谷田部氏沼尻家

 
当家には「谷田部氏」と「沼尻氏」の二流の家系図が伝来しており、それにより当家の出自を知る事が出来ます。
其々の系図と文献等から当家の歴史を紹介いたします。


  当家の始祖「谷田部氏」は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の御家人であった常陸国守護職八田知家を初代とし、その小田家第五代小田宗知の子、小田新三郎宗壽が谷田部(現つくば市谷田部)漆山に築城、当地を領し谷田部氏の祖となり代々、地名の谷田部を名乗り「小田家一門六家」に列しました。宗壽の母は小田氏一族である上曽左衛門尉盛治の女(むすめ)で、上曽氏は小田知重の子知賀を祖とします。
谷田部氏が谷田部城を築城した時期についての詳しい資料は今のところ見当りませんが、谷田部城絵図面に記されている郭内寺屋敷にあった明超寺建立の時期が、1307(徳治2)年に下妻光明寺蓮信の法弟明信により開山された、と「つくば市の神社仏閣と文化財」(つくば市教育委員会発行)に記述があります。それにより築城の時期を考えた場合に明超寺の建立よりも下る、と言う事は無いと思われます。また、宗知が徳治元年に歿しておりますので、宗壽が宗知の生存中に所領の一部である谷田部の地を賜った後に谷田部城を築城したと考え、時期は鎌倉時代後期の徳治2年までと思います。
  当家には「谷田部氏系図」と「沼尻家系図」の二流の系図が伝来しております。谷田部氏は小田氏一門で地名を名乗り戦国末期まで代々続きました。沼尻家の始祖も小田氏より出た「小田常阿弥入道直朝」と言い、その子が「沼尻又三郎通朝」で沼尻を名乗り始めています。戦国末期に「金田城主沼尻又五郎家忠」と言う武将が現れますが、「沼尻家系図」にも沼尻又五郎信秀の名前が見られます。沼尻又五郎家忠とは生きた時代が違うようで「又五郎」名は通称名で用いたと思われます。
  元亀元年、谷田部城主・谷田部三郎左衛門壽教の時に下妻城主・多賀谷氏との戦の時、家臣「面野井城主・平出伊賀守」の敵への内応により戦に敗れ、岡見主殿介は同族の牛久へ谷田部三郎左衛門親子は本宗の小田家へ逃れています。この後、谷田部から沼尻へ姓を改めました。
(谷田部城主・岡見主殿介の説も有りますが、筑波町史資料集第十篇に谷田部城主・谷田部刑部少輔の他、小田事蹟下に矢田部ニ廿五騎・谷田部刑部と有ります。また、廻座衆ニハ・岡見主殿介の名が見られ主殿介が谷田部城主としての記述は有りません。)
小田氏治が木田余城へ篭り佐竹氏を迎え撃つ時、重臣を城の要所に配備させます。その時、木田余途城口へは谷田部刑部に手勢百騎を率いさせ配置に就かせました。その人物が谷田部三郎左衛門壽教か、子の三平壽宣か、または孫の志摩壽幸なのかは不明ですがこの時点では谷田部を名乗っていました。
  小田氏治と行動を共にし、氏治が越前移封の時に谷田部三郎左衛門の孫の沼尻志摩壽幸(沼尻家系図では沼尻加賀信重ト称ス)が旧領の谷田部の地に戻り、現在の屋敷の場所に土着しました。中興の祖となった沼尻志摩壽幸は病のため元和元年八月廿日歿しております。父や祖父が戦に敗れ無念にも先祖伝来の土地を追われ、その後に自分の手で旧領に復した時の気持ちは喩える事の出来ないものであったろう、と子孫として当時を偲ばずにおれません。
「法諡 還宗院單擧浄信大居士」ト伝
土着後は武士をやめ江戸時代の終わりまで代々名主と検断職を務め現在に至っております。その当時の江戸後期からの古文書が伝来しており、その中には二宮金次郎(尊徳)からの書簡も含まれておりました。内容は当時の谷田部藩主・細川家が藩政改革を実施したおり、家臣が借財をしていた返済方法の相談で金次郎の住居地である今の栃木県二宮町へ出向いたところ、金次郎が不在で会う事が出来ず、その時のお詫びと方法を記し当家へ宛てたものです。(つくば市文化財評議員・斎藤先生に解読して頂きました。)
 
 
※資料(文献等から)
 
  小田家風記(小田家家臣・小神野越前守が天文18年(1549)に小田家一門と家臣の禄高を記録したものでる。)
  「一門六家」・小田家から分家し所領地名を名乗った一族である。
   
   宍戸城主   宍戸安芸守 八万五千石(友部町)
   牛久城主   岡見治部少輔 三万石(牛久市)
   北条城主   北条出雲守 二万石(つくば市・旧筑波町)
   小幡城主   小幡中務少輔 二万一千石(茨城町)
   柿岡城主   柿岡式部少輔 二万石(八郷町)
   谷田部城主 谷田部刑部少輔 一万八千石(つくば市・旧谷田部町)
 
  *書籍から関連部分を抜粋
      谷田部氏沼尻家 関連
 
       ※筑波町史資料集第十篇から
         ・P123〜 小田家風記 一門六家 谷田部城主 谷田部刑部少輔(壱万八千石)
         ・P123〜 小田六騎 沼尻又五郎
        ・P124〜 外家大名 足高城主 足高加賀守(一万ニ千石)
         ・P128〜 廻座 沼尻又三郎
        ・P168〜 小田家ノ幕下ノ事 小田事蹟下 矢田部ニ廿五騎 谷田部形〔刑〕部
        ・P169〜 二十四館衆 足高ニ 足高加賀守
                     金田ニ 沼尻又五郎
        ・P169〜 廻座衆ニハ 岡見主殿介
 
       ※小田氏十五代 小丸俊雄 著から
         ・P51〜  (小田家)七代 治久 母は谷田部五郎広重の女
        ・P82〜  手勢百騎を一隊として配備 木田余途城口 谷田部刑部
         ・P120〜 島名面野井館主平出伊賀守は矢田部刑部の陣代として土浦で戦ったが、敗れて居館に帰る。
        ・P120〜 金田強清水上ノ館主沼尻又五郎は土浦の戦で討死したが、その子家忠は切り抜けて岡見に落ちた。 
 

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