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長崎県議・野本三雄の『長崎 夢、確かなカタチに!』

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2011年 10月

特別企画展『孫文・梅屋庄吉と長崎』が開幕しました

孫文(中央)と梅屋庄吉夫妻・右は梅屋が贈った孫文の銅像

日中国交正常化40周年と、長崎県と上海市の友好交流関係樹立15周年を記念した特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」が10月1日、長崎市立山の長崎歴史文化博物館で開幕した。

1911年の辛亥革命から100年、中国で国父と称される革命家・孫文と、彼の活動を生涯支援し続けた長崎出身の実業家・梅屋庄吉の交流を掘り下げるとあって年頭から熱心に広報されてきたが、3月の東日本大震災の影響もあり、また日本では孫文という人物にあまりなじみがないため、昨年の『龍馬伝』にまつわるフィーバーぶりからするとまだまだという雰囲気なのかもしれない。

実は梅屋庄吉には坂本龍馬の精神が受け継がれている。庄吉は長崎生まれであるが、土佐商会(土佐藩経営)の家主であった梅屋家に幼いころ養子に出されている。明治元年(1868年)に生まれた庄吉は、その一年少々前に亡くなっていた坂本龍馬には会えなかったが、維新の精神と国際貿易への渇望を受け継ぐ岩崎弥太郎ら土佐藩士の面々の中で育った。長じて香港で貿易商を営むようになる。

一方の孫文は1866年、中国広東省の農家に生まれた。当時の中国は清朝末期、西太后が実権を握っていた時期である。イギリスとのアヘン戦争に敗れ、列強は不平等条約により中国領土を好きなようについばんでいた。太平天国の乱の後、各地で民衆の反乱が起き、清仏戦争・日清戦争へと続く混乱の時代だ。

兄を頼ってハワイで学ぶなど西洋の思想に触れた孫文は、医師を開業する一方で革命活動に目覚め、革命資金を集めるため世界中を巡った。そんな中、1895年の香港で二人は出会う。中国の現状を憂うる気持ちは同じで、庄吉は孫文に「君は兵を挙げよ、われは財をもって支援す」と盟約する。庄吉28歳・孫文30歳のその約束を、庄吉は生涯守り続けることになる。

1911年の辛亥革命の翌年、孫文は中華民国の最初の大総統となったが、一ヶ月後には清朝の実力者・袁世凱に地位を譲位するかたちで追われ、1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立したものの、1925年に死去した。中華民国(台湾)と中華人民共和国の誕生に大きな枠割を果たしたことで、海峡の両側から尊敬される存在であるが、当人は「革命未だならず」と遺言した通り無念であっただろう。

写真右は孫文の死後、梅屋庄吉が中国に贈った4つの銅像のひとつである。列強に加わって中国の領土を奪おうとする日本のリーダーに反省を促し、孫文を尊敬する日本人の存在を中国人に示す意図があったとされる。孫文の死後9年目、1934年に庄吉は没した。3月に宣統帝溥儀が満州国の皇帝となり、満州鉄道が開業した年である。軍部に振り回される日本外交を憂い、親善を訴えるために訪中する直前の急死だった。

死の間際まで孫文との約束を果たそうとした庄吉の死の直後、日本はワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告した。前年には国際連盟を脱退しており、孤立した軍事国家の道を突き進み、1937年の盧溝橋事件、日中戦争から1941年の太平洋戦争開始へとなだれ込む。

彼らの交友と思いに触れる時、今日の日中関係のあり方を思うとともに、昨年ブームであった龍馬の時代から現代につながる日本の歴史の流れを感じることができる。そういう目で展示を見てみると、また違った感慨を得られるのではないだろうか。

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