久里浜 千代ケ崎砲台跡 妻と久里浜にある旧日本軍の千代ケ崎砲台跡に行った。JR久里浜駅から平作川沿いの国道134号を海に向かって進む。8月末に猿島に行ったときは暑くてかなわなかったが、一月経って季節が進みだいぶ過ごしやすくなってきた。それでも日向を歩いていると汗ばんでくる。所々に植えられた百日紅が赤い花をつけていた。 しばらく歩くと前方に海が見えてきた。海岸線と平行に走っているペリー通りに出て、開高橋を渡った。少し行くと右手に長瀬海岸緑地が見えてくるが、ペットボトルなどゴミが海岸に流れ着いていて、汚い感じだった。さらに歩くと上り坂になり、前方にトンネルが見えてきた。川間隧道である。 川間隧道には入らず、その脇道に入りしばらく行くとこちら側にもトンネルが現れる。トンネルを抜けると道は下り坂になり、海の方へ向かって大きくカーブしていた。果たしてこの道でいいのか不安になり、妻にスマホで調べてもらったら道は合っているようだ。ここまで全く千代ケ崎砲台跡の標識がなく、観光地化されていないのはいいが、先ほどの長瀬海岸の汚れっぷりといい、久里浜はあまり観光に力を入れていないのかな思った。 下り坂の途中には工場などがあり、果たしてこの先に史跡などあるのだろうかと不安になってくる。坂道を下り終えるとT字路に行き当たった。ここにも千代ケ崎砲台跡の標識はなく、どちらに行ったらいいのかわからず、妻のスマホで調べてもらいT字路を右に行った。左手は草が生い茂りその奥には海が広がっているようで、右手には特養老人ホームなどがあった。 しばらく歩くと海岸に向かう小道があり、標識が立てられていた。小道を行くと燈明堂というところに行くようだ。道なりに行くと千代ケ崎砲台跡がある。道は大きく曲がっていてかなりの上り坂である。通りにはヤードと呼ばれる屑屋さんがあったり、工事用のトラックが走っていたりしてとても史跡があるようには思えない。 かなりきつい上り坂をいくと千代ケ崎砲台跡の駐車場があり、数台の車が止まっていた。しかし、ここは上り坂の中間あたりで、さらに歩かなくてはならない。千代ケ崎砲台跡はこの道の行き止まりにある。概要の記された案内板が立てられていて、その先にゲートがある。ゲートの先は土塁になっていて、その中央が切り開かれて両側に石垣の積み上げられた壁の中に道がある。 石垣の道を抜けると広い場所に出て、受付に行くようにという看板があり、初老の男性が案内してくれた。その先に平屋のプレバブ小屋のような建物があり、その前に設置されたブルーのベンチに数人の初老の男性が座っていた。僕たちが汗びっしょりになっているのを見て「歩いて来たんですか?」とそのうちの一人の男性が声をかけてきたので、「駅から歩いて来ました」というと驚いた顔をした。ほとんどの人は車で来るようである。 「ガイドはどうします?」と訊かれたので、少し考えていると妻が「お願いします」と言った。ガイドさんがいると詳しい話が聞ける一方、自分たちのペースで周れないというデメリットはあるが、後から思うとガイドさんを頼んで大正解だった。「しばらく休んでから行きますか?」と言われたので、小屋で休憩することにした。中はエアコンが効き過ぎるくらいで、ウォーターサーバーに入れられた水を飲んだ。 「トイレに行きたいのですが?」というとガイドさんが「そのドアを出たところにあります。入ったら驚くと思いますよ」といった。何を驚くのだろう?と思ってトイレに入って便器の蓋を開けたらびっくりした。便器の中に水はなく、土があった。バイオマストイレだったのである。小を済ませた後、使用後このボタンを押してくださいと貼り紙がされていたので、それを押すと金属のアームが土の中から二本出てきて、土をかき回した。 小屋へ戻って「バイオマストイレだったのですね」とガイドさんにいうと「ここは水道がないんですよ」といった。そういえば手洗いもタンクに溜められた水だった。まずは小屋の中に展示されている資料の説明がされた。砲台で使われているレンガは小菅刑務所で作れた物だとか設置されていた砲台は28cmの榴弾砲で砲弾の重量は217kgであるという説明をきいたりした。妻もトイレを済ませた後、砲台跡の見学に向かった。 まずは塁道と呼ばれている石垣で囲まれた道を進んだ。道はコンクリートで舗装され側面の壁はブラフ積みという工法で石が積まれている。露天部分と隧道部分が繰り返される塁道の壁面にはいろいろな施設が造られている。砲台には水道が通っていない、そのため雨水を生活用水として利用していた。そのための貯水所があり、現在でも水が溜まっている。 兵士たちの宿舎もあり、部屋の奥に現在は閉じられているが空気窓が造られていて土塁の上にその跡を見ることが出来る。レンガはイギリス積みで砲台の作られた年数が猿島より後だったことがわかる。貯水所や兵舎など施設の内部はガイドさんといっしょじゃないと見学できない。特に地下の砲弾弾薬庫から地上の砲座への経路が興味深かった。ランプの置かれた階段を上り、砲弾を上げる穴なども見学できた。 弾薬庫からランプの置かれた階段を上がり榴弾砲の設置されていた砲座に入った。しかし、ここは土塁の中にあり、直接海を見ることはできない。一体どうやって敵艦船の位置を把握し、大砲を打っていたのだろうかと思った。そのことを訊くと左右に観測所があり、そこからの指示で敵艦船の方角や距離を知っていたのだという。観測所からの指示は地中に埋め込まれた伝声管を通して伝えられていたそうだ。 70代と思われるガイドさんは当然といえば当然なのだが、どんな質問でも答えてくれた。司馬遼太郎の著作での間違いを指摘したりと関連知識も豊富だった。砲台から出て砲台の上の土塁に上がった。ここからは海が一望できる。千代ケ崎砲台跡は戦後土砂で埋め立てられており、それを掘り返して復元したそうだ。砲台の土地は左右曲折を経て史跡に指定されたそうだが、半分くらいは民有地となり現在は果樹園が運営されている。果樹園はブルーベリーなど季節の果物がとれ、大人気だという。土塁の上からは果樹園の中に遺された砲台跡の施設を見ることができる。妻が「もったいないですね」というと、ガイドさんは「市もお金がないので、買い戻すのは難しいでしょう。せめて見学できるようになればいいんですけどね」といった。 すべての見学を終えて小屋に戻り、休憩をした。時刻は4時近くになっており、残っていたガイドさんたちは外に設置されていたベンチを小屋の中に運び込んだ。僕にはひとつ疑問があった。それはこの千代ケ崎砲台から敵艦船に向かって砲弾を打ったことがあるのだろうか?ということだった。そういった状況は思い浮かばなかった。それをガイドさんに訊くと「ペリーの来日する前、アメリカの船が日本人の遭難者を返還しようと来たことあります。そのとき、外国船が攻めてきたと勘違いして砲弾を打ちました。幸いにして当時の砲弾は飛距離がなく、当たらなかったそうです。また、日露戦争の時、ウラジストックの艦隊が東京湾に入口まできましたが、結局、湾内には入らずそのまま帰還しました。千代ケ崎を始め、猿島、観音崎、富津岬など東京湾要塞と呼ばれた砲台群があったからです。抑止力として存在意義は十分にあったのです」と答えた。 千代ケ崎砲台跡を出て再び市街地へ向かった。行きは長く感じられたが、帰りはそれほど感じなかった。しかし、足が痛みだした。ここ二月ばかり足底筋膜炎になっているようで歩いている間はそれほどでもないが、休憩してまた歩こうとすると足裏に痛みが走るのである。我慢して、またしばらく歩くと痛みは軽減されてくるのだが、足を庇うような歩き方になっていたらしく、足首辺りが痛くなってきた。 妻は花が好きなのでくりはま花の里に行こうと思っていたが、足の痛みと陽も暮れかかっていることから、諦め駅に向かった。駅の近くで夕食を取ろうと思い探しているといい感じのお寿司屋さんがあり、表の看板に載せられていたメニューの価格も手頃だったので入った。お刺身の盛り合わせと季節のてんぷら、そしてアルコールを注文した。お刺身はクジラなどもあり、種類も豊富で美味しかった。 途中でご飯がほしくなり、店員さんに訊くとご飯はないという。「お寿司を注文したらどうですか?」と言われたので、サンマ、ヒラメ、マグロの中トロ、サーモンの4品を頼んだ。ただ、シャリの量が少なく、店を出てから妻はそのことに文句をいい、スシローの方がよっぽどリーズナブルで美味しいといいだした。僕はスシローに限らず回転寿司に偏見のあるため、美味しいというのには同意できなかったが、今度、試してみることに同意させられた。(2025.10.7) |