N島日記1


                          2000年

「来ない。」
N島は待ちつづけていた。 
「おかしい。もう、来てもおかしくないのに・・・・」

「まったく、俺の親戚および、血縁関係者達は一体何をやっているんだっ!!」

彼は机に向かって、怒声を放った。
先ほどから、彼は待ちつづけていた。いや、正確には十八年間である。

今の彼はあまりにも追い詰められていた。
彼に降りかかった現実は後に記すとして、しばらくは彼の様子を窺っておこう。
一体何を待っているのだろうか?

彼は先ほどから机の引出しに向かってぶつぶつと文句を言っている。
客観的に見ても、机の引出しの前で待つという行為が外部からの接触をもたらすとは思えない。

それでも、彼は待ちつづけた、いや、むしろ待ち焦がれた。
「おかしい。なんでだ?なんでこないんだっ?」
彼はいらただしげに机をドンと叩くと、首を傾げながら開いた引出しの底を穴のあくほど見つめ続けた。

どのくらいそうしていただろうか?
彼の焦燥は怒りに変わり、怒りは懇願になっていた。

「お願いだ、早く。早く、来てくれ。」

「まだか?まだなのか・・・?」

「いつになったら来てくれるんだよっ!!ドラえ○〜ん!!」

そう、彼はドラえ○んを待っていたのだ。一日中ずっと。しかも本気で。

ジャイ○ンに苛められたの○太と寸分違わぬ涙声を上げて、彼は叫んだ。
「まったく、俺の子孫は何をグズグズしているんだ。このままじゃ手遅れになってしまう。」

言うまでもないことだが、もう、十二分に手遅れである。
手遅れだらけだ。

本気でドラえ○んを待っている引きこもり男に配偶者ができるだろうか。
懐疑的にならざるを得ない。

当然、配偶者がいなければ子孫などできるはずもない。
そのことに気が付かないのも手遅れである。

それでも、彼は盲目的にドラえ○んを待ちつづけていた。
否、待つ以外に救いの道が残されていなかった。
彼の自らの行動とはいえ、陥った状況を考慮すると、ドラえ○んが必要であった。

彼に一体何が起きたのか?

彼は周知のとおり、ギャンブルによるプチ破滅に酔っていた。
その快感を味わうために暇を見つけては、ギャンブルをし、負け続けてきた。

その結果、彼はバイトの給料日から一週間も経つと文無しになっているのが常であった。
月初めになると、彼には財布の必要性が欠片もなかった。
 
しかし、十二月の始めは参加イベントが非常に多く、彼の手帳を黒く染めていた。
そのとき彼はいつもどおりオケラだった。

ゼミの飲み会、電話代の請求、バイトの飲み会、サークルの飲み会、ラグビーの早明戦、数を上げればきりがない。

彼はパソコンのラックで頭を抱えていた。 
そうして、バイト先の店長のように、眉間に皺をよせ、悲壮な表情で口を開いた。
 
「仕方がない、あれを使うか。」 
彼はラックの右上方に置いてある。あれに目を向けた。

「いや、しかしあれは・・・、越えてはいけない一線だ。・・・でも、他に手がない。・・が、しかし・・」

彼は迷っていた。一線を超えて落ちていく快楽に身を委ねてしまいたい欲求が彼を突き上げていたが、僅かに残る理性が最後の抗いを続けていた。

それにしても、あれとは何か?

彼は、大学二年のときに、自動車の免許を取得した。
当然その資格をフルに活用するつもりだった。

そこで、彼は将来的展望をし、自動車のローンの利率や、外貨の定期預金をしたときの利率などを考慮した結果、奨学金を借りたほうが得なのではないかという結論に達した。

車を買うのに現金で一括で買う人は少ない。
皆、ローンで高い利率を支払っている。

そういった諸々の条件を加味した結果、最終的に借りない手はないと判断して、彼はそれを申請した。

その行動の対価があれである。

今まで、彼はあれにだけは手を付けなかった。
しかし、それにも限界が近付いていた。

彼は恐る恐るその通帳に目を通した。
そうすると、幾ばくかの端数が存在することに気が付いた。

「端数部分がある。それなら・・・少しぐらい、いいのではないだろうか。」
彼には悪代官が美女の着物の帯を回している姿が思い浮かんだ。
典型的駄目人間の思考回路である。

その少しが命取りであるのに、彼は気がつかなかった。
彼の人生においてここがもっとも大きな分岐点なのかもしれない。
そこで、彼は致命的な選択をした。

彼を知る者から見れば、彼の駄目な選択は必然であろう。
否、必然でなければ面白くない。

彼は通帳と印鑑をもつと、銀行へと向う。
そして、その局面を乗り切るのに必要と思われる現金のみを手にした。

破滅型人間の彼にとっては非常に珍しい選択であった。
まずは・・・・・、電話代を支払うため、コンビニを探す。

そのときである、待ってましたというように伏兵が現れた。
そう、軍艦マーチである。
勝負の音色が彼を誘う。

「駄目だ、駄目だ、駄目だ,行ってはいけない。」
彼は全身全霊の力でその黒い誘惑に抗った。

それでも、誘惑は諦めない。
彼の耳に某カルト宗教集団の修行の洗脳のような声が響いた。
「破滅するぞ、破滅するぞ、破滅するぞ、破滅するぞ。」

「しない、しないよ。今日は。」
彼は必死に抵抗した。

しかし、誘惑の力は絶大であり、彼は落とし穴に落ちるように、闇の世界へと引きずりこまれていった。
どんどん意識が薄れていく。

五分ほどの空白の時間があった。

彼は既に椅子に座り、金銭をメダルに交換した状態で意識が戻ってきた。
時既に遅しである。

彼の意識は都合のいいように戻ったり、戻らなかったりする。
賽は投げられた。
シーザーのように「来た、見た、勝った」だ。
彼は思った。

彼は意気込むと勢いよくコインを投入し、レバーを下ろす。
図柄が早い周期で回転する。

それを、一心不乱に凄まじいスピードで止める。
彼は憑物に憑かれたかのように時間を忘れて、その作業に従事した。
みるみる、コインが無くなる。

最初のコインがなくなったとき、彼の残り少ない理性が命を張って彼を止めに掛かった。
しかし、覆水盆に返らず。このままでは、元に戻ることはできない。

そう、人は得たいのではない。失いたくないのだ。
失いたくない気持ちで退くことができず、さらに失う。
彼も例外ではなかった
彼の中の人格の大多数は可能性を追求することを要求した。

いつの時代でもマイノリティは弾圧される。
彼の弱い理性では多数に勝てるはずもなかった。

彼の財布から、紙幣という兵隊が可能性の追求へと向かわされた。
次々と、投入される。
しかし、生きて返ってくるものはいなかった。

崩壊したダムのように彼の散財は止まることを知らない。
頭の奥からミスチルの歌が流れ出す。
そう、「明日は決して知ることはできない」

彼は自分ではない何かが、自分の腕を動かしていると思った。
一歩、一歩破滅がヒタヒタと近付いてくる。
彼は笑顔でその様子を眺める。

「違う、破滅じゃない、逆転が必要なんだ。」
彼の抗議を他所に、破滅は近付いてきた。
心なしか、破滅が笑っているような気がする。

また、彼の頭の中で音楽が流れ出す。
今度は、タイタニックだった。
嬉しそうな破滅と、一緒にいる彼自身。
現実感のない意識の中で、「どちらが、ディカプリオだろう?」
彼は思った。

そうして、また意識が薄れていった。

気が付くと、公園のベンチだった。
彼は恐怖に凍りついた目で、近くに放られている財布を見た。

夢であって欲しい。
偽らざる彼の本心だ。 

が、現実はそんなに甘くない。 
財布の中には、五円玉が一枚だけ入っていた。

「ぺんぺん草一本生えやしねえぜ」

言ったあとで、彼は急に可笑しくなり、笑い出した。
彼の笑い声が夜の公園を支配する。
音のするものは彼の声だけである。

彼は、笑いながらも涙が込み上げてきた。
泣いているのか、俺。
彼は思った。

おかしいよ、こんなに面白いのに・・
なんで涙が出てくるんだろう?
越えてはいけない一線だったからなのだろうか・・・
おそらく、それは彼の理性の流す、最後の涙だったのだろう。

大分夜も更けていた。
寒風が心も冷え切った彼の身を包む。
仕方がないので、彼は泣き笑いをしたまま、帰路にとついた。

彼は快感と悲しみ、喜びと諦観の同居した不思議な感覚を味わっていた。

明日からがんばろう。

何をだか明確ではないが彼は思った。そして、一日が終わりを告げていった。


これが彼におきた現実である。
さて、ここでもう一度、彼の様子をみてみよう。

どのくらい時間が経過したであろうか?

時計の単針が三百度回った時、彼はその日のドラえ○んの来訪を諦めた。

「まだ、明日がある。」彼は呟いた。
仕方がないので、彼は現状を打破する方法を自分で考えることにした。

そして、閃いた。

「そうだ、今までは他力本願だったからいけなかったんだ。二十歳を過ぎたのだから、いい加減気が付かなければならなかったのだ。そう、頼れるのは自分しかいないということに。」

彼は、そう叫ぶと、急にキョロキョロとあたりを探し始めた。

「いない、いないぞ、どうしったっていうんだ。いつもはいるのに。」

「大変だ、このままでは絶滅してしまう。そうか、公害の所為だな。環境庁に電話しなければ・・・・ もし、絶滅してしまったら、俺の人生の更生も難しくなってしまう。」

彼は慌てて捲くし立てた。

今度一体何を探そうとしているのだろうか?
人格破綻者の彼のすることは想像がつかない。

彼は取り乱すと、表へと飛び出していった。

「いない、ここにもいない。何処にいったんだよっ。なんとか、なんとかしてくれよっ!!」

「僕の妖精さんっ!!」

どうやら、彼は妖精さんを探していたらしい。
しかも、彼にはそれが存在し、見えるもののようだ。

さらに、都合のいいことにその存在するらしい妖精さんに現状をなんとかしてもらうつもりのようである。

先ほど、頼れるのは自分しかいないとか言っててこの有様である。

終わっている・・・終わっているよ
今の彼は原爆を被爆した広島の土壌のように荒廃した画像を髣髴させる。

彼の両親もどのくらい涙で枕を濡らしたことだろうか?

彼は町の人々を手当たり次第捕まえると、

「妖精さんは何処に行ったのですか」
と問いただした。

町の人々は怪訝な顔をすると、逃げるように去っていった。

買い物袋を持ったおばさんは可哀相にという顔で、彼に一瞥をくれて去っていった。

中年の男性は頭の横で手をクルクルと回した。

小学生には指を指され、石を投げられた。

それでも、彼は諦めなかった。
「妖精さんを見つけられるのは俺だけだ。見つけたら、絶対になんとかなる。」

彼は呪文のように繰り返し言いつづけた。
「妖精さん、妖精さん・・妖精さん。」
いいながら、あたりを見回す。

おそらく、三十分くらいの出来事であっただろうか。

そんな彼の奇行にも終結がきた。
遠くの方から、救急車のサイレンがドンドン彼に近付いてきた。
彼は僅かに残る理性で考えた。

「おいおい、精神病には救急車は必要ないぜ。」

しばらく、白い壁(精神病院の壁は真っ白と耳にしたことがある。)を眺めることになりそうだな、彼は思った。

彼が病院から出ることができたのなら・・・

つづく