジモ・デ・メディチがアトリエにレンブラントを訪ねた。かつてルネッサンス推進の立役者だったメディチ家の当主がわざわざ貧民街に訪ねるほどに、レンブラントの名声は、オランダではなく、芸術の聖地イタリアで沸騰していたのである。
 壮年期のころよりレンブラントは、制作中にはパン一切れとチーズしか口にしなかったが、これは彼の制作姿勢でもあったからまだいい。老いてからの彼は、とくにヘンドリッキェが死んだあとは、あまりの貧困のために、漁師たちが港に揚げ残した魚を拾って食べていたという伝説がある。事実のほどは調べようもないが、ここまでの悲惨さに彼を追い込んだのはいったい何だったのか。いうまでもなくそれは、真の芸術を理解する能力を持たない権力者たちが、彼の芸術を無視し、顧みようともしなかったことにある。オランダの各地に無数に残された17世紀の肖像画には、たしかに裕福で意気軒昴な彼らが描かれているが、三百年を経たいま、それらは「写真があれば、こんなに多くの肖像画を描くことなかったのに」という感想しか出ないほどに、つまり写真以下の価値しかもたないほど陳腐化してしまっている。いっぽうレンブラントの絵は、そのいずれを観ても、人物の感情や精神状態まで看過できるほどに活き活きとして、永遠の時を刻み続けている。どちらが真の勝利者か、この事実を見るだけで明らかだろう。
 「レンブラントの家」の前には港に通じる水門があって、その管理運営に携わる黒い小さな家は、建てられてからよほど長い時間が経っているのか、かなりの角度で傾いてしまっている。水門の外側にはしばらく運河が続き、その先の港口には教会のような外観をもつ大きな灯台が立っている。見上げると、尖塔の頂点に立つ十字架の金の台座が、太陽光線を反射して燦然と輝いていた。ほんのわずかの時間だったが、レンブラントはこの家で、サスキアと子供たちに囲まれて絶頂期の幸福な日々を過ごしていた。筆を休め、疲れた目を癒すために窓から海を眺める時、燦々と光り輝くこの金の台座は、彼の網膜にどのように映じたのだろうか。神の崇高を高らかに賛美する象徴か、それとも迫り来る悲惨な運命の予兆だったのか。

 

*写真左:レンブラントの家(中央) *写真右:アムステルダムの下町