たかがクルマのことだけど
他人のクルマに乗せられて
トップページに戻る 目次ページに戻る 前頁へ 次ページへ
目次
●腕に自信があっても運転を止めたいとき
●友人のクルマを傷つけて
●ありがちな操作ミス
●とっさの時は自己中心的だ
●長距離ドライブをするとき
私は自分のクルマ以外にときおり友人のクルマも走らせてきた。そんなとき味わった違和感を整理しておきたい。
●腕に自信があっても運転を止めたいとき
自分のクルマに乗り慣れると他人のクルマを走らせられない、というドライバーがいる。私にしても他人のくるまには自分のクルマ以上の気を使う。いくら道具にすぎないとはいえ、やはり他人の大切な《財産》である以上ぞんざいに扱えないからだ。そのクルマが新車だったり、所有者が外観を気にする人なら、すすめられても絶対にハンドルを握ってはならない。たとえ、その人が「疲れたから代わってくれ」などと口にしても、決して鵜呑みにしてはなるまい。そういう人に限ってヘマをすれば後々まで恨みつらみを並べ立てるからだ。好意が災いの元になり、互いを気まずくさせる。
文頭へ戻る
●友人のクルマを傷つけて
私は友人のクルマを2度傷つけている。1度目は下北半島の山道で対向車に道を譲って側溝に落ちた。2度目は比叡山で道を間違えて動揺していたときに脱輪させた。いずれも左の前輪である。
1度目は、すれ違い困難な山道にもかかわらず猛スピードで突っ込んできた対向車を避けたためだった。
「ホトケ心を出すからこうなったんだ。あんなヤツは転落でもしちまえばいいんだ。チクショー!」と友人は私をなじった。カマボコ型になっていた砂利道を滑って路肩にはまった。
2度目も道を間違えたいらだちがきっかけだった。慣れぬ場所に出向き、曲がる場所を過ぎてからようやく指示を出す友人に腹を立てて戻ることばかり気にしていたときだ。『あそこでユーターンしよう・・・』と思っていた矢先だった。夕暮れ時だったのでガクッと音がするまで私はそこに溝があることさえ気がつかなかった。でも、止まるつもりでブレーキを踏んでいたのが幸いだった。そのままつっこんでいたら崖から転落していただろう。右カーブのせいでライトの照射範囲から側溝がずれていたのもヘマのもとだった。
文頭へ戻る
●ありがちな操作ミス
こういうヘマに至らぬ操作ミスもある。急ブレーキをかけるしかないときにいつも味わされることだ。友人のクルマがオートマチック車であるのを忘れて、マニュアル車のつもりで両足でブレーキを踏むからである(マニュアル車はクルマを止めるときにクラッチとブレーキを踏む)。また、エンジンブレーキを使うつもりでレンジをチェンジすることもある。
ブレーキのききもクルマに差がある。ドラムブレーキとディスクブレーキの違いだけでなく、クルマの設定にばらつきがあるからだ。同じ踏み込みでもマニュアル車よりオートマチック車の方がブレーキのききが強いような気がする。
文頭へ戻る
●とっさの時は自己中心的だ
友人が私のクルマを走らせ、また、私が友人のクルマを走らせるときに感ずることは《人間は自己中心的で、不器用な動物だ》ということである。誰もが自分のクルマの特性を中心にして他車を走らせ、たとえ気づいてもおいそれと順応しないのだ。
自分のクルマしか走らせたことのないドライバーほど、ベテラン顔をして「俺のクルマだったら・・・」と並べたてるだけで、クルマに自分を合わすことをしない。こういうドライバーに限って、他人が自分のクルマを走らせるときにはああだこうだとケチをつけるのも始末が悪い。
自分ができないことを他人に強いるのはわがままである。他人が動かす以上、自分と同じように操作できるわけもないのだから、多少のミスには目をつぶるくらいの寛容さを持ちたい。それができないなら他人にハンドルを握らせることはやめるべきだろう。
文頭へ戻る
●長距離ドライブをするとき
たとえ同じ車種にしろ、自分のクルマと他人のクルマの違いを早く知り、それを操作に結びつけることが大切である。つまり、走らせるクルマに自分を合わせなければならない。自分のクルマの便利さを並べ立てたところで何にもならないのだ。頭の切り換えができないまま走らせるなら他人(車)に危険をまき散らすだけである。
長距離ドライブのときは、誰が主体になってハンドルを握り、また、誰のクルマを使うかも事前に検討すべきである。特に、ミスを生みやすい山道や市街地、あるいは初めて訪れる場所などは必ずそのクルマの所有者がハンドルを握るべきだ。
他人にまかすのは心理的負担が少ない場所に限りたい。それは事前に走行ルートを検討すれば決められる。クルマを走らせるのが人間である以上、ドライバーの心理的な負担を軽減するよう努めるしかない。
どういうわけか、私は自分のクルマを一度も脱輪させていなくて友人には申し訳ないのだが・・・。
文頭へ戻る