たかがクルマのことだけど

クルマとのかかわり=地図


トップページに戻る  目次ページに戻る  
前頁へ  次ページへ

目次
 (1)運転は苦手だった
 (2)身に付けた習性=地図を読む
 (3)自分のクルマを持って
 (4)クルマは道具に過ぎない
 (5)今も変わらぬこと


(1)運転は苦手だった

 私が運転免許を取ったのは、居候先で伯母の送り迎えをするためだった。大学一年の終りに、10数時間余計にかけ、4ヶ月もかかってようやく免許を取った。
 居候先は運輸業だったので、いつもプロの運転手と比較され、下手糞だと太鼓判を押されていた。当時の私は、ハンドルを握るのが恐くてしょうがなかった。電柱とかブロックでクルマを擦ったことなら数え切れない。ともかく、専用のクルマ(マツダ・ファミリアのバンの中古)も与えられ、3年間毎日ハンドルを握らされた。

 その当時、同い年で親しくしていた者が2人いた。1人は運転手で、もう1人が整備士だった。彼らはスピード狂で、クルママニアであった。彼らは自信家の反面寂しがりやだった。そんな彼らは私をドライブに誘った。私の役割は、ルートを指示し、時間測定を行い、出費その他を記録することだった。彼らは、私にハンドルを握らせず、ひたすらクルマを走らせた。また、費用のほとんどは彼らの負担だった。そんな割に合わないことを彼らが何故したのか分からない。

 今でも強い印象が残っているのは、運転手のMと出かけた三泊四日の能登半島と京都を合わせて走ったドライブである。事前計画も満足にせず、「地図と金があれば何とかなるだろう」程度の出発だった。私は、このドライブでずいぶん多くのものを身につけた。しかし、1,600kmの走行のうち、ハンドルを握ったのは200kmぐらいのものだった。

 Mとはこれ以外にもドライブをしたが、口下手な彼はいつも私に宿の交渉をさせた。我々は思い立つと直ぐやらないと気が済まない悪い癖があって、宿の予約なんて全くしていなかった。私も、人見知りが激しいほうで、交渉なんて向いていないのだが、背に腹は変えられないので渋々するしかなかった。そんなことを繰り返すうちに、交渉事は私の分担になっていた。
 ハンドルさえ握らなければ、ドライブほど楽しいものはなかった。幼い頃から出不精だった私は、一人で旅行なんてしなかったものの、気の合う仲間とドライブに出かけるたびに、新しい発見や体験をした。大学で学んだことよりも、ドライブで得たものの方が人格形成に大きな影響を与えたように思う。
                               文頭へ戻る

(2)身に付けた習性=地図を読む

 クルマとは5年ほど離れていた。就職してからYと知り合って、キャンプ旅行や山歩きをしていたからだ。年に数度MやYとドライブをしたが、毎日の運転と違って危なっかしいものだった。伊豆の天城峠をトップギヤのまま降り、あわや転落なんて目にも遭った。そのたびにMに非難されっぱなしだった(Mとは、彼が身を固めるまで、就職後2年ほど付き合っていた)。
 Yと山歩きをしていた頃も、地図を読んだり、計画を立てるのが私の仕事だった。宿の交渉はほとんど私がした。当時のYは女の子をクドクのが趣味だった。私はそのたびに歯ぎしりした。同い年のクルマ仲間は照れ屋で、女の子と話すなんてことは皆無であったから、Yの行動を羨んだものだ。

 私の仲間は猪突猛進の男たちである。彼らは、思い立つと直ぐに実行しなければ気が済まない。だが、彼らは他人に命令されるのを好まない。そこで、私にお呼びがかかるのだ。「煽(おだ)てりゃ付いてくる。叩けば動く。役割を与えりゃまあまあこなす」と彼らは考えていたようだ。もっとも、私も煽てられて、「それじゃやってみるか」なんて安請け合いする調子者だから、お互い様かもしれない。
 彼らと一つ違うのは、私が臆病だという点である。私は、人の記憶よりもデーターを重視しがちだ。資料を検討して、自分が納得できる計画を組まないと不安になる。出発する前に複数の地図やガイドブックを購入して事前に検討し、現地でそれらをチェックしながら歩き、戻ってきてから記録に残してきた。

 《地図は読むものだ》と考えるようになったのは、クルマの仲間と行動しているときだった。ドライバーに指示しなければならない私は、目的地まで何キロメーター走り、時間をどのくらいかけ、何を目標にして、どこで曲がり、迂回ルートをどう確保し、目的地に何時ごろ到着して、どこへ泊まるかを知っておかなければならなかった。そのためには、地図を《読みこなす》しかなかった。目的地は決めてあっても、その過程など頭に無い仲間は、これをさせるために私を誘ったようだ。

 そして、クルマは走っているから、短時間で決定することも欠かせなかった。ドライバーに問われる前に、通過地点と現在地を地図で把握しておき、《先を読む》のは当然のことだった。指示が遅れると怒鳴られ、誤った指示をすれば後々まで罵られてきた私は、何時の間にか《地図を読む》ことが習性になっていた。山歩きのとき、この習性がずいぶん役立った。

 私はずいぶん寄り道をし、それらにノメッてきた。ノメルきっかけは仲間の誘いだったが、続けさせたのは私がそこに自分の役割や存在価値(?)を見出したからだと思う。互いが共通の目的に向かって、互いの気質を生かし合って、分業してきたと思う。他人の指示を待ち、他人に頼るだけだったらノメッたりしなかったはずだし、仲間だって一緒に行動する気も起こらないだろう。
 我々は一緒に行動してきたが、それはリーダーに全てを依存するものではなく、互いの得手不得手を補い合い、一人では出来ないことをしてきた。私は、我々の行動を団体行動とか集団行動とは呼びたくない。我々は、個人個人が責任を持ち、互いの個性に基づく分業をしてきたからだ。
                               文頭へ戻る

(3)自分のクルマを持って

 私が自分のクルマを持つようになって3台目になる。3年前(1978年2月)にMが私に譲ってくれた、日産サニー1200GX(1970年型)が最初のクルマだった。このクルマには2年間で45,000km乗った。最初の1年間で3万km近く走った。休日を待ちわび、半日で300km、一日なら500kmを平気で走った。それは私が山歩きにノメッた頃の振舞いに似ていた。このB110のサニーは、12万kmまで走ってくれたが故障も多くなったのでMに戻した。山道を難なく走り、スピードもよく出て、燃費のいいクルマだった。マニュアル車だったから、自分で簡単な整備や修理も出来た。

 2台目(中古)、3台目(新車)はトヨタ・スプリンターである。サニーには及ばないもののそれなりに走ってくれる。私は、自分のクルマのほかにYのクルマ(ホンダ・アコード1600のオートマチック車)を走らせることも多い。遠くに出向くときは、一人で運転をするのが辛いから、私のマニュアル車をやめて、相棒が運転できるオートマ車に乗る。     
   ☆【補足】現在は8台目になります。
                               文頭へ戻る

(4)クルマは道具に過ぎない

 サニーに乗っていた頃、相棒のYが免許を取った直後に、教科書めいたものを作ったときの記録は次のとおりだ。・・・・・

 「クルマは道具にすぎない。そして、人間が走らせるものだ。今でもクルマを財産とみなし、いたずらにクルマをかばう人も多い。外装ばかり気にして、性能に全く気を留めない傾向がある。こういうテアイに限って、意気がった運転をしたり、ノロノロ運転をしている。一人よがりで全く迷惑な存在である。
 クルマは、故障が無く、思い通りに操作できればよい。外装にこだわらず、走らせるべきだ。車内を飾り立てることもないし、足回りがしっかりしていて適切なハンドル操作が出来ればそれでいいのだ。

 道具というのは、人間の補助手段ということである。人間の身体の延長ということだ。そして、クルマを走らせるのは、我々人間なのだ。このことを忘れているドライバーが多すぎないか。便利さに溺れ、余りにも多くをクルマに依存しがちである。クルマは便利な道具だ。歩いたり、背負うなら何日もかかるところを省力化できるし、また、僅かな操作で行える。
 《クルマの便利さ》と、《クルマを動かすのは人間だ》ということを区別すべきである。安易なクルマの使用は、他人を傷付ける凶器となることを僕らは忘れてはならない。便利さがドライバーを過信に陥れ、そこにある種の《狂気》を醸成し、それが歩行者や他のクルマに《凶器》となっているのを僕らは無視してはならないのだ。便利さを並べ立ててクルマの運転を正当化するだけでは、何時までたってもクルマは僕らの道具とならぬのではなかろうか。

 現代はインスタントばやりである。構造など知らなくても、暗記力さえちょっとあれば、教習時間を多少オーバーしても必ず免許を取れる。僕もそんな一人だ。運転免許は、運転するための資格、つまり、運転をするための基本動作と基礎知識を一応学んだという程度のものにすぎない。クルマを走らすのは資格とは別のことだ。
 資格を取り、経験を増してクルマを思うとおりに操作できることが、クルマを走らせる必要条件である。教習所で全てを教わったと誤解してはならないのだ。道路では、初心者だから周囲がかばってくれるべきだという甘えは通用しない。若葉マークは、ご迷惑をおかけしますという意味しか持たない。

 クルマを走らせることは、他人や他のクルマの存在を認めることと結びついている。歩行者、対向車、前の車、横の車、後ろの車の全てに関わっている。そして、クルマの流れとも関わる。クルマを走らせる難しさは、一人よがりが通用しないところにある。
 《一人よがり》と、《自由》とは区別すべきだ。クルマを走らせることは、互いの自由を制約することでもある。他人を傷付けて行う《自由》は暴力である。制約を欠いた《自由》などありえないものの、一人よがりを《自由》にすりかえ、自己正当化を図る安易な風潮がはびこっているものの、自由を主張する者が往々にして他人を不自由にしていることを僕らは忘れてはならない。(1979年3月記す)」
                               文頭へ戻る

(5)今も変わらぬこと

 サニーを走らせていた頃、私はワックスを一度もかけたことが無いとうぬぼれていたものである(洗車は月に2回していたが、ワックス掛けは2年間全くしなかった)。しかし、考えの基本は今も変化していない。クルマは思うとおりに操作できる道具であれば十分だし、また、クルマを走らせることは他人及び他車の存在を認め、協調して行くしかないということを2年前より切実に感じる。
 3台目にして新車を手に入れた私は、この頃ワックス掛けもし、クーラーの便利さも認めるようになったものの、そのことと私のクルマに対する考えとは別のことである。なけなしの金を頭金に買ったせいで、クルマをかばうのもこの頃の悪い癖だ。

 クルマは走らせる道具であって、決して他人に見せびらかせる《財産》であってはならないのだ。自分の《財産》を大事にするばかりに、他人や他車を傷付けたり、判断を誤らせる原因を撒き散らしてはなるまい。これを忘れている財産家のドライバーが何と多いことか。また、道路の不備を並べ立て、責任転嫁を図るドライバーもはびこっている。

 わたしは、一人よがりで無責任な発想がはびこる限り、安全運転はもとより、他人の自由を尊重し、互いが協調して行く住みよい社会などありえないと考える。そういうことを別にしても、クルマを走らせることさえ困難になるような危惧を感じている。

 理想と現実の対比、互いの立場の相違、責任回避・・・こういうものを並べ立てるのは簡単である。しかし、我々は口舌の徒であってはならないのだ。迷惑と感じたもの、危険を味わされたことを撒き散らしてはならないはずである。

 クルマを走らせるのも、道路を歩くのも我々人間なのだ。そして、傷つくのもまた我々人間である。その人間は私であり、また、あなたとあなたの家族なのだ。クルマを走らせるたびに、私は時折こんな叫びをしたくなることも多くなっている。全てを政治と関わらせて考えたことのある私は、我々一人一人が自立し、かつ、協調することの重要性を味わうのである。【1981年10月】
                               文頭へ戻る