|
【中世の谷田部城址考察】
中世の谷田部城跡を考える場合、絵図面で記されている城址は現在、市街化されており残念ながら城跡を確認する事は出来ません。しかし、場所については小字名(後に中城から中条へ変更)や、絵図面より推察する事が可能です。
絵図面(上・南、下・北、の方角になります)を見ますと、中央上から駒形入口・二の丸・櫓下・多賀谷城郭・中城・郭内、の名称で記載が確認出来ます。
その多賀谷城郭と郭内の間を黒い太い線が横に通っている箇所がありますが、当時そこは空掘りであったろうと言われ、現在は道路になっており谷田部中央通りの名称があります。
また、図面には記載がありませんが現在は、駒形入口から下(北方面)へぬける道路が通り谷田部中央通りの中央付近へ通じており、多賀谷城郭を通っている辺りが小字名を『中条(なかじょう)』と言います。当家はその中央付近出口から見て右斜向側に位置しており、ちょうど郭内文字の左側辺りになり、それより北側には細川陣屋址(市立谷田部小学校)があります。
さらに、多賀谷城郭と二の丸の間にある黒い横線の箇所は、私が子供の時分には田んぼ(現在は宅造地)だった場所と思われ、当時は空掘りか或いは、東谷田川の水を引き入れた水堀りの可能性も考えられます。この場所を境にして、多賀谷城郭側は平地ですが二の丸側は駒形入口にかけて緩い上り坂が続きます。櫓下の場所は当家所有の畑地で小字名も「櫓下」と言い、右側は土塁のように小高くなっています。
以上の事から、中世の谷田部城址は谷田部中央通りを挟んで当家から反対側辺りの一帯と考察いたします。
現在の地図上へ赤丸に十の印でポイント(多賀谷城郭部分)を打って谷田部城絵図面と対比してみました。場所の確認が出来ると思います。(当家系図や江戸期の戦記物にも書かれている「漆山」の名残で小字名(漆出口や漆下)が残っています。)
航空写真を追加しました。緑色の枠で囲んだ部分が多賀谷城郭部分と考えます。上から下に道路に沿っておろした朱色の線が駒形入口からの進入路になります。紫色の線が多賀谷城郭と郭内との間を横断している谷田部中央通り(旧野田線)です。
|