修学旅行の思い出

1953年・高校2年春

50年以上前の修学旅行について、忘れていることが多いのですが、精一杯思い出して書いてみました。
 もし、間違っていたり私の記憶違いであればお教えください。

われらの母校は進学校であるゆえ受験に都合の良いように行事が組まれていたように思います。
  例えば修学旅行もその一つで3年生の時でなく2年生の春休みという休業中に行われました。
 全員で8クラス400人もいましたので、出発を2班に分けて「北九州」へ2泊5日で行きました。(車中1泊、船中1泊は含めず)私は広田ホームで確か後発であったと思います。
 煙の出す夜行列車で大阪駅を出発しました。朝方、鳥栖の駅で真っ黒になった顔を洗った記憶があります。朝、長崎駅に到着、市内観光してから小浜温泉の旅館に投宿。翌日、フェリーで島原港から熊本・三角港へ、阿蘇山登山して坊中駅付近の旅館で二泊目、次の日は別府温泉で地獄めぐり。その夕方関西汽船で天保山に早朝帰着しました。疲れた足で天保山駅から市電に乗ってナンバ駅前まで帰ってきました。
 

左から垣内、石塚、森清吾

担任の広田先生が体調をくずされ、代わりに網先生が臨時担任となられ同行しくださいました。

当時カメラを持っているものは少なく、広田ホームでカメラクラブに入っていた石塚さんがたくさん撮ってくれたおかげで、このコーナーが出来たわけです。このコーナーは主に彼の写真を使わせて頂きます。

左から石塚、矢島先生、網先生、垣内、森清吾、村田

オランダ坂

グラバー邸

原爆被害の浦上天主堂跡

長崎市内(市電が走っている)

大浦天主堂

マリア像

大浦天主堂の内部

眼鏡橋 (この橋は1982年の水害で流れた)

永井隆博士の家(如己堂)

長崎市は1945年8月9日、原爆を落とされました。私たちが国民学校3年生の時です。それからまだ8年しか経っていない長崎を訪れたことになります。あちこちで被害の爪あとが残っていました。爆風で片足を吹き飛ばされた鳥居、ほとんど形の残っていない天主堂など石造物さえ吹っ飛んだ威力を見せ付けられました。原爆症といえば長崎医大・放射線科の永井博士が余命を数えながら愛娘のために書いた「この子をのこして」という本を読んで涙したことを覚えています。
 最近、アメリカの歴史観を忖度したのか、ご自身の信念だったのか、原爆投下は「しかたなかった」と言った長崎県出身の大臣がいましたが、我々の世代として大いに考えさせられる問題だと思いました。

さて、長崎の町を見学の後、小浜温泉という海沿いの温泉旅館に着きました。旅館名は失念しましたが、初めての旅館での宿泊です。旅装を解く・・という実感があり、ほっとして温泉に浸かった記憶があります。
下の写真はその時のものだと思います。

当時は厳しい食糧事情が少しはましになっていたとはいえ、旅行する時は米を持参と言うこともあったのではないでしょうか。親の世代では旅行なんて夢のような時代でしたから私たちはまだ恵まれていたと思います。でも、この旅行は一体幾らぐらいかかったのでしょう。きっと親たちは生活費を工面して送り出してくれたのだろうと思います。今頃になって親の恩と言うものを感じざるを得ません。

この写真は小浜温泉の旅館の前で撮ったものです。広田ホームの男子です。真向かいは道路を隔てて海です。古い旅館の佇まいが感じられます。2001年に九州をドライブ旅行する機会があり旅館を探しましたが、この辺りの海は埋め立てられていてぜんぜん判りません。せめて、旅館名でもわかったら良かったのにと思いました。

旅館側から海を背にして撮ってもらった写真です。(村元、石塚、中西、村田)

小浜温泉からバスで雲仙温泉に向かいました。地表から噴出している硫黄くさい蒸気をかぎながら撮った写真です。

雲仙から島原へ降りてきて熊本の三角港に向かうとき、島原港で撮った写真です。右のほうに宮川先生(カッパ)が写っています。

熊本に行ってからあとの記憶は薄れて、どこへいったのか・・と考え込んでいます。多分水前寺公園かどこかでしょう。でも阿蘇山だけはスケールの大きさに息を呑み印象的でした。

噴火の激しい時期に遭遇し噴煙がモクモクとたっていました。今なら登頂禁止命令が出ていたことでしょう。河口近くに頑丈なコンクリートで作られたトーチカの様な「避難所」がいくつかあった記憶があります。この写真は4クラス全員で撮った写真でしょうか。顔が小さく自分を探しにくいでしょうがご辛抱ください。観光バスで延々と続く坂道を登っていきました。バスガイドのお姉さんが「長崎の鐘」を歌ってくれたような記憶があります。
 この後、阿蘇外輪山の中にある旅館に向かいます。内牧温泉の「角万」と言う旅館です。

小浜温泉旅館前

旅館名がなぜ分かったかといいますと、石塚さんの写真アルバムの中にこの「荷札」が残っていたからです。この旅館名を頼りにインターネットで検索し、旅館のメールアドレスもわかりましたので、50数年前に修学旅行で宿泊した者だとメールいたしました。(この荷札の写真を添付しました)そうしますとご丁寧に返信がありました。この荷札の時代は先先代のころで、今は場所も移動しホテルとして営業しているとのこと。ご縁があってこちらに来られるのならサービスをいたしますと書いてありました。

ホテル角萬  熊本県阿蘇市内牧1095-1  0967(32)0615
http://www.aso.ne.jp/~kadoman/index.html

この旅館の窓から外輪山を見ますとスケールの大きな火山だと言うことを実感いたしました。

左の写真は「坊中」という駅のプラットホームで撮っています。多分、バスでなく豊肥本線の汽車で別府へ向かったのだと思います。今だったらやまなみハイウェーで行くところでしょう。なお、今は坊中駅と言うものは実在せず「阿蘇駅」となっています。(1961年改名)

別府といえば「地獄めぐり」。最終日は・・・・。

矢島先生を中心に「鬼山地獄」の鬼を背景に撮影

http://www.beppu-jigoku.com/ 別府地獄めぐり

別府での地獄めぐりは面白かったです。海地獄は真っ青で100度近い湯が沸いていました。また、坊主地獄はボコボコと泥の中から蒸気が吹き出て、それが泥のあぶくとなり坊主頭に見えたと言うネーミングの面白さもありました。クラスに中西延夫さんがいて彼の渾名が「ぼうず」でした。彼は七期会の前幹事として長い間お世話になりましたが2007年に亡くなりました。

楽しかった修学旅行も最後の日を迎えました。この日の夕方関西汽船「あけぼの丸」で天保山まで夜行航海です。

今から考えると、この「あけぼの丸」は案外小さな船だったということがこの写真でわかります。トン数はわずか1033トンだそうです。現在運行している「さんふらわー」なんかは自動車・トラックを載せますのでもっと重量が多いはずです。

上記のあけぼの丸船上での写真は石塚さんが撮ってくださった写真です。クラスが偏って掲載しましたがこれは他のクラスの写真はあまり集まらなかったからです。

さて、翌朝無事天保山につきました。それぞれ疲れた足で市電に乗り帰宅しました。
青春の一こまです。
 
なお、このページの写真は解像度を低く抑えて掲載しています。七期・外遊びクラブ詳細編HPの「あの時私たちは(When we were....)」に大きな解像度の写真がありますので、詳しく見たりダウンロードしたりしてください。

永井隆博士について

博士には誠一(まこと)と茅乃(かやの)という二人の子供がいた。子供たちは疎開先で原爆の難をのがれた。
博士は、母親を失いやがて孤児となる二人の運命を案じていた。その思いや愛が、後に数々の名作を生み出す原動力となる。
「一日でも一時間でも長く生きてこの子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時間を縮めてやらねばならない。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

「私が眠ったふりしていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々あたたかくなった。何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむようにカヤノは小声で、
『お父さん』
といった。それは私を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸の奥におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

如己堂について

原爆で亡くなられた奥様・緑さんはクリスチャンでした。(洗礼名・マリア)
博士は結婚する前にご自分も昭和9年に入会されました。(洗礼名・パウロ)
「長崎の鐘」という歌に出てくる「ロザリオ」はご自宅の焼け跡から奥様の遺骨と一緒に出てきたということです。
爆心地より700メートルのところで被爆、長崎医大で放射線科の医師をしていた永井博士はご自身の原爆症と戦いながら献身的な医療活動をされたのでした。
同僚やキリスト教会の協力で、だった2畳一間の「如己堂」(己の如く人を愛せよの意)をたて、ここで「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」など小説、随筆を書き、またほかに絵や短歌も書かれたそうです。脾臓が腫れ白血球の増加と戦いながら学術論文も書かれました。

「長崎の鐘」とは浦上天主堂の鐘のことで50メートルの高さの鐘堂より落ちても割れなかったというエピソードもあります。

「長崎の鐘」は映画化され主題歌としてサトーハチロー作詞、古関裕而作曲で一世を風靡しました。歌手は藤山一郎ということは我々の世代なら誰でも知っているでしょう。

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