沼尻家の歴史

 
 
・・・ひとり言・・・
 
私が生まれ育った家は、築300年以上の経った茅葺入母屋作りの大きな家屋でした。
家の中に入ると土間が広がり夏でもひんやりして外手も涼しかった想いでが有ります。
その家も私が26歳の時に取り壊し今風の新しい家に変わりました。
 
 
 
当家には二流の家系図が伝来しており、それにより当家の出自を知る事が出来ます。 
其々の系図と文献等から当家の歴史を紹介いたします。
当家の始祖「谷田部氏」は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の御家人であった常陸国守護職八田知家を初代とし、その小田家第五代小田宗知の子、小田新三郎宗壽が谷田部(現つくば市谷田部)漆山に築城、当地を領し谷田部氏の祖となり代々、地名の谷田部を名乗り「小田家一門六家」に列しました。宗壽の母は小田氏一族である上曽左衛門尉盛治の女(むすめ)で、上曽氏は小田知重の子知賀を祖とします。
谷田部氏が谷田部城を築城した時期についての詳しい資料は今のところ見当りませんが、谷田部城絵図の郭内寺屋敷にあった明超寺の建立が、1307(徳治2)年に下妻光明寺蓮信の法弟明信により開山、と「つくば市の神社仏閣と文化財」(つくば市教育委員会発行)に記述があります。それにより築城の時期を考えた場合に明超寺の建立よりも下る、と言う事は無い思われます。また、宗知が徳治元年に亡くなっておりますので、宗壽が宗知の生存中に所領の一部である谷田部の地を賜った後に谷田部城を築城したと考え、時期は鎌倉後期の徳治2年までと思います。
  谷田部氏と沼尻家の興り  
 
当家には「谷田部氏系図」と「沼尻家系図」の二流の家系図が伝来しており、系図によると両家とも先祖は「小田氏」に繋がります。
谷田部氏は上記でも説明しましたが小田新三郎宗壽が当地を領し、地名を名乗り戦国末期まで代々続いておりました。
沼尻家の始祖も小田氏より出た「小田常阿弥入道直朝」と言います。その子が「沼尻又三郎道朝」と言い沼尻を名乗り始めたのが始まりです。
古書によると戦国末期には、「金田城主・沼尻又五郎家忠」と言う武将が現れ、「沼尻家系図」にも沼尻又五郎信秀(室町中期辺)の名前が見られます。前記の又五郎家忠とは生きた時代が違うようで「又五郎」名は通称名でもちいたと思われます。
  谷田部姓から沼尻姓へ  
 
元亀元年、谷田部城主・谷田部三郎左衛門壽教城主・岡見主殿介の説も有りますが、筑波町史・資料集第十篇には谷田部城主・谷田部刑部少輔の他、小田事蹟下では矢田部ニ廿五騎・谷田部刑部また、廻座衆ニハ・岡見主殿介の名が見られます。
の時に下妻城主・多賀谷氏との戦に成り、家臣「面野井城主・平出伊賀守」の敵への内応により敗れ、岡見主殿介は牛久へ谷田部三郎左衛門親子は本家の小田家へ逃れています。その後、谷田部から沼尻へ姓を改めました。
小田氏治が木田余城へこもり佐竹氏を迎え撃つ時、重臣を城の要所に配備させます。その時、木田余途城口へは谷田部刑部に手勢百騎を率いさせ配置に就かせました。その人物が谷田部三郎左衛門壽教か、子の三平壽宣か、または孫の志摩壽幸なのかは今現在のところ不明ですが、この時点では谷田部を名乗っていたようです。
  再び旧領谷田部の地へ  
 
小田家・第十五代当主、小田氏治(天庵)と行動を共にし、氏治が越前移封の時に、谷田部三郎左衛門の孫の「沼尻志摩壽幸」(沼尻家系図では、沼尻加賀重信ト称ス)が旧領の谷田部の地に戻り、現在の屋敷の場所に土着しました。
土着後は武士をやめ江戸時代の終わりまで代々名主を務め現在に至っています。名主を務めていた時代の江戸後期からの古文書が残っており、その中に「二宮金次郎(尊徳)」からの書簡も含まれてました。内容は当時の谷田部藩主・細川家が藩政改革を実施した折りに、家臣が借財をしていた返済方法を、金次郎(尊徳)と当家で話し合いの遣り取りを行った手紙です。(つくば市教育委員会、斉藤先生に解読して頂きました。)
 
旧領谷田部の地へ戻り土着し中興の祖となった「沼尻志摩壽幸」は病のため、元和元年八月廿日没しています。父や祖父が戦に敗れ無念にも先祖伝来の土地を追われ、その後に自分の手で旧領に復した時の気持ちは喩える事の出来ないものであったろうと、子孫として当時を偲ばずにおれません。
法 諡  還宗院單擧浄信大居士ト伝
  
  小田家風記  
小田家家臣・小神野越前守が天文18年(1549)に小田家一門と家臣の禄高を記録したものである。
 
「一門六家」(小田家から分家し、所領地名を名乗った一族である。)
  
 宍戸城主   宍戸安芸守 八万五千石(友部町)
 牛久城主   岡見治部少輔 三万石(牛久市)
 北条城主   北条出雲守 二万石(つくば市)
 小幡城主   小幡中務少輔 二万一千石(茨城町)
 柿岡城主   柿岡式部少輔 二万石(八郷町)
 谷田部城主  谷田部刑部少輔 一万八千石(つくば市) 
  ※ 参考文献  
 
所蔵の書籍から関連している部分を挙げてみます。
 
谷田部氏」「沼尻家」関連
 
 筑波町史・資料集第十篇から(抜粋)
・P123〜 小田家風記 一門六家 谷田部城主 谷田部刑部少輔(壱万八千石)
・P123〜 小田六騎 沼尻又五郎 
・P124〜 外家大名 足高城主 足高加賀守(一万ニ千石)
・P128〜 廻座 沼尻又三郎
・P168〜 小田家ノ幕下ノ事 小田事蹟下  矢田部ニ廿五騎 谷田部形部
・P169〜 二十四館衆 足高ニ 足高加賀守               
               金田ニ 沼尻又五郎
・P169〜 廻座衆ニハ  岡見主殿介
 
 小田氏十五代 小丸俊雄 著から(抜粋)
・P51〜  七代 治久 母は谷田部五郎広重の女
・P82〜  手勢百騎を一隊として配備 木田余途城口 谷田部刑部
・P120〜  島名面野井館主平出伊賀守は矢田部刑部の陣代として土浦で戦ったが、
       敗れて居館に帰る。
・P120〜  金田強清水上ノ館主沼尻又五郎は土浦の戦で討死したが、その子家忠は
       切り抜けて岡見に落ちた。
  谷田部城絵図(谷田部町史より)  
 
後世に成ってから作成された「谷田部城」の絵図面です。当時を窺う事の出来る数少な
い資料です。(原図は、つくば市立谷田部郷土資料館に展示されています。)→画像へ
戻る

numarokuya_jp@yahoo.co.jpメールはこちらまで。