No.7
【FURANO 傷つく森の緑 その壱】
今現在48歳の僕が35歳の秋に初めて富良野の町に唄いに行った。
カレー屋、唯我独尊の宮田さんに連れられ階段を2階に上がり木製のドアを開け「傷つく森の緑」に・・・・・・・・
それまでにも十数年いろんな街を旅して、人に対しての初対面にも慣れていたはずだが、何故か緊張をしたのを覚えている。
佐々木良男氏との運命の出会いの瞬間である。
雑談をし、珈琲を頂きリハーサル。当時機材は無く、知人に借りたミキサーをステレオシステムにインプットして音を出していた。
リハーサルも終わり、ビールを頂きながらギターのチューニングをしている時、佐々木さん(当時はそう呼んでいた)から、ボトルネック奏法の話が出た。それまでにも録音ではボトルを使っていたものの、ライブ本番では一度も弾いたことなど無かったのだが、良男ちゃんの意見に逆らえずに無謀にもぶっつけ本番で弾いてしまった。
コレが僕のボトルネックデビューである。それまでブルースには興味はあったものの、あのスリーコードの曲は殆ど演奏したことが無かった。
若い頃からラグタイムギターには馴染みがあり、それ以後は抵抗も無くブルースに身を任せていくことになる。
その初回の演奏を良男ちゃんがどんな感想を持って聞いてくれたのかは今も聴いたことは無いが、そのツアーの途中、気弱になった僕が電話を入れた翌日に厚岸町まで車を借りて来てくれた。
その後、富良野に唄いに行く度に、一回の道内でのツアー中に2回、3回と演奏回数が増えて、狭い店内のテーブルと椅子を雛壇状にしてテーブルにもお客さんが座り、床に座っている人もいた。休憩なし3時間ライブ。それが次の日も続くのである。今となっては懐かしくも恐ろしい状態であった。
何度目かのライブの打ち上げの時、「西尾が40歳になるまでは、俺は見続けるよ」と言ってくれた。それが今48歳である。98年に発表をした「傷つく森の緑」CDは95年に傷森の店内で良男ちゃんと二人だけで向かい合い録音をした。その頃良男ちゃんが僕に何度も言い続けたのは「ギターを弾くな」「唄を歌うな」。2〜3時間のライブでシャウト、ギターはかき鳴らしの僕には何のことやら解らない。今では理解できる事も当時の僕にはサッパリであった。良男ちゃんとの出会いから13年。
今の僕の音楽を作ってくれたのは良男ちゃんである、今でもまだまだ不満だらけであろうが、これからも教えてもらう事は山ほどあるだろう。
昨年、彼は大病をし、今では大好きだった酒もタバコも止め、自分としては淋しい想いもあるだろうが、周りの人達にすれば酒、タバコを止め少しでも長生きをしてくれることを望んでいるのである。
48歳の僕があと何年旅をし、歌っていられるかは分からないが、5歳、年長の良男ちゃんとは、これからも永く友人で、師匠でいてもらいたい。
最後に、このライブ当日、傷森に来て暖かい声援をくれた方達に心から感謝します。 本当にアリガトウ。
【FURANO 傷つく森の緑 その弐】
我夢舎楽 BOCCO
富良野駅前の駐車場に車を止め建物の2階を見上げる。サッシ窓の向こうから手を振ってくれている姿が見える。木造の階段を上がりドアを開けると「温泉から帰って水も飲んでいないから、喉がカラカラだよ。待ちくたびれたよ」と・・・言いながら冷蔵庫から二人分のビールを出す。
まずは乾杯。傷森良男ちゃんの兄貴さん佐々木幸一氏のお店(我夢舎楽)ではこんな挨拶から始まる。年中無休でお店を開けて富良野を訪れるバイク乗り、旅人を優しく迎えてくれる。だが顔はけっして優しいだけのモノではない。若い頃はソレは無茶をヤンチャをやってきただろうと想像できる顔つきである。しかし13年間の付き合いでは常に笑顔である。前にも何かで書いたと思うが、近頃は昼酒は呑まない僕なのだが、兄貴さんとの昼酒は別である。旅の途中の休日、自分へのプレゼントであり、年中行事なのだ。それに普段はビール一本で後は違う酒に変えるのだが兄貴さんとは5〜6本は呑む。昼食前に着いたときなどは昼飯抜きで夕方まで呑んでしまい、その後に傷森に行くため必然的に体調を崩してしまう事となる。朝一番に食べたパンは胃袋をはるか昔に通り過ぎ、腸の片隅に小さく纏まり、固形物の訪れを待つ胃袋の期待を裏切り、次から次へとアルコールのみが流し込まれていくのである。なんと昼のビールから夜中のバーボン終了まで13時間くらい呑み続けることになる。
僕はまだ食べたことは無いのだがお客さんが注文し出来上がったモノを見てビックリする名物がある。ソレは『カントリーサンド』などと洒落た名前の付いた代物だが、腰が引けてしまう。アルコールで痛め続けた胃袋の悲鳴が聞こえそうで。見ているとライダージャケットを着込んだ女性が全部胃袋に納めたときなど、密かに心の中で拍手喝さいしたものだ。もちろん気遣いの兄貴さんは食べ切れなかった人達の分はサランラップに入れてお持ち帰りをさせてくれる。いつか・・・いつか僕も!
信号を渡り傷森を通過して右に曲がると良男ちゃんの弟、佐々木信夫氏のお店「BOCCO」がある。信さんとは彼がニューヨークから富良野に帰って直ぐの頃に会ったと思う。佐々木家の男3人兄弟の中では物静かで優しい人柄に見えるが、実はヤハリ佐々木家の血筋である。
もしかすると3人の中で一番スジを通すことにこだわる人ではないかと思う。ゴテゴテと飾り付けることを嫌うであろう信さんのセンスで作り上げた店内には懐かしいジュークボックスが有るが、音は主にCDである。
良男ちゃんとは少し違う、でもヤッパリ渋い選曲である。酒の肴は無いに等しい。コレでイイのだ。バーボンを飲みながら刺身を食う奴の人間性を疑う僕にはバッチリである。以前富良野に帰った頃は古着屋をやり、仕入れに自らニューヨークに出掛けていたと聞く。僕ならBOCCOのカウンターなら立ち飲みでも良いと思うのだが、基礎体力の無い僕ではヤハリ椅子は必要だ。佐々木家3人男兄弟の店をはしごするには、体力、気力が必要である。上手に酒を飲む人には関係ないが。
僕には必要である。だって会えば朝までも一緒にいたい人達なのだ。2枚組み公式海賊盤「 LIVE in 傷つく森の緑ノーカット 」のセルフライナーより
2005年5月6日
No.6
【 久しぶりの電車旅 】 2005年、今年最初の旅は「只今、免停中」の為、久しぶりに電車の旅になってしまった。
本当に<なってしまった>である。25年間の旅生活でここ22年間は車での移動であり、着替えの服、ギター、CDと必要な物はある程度、希望通りに車に積み込むことが出来たのだが、今回ばかりはそうはいかない。
まず、年末にキャスター付のバッグ探しから始まった。福島市内のデパートで、値段、機能、デザインと折り合いの付くものを探し、次はそのバッグ内に荷物を収める配置、何度試しても必要最低限の物が入り切らず、
結局キャリーバッグの上にベルトでもう一つのバッグを縛り付けての旅支度となる。今回は、気の許せる友人宅に着くと直ぐに荷物を開き、洗濯をさせてもらいながらの旅。その為天気予報が気になった。
次は、移動予定表作り。2005年度版のJR時刻表を買い、ページを開く。文字が見えない。老眼の悲しさよ。
以前は慣れていた時刻表もなかなかルートが繋がらない。JRばかりでなく、私鉄を利用したほうが金額的に安いルートもあり、老眼鏡を掛けボールペンを耳に挟み、レポート用紙にイロイロと書き出していったが、上手くいかない。
ここでパソコン登場である。インターネットを利用し、様々なページからルート調べ、バッチリである。スゴイ。JR,私鉄、船、何でも御座れ。それぞれのページから町から町への1日ごとの移動時間の乗換えなどを数例コピーして、
旅の全日程のルートの移動表を作り上げた。アナログオジサンもなかなかやるもんだ。 それでも不安は隠しきれず、バッグに時刻表、コートのポケットに老眼鏡を忍ばせて旅に出た。
さあぁ、旅の始まり。右手にギター、左手に二段重ねのバッグ。旅の初日、福島駅までは家内に車で送ってもらい、キャスター付のバッグを引きずり、いざ駅構内へ。いきなりの階段。
二段重ねのバッグは縦に長い、バッグのグリップを握った左手の拳を左腋の下まで引き上げた格好で階段を上る。このスタイルがその日から毎日続くことになる。お陰で左腕には筋肉がついた。良いことだが慣れるまでが一苦労。
問題は右腕だ。ここ数年、肩こりが辛く、車からホテルまで、会場までギターを持って数分でも歩こうものなら、右腕の筋肉が張り、チェックインのサインでは文字が揺れ、本番の早めのフィンガーピッキングでは
親指が攣りそうになる。この件があり今回の旅では「淋しがり屋のロイじいさん」はアンコールでの演奏とした。ホテルまでの移動だけでこの有様が、今回はずっと続くことになる。不安はあったが、「継続は力なり」である。
右手の心配がなくなる頃に、次は背中が痛み始める。もう成り行きに任せるしかないと開き直る。足腰は疲れるが、太股、脹脛に筋肉が付き太くなる。若さを取り戻したような錯覚さえ覚えてきた頃。
九州の実家に帰る日の朝から、寒気を覚える。友人にはその事は言わずに電車に乗り込んだが、電車内の必要以上のヒーターが悪いのか、喉が渇き、ドアが開き外の寒気が入ってくるたびに調子が悪くなる。
それでも、乗ってさえいれば電車は目的地に着く。駅に姉が迎いに来てくれ、ちょうど昼飯時、熱があっても、まずは「とんこつラーメン」である。子供の頃から馴染んだ「宝来軒」へ。
コレを食わなければ九州に帰った気がしないのだが、その後の胸焼けにはマイッタ。最終的にはCDも沢山買っていただき、バッグも一つにまとまり軽くなり、帰りの電車移動は随分楽な移動になった。
いつもの車横付けの旅と違い、肉体的には辛い旅だったが、肉体的にではなく、気力の強い自分を再確認した。「早く帰って来いよ〜免許。」それまでに車を探さなければ。実は旅の前日に知り合いに車は譲り渡してました。
今は、自転車に乗って郵便局へ。スーパーへ。雪道は長靴でテクテクと。
2005年2月18日
No.5
【旅のお供にヨーグルト】 子供の頃から内臓が弱く、何か心配事があると胃がキリキリと痛み出していた。
小学生の頃は夜中に痛み始め母親を起こすとアロエの刻んだものを飲まされた。さす
がに大人になってからはアロエを 噛み砕く事は無くなったが。それでも旅に出る時は太田胃酸は手放せなかった。
2002年12月に茨城県大洋村の友人「伊藤正行」氏のお宅で前の夜から酒を呑み、夜が
明け朝から又呑み始めその夜に 吐血し、救急車で運ばれたことがある。2〜3日前から家庭内(義母)のことで胃が痛
んではいたのだが。 入院することは無かったが胃潰瘍であった。その後名古屋のピアニスト(本業、内科
医師主に肝臓)の兼松孝好氏に 話したところ「まぁ〜さん、潰瘍持ちなんだぁ」などとからかい半分に笑われてし
まった。今は兼松氏に定期的に 『アルサルミン』という薬を頂いて服用している。
そんな俺は腸も弱く。普段から酒の呑み過ぎなのだが、特に旅に出ると慢性的な二日
酔いが続き、別段不快感も無い為次の日もまた呑み過ぎてしまう。不快感は無いのだ
が、のどは渇く、そのため水分を求め過ぎてしまう。 これが慢性的な下痢になる。
今年5月の旅の後半。福井県敦賀市から石川県珠洲市までの約1週間、1日に10回近く
トイレのお世話になった。 正露丸など薬を飲んでみたが、それ以上に酒を呑んでいた為、全く効き目なし。何故
かライブ前に酒を呑むと下痢が治まるのでツイツイまた呑んでしまう。これが翌日に
良くないのは解っているのだが止められない。 藁にもすがる思いで、普段自宅で毎朝食べているヨーグルトを買って食べたところ、
2日目にはピタリと治まった。 その後6月の旅では毎日コンビニでヨーグルトを買って食べてみた。バッチリであ
る。スコブル順調。 しかし、47歳のオヤジがコンビニの棚の前で「どれにしようか」などとヨーグルトの
品定めする姿はイタダケナイ。 ちなみに食事に関しては旅先も自宅も同じに、朝はパン食、昼はご飯物、夜は酒の
つまみ程度と決めている。 旅先と自宅で違う環境では体に良くない。旅先も普段も僕には日常なのだから。
これからも旅のお供は、ヨーグルトである。ビフィズス菌、知ったことか。僕には効く。それだけである。 それにしても沢山の種類がある。アロエ、イチゴ味、グレープフルーツ味、etc 。
どれでも構うものか。
2004年7月8日
No.4
2001年に発表した『男達へのバラード』の文章で少しだけ触れた「瀬戸口修」さんについては、あれだけの文字では語りつくせない。
京都の四畳半のアパートで瀬戸口さんの『誰も知らない処で人は・・・』のLPを半年振りに聴いたとき何か解らないモノが僕の頭の中に、体に入ってきた。確かであるが、当時の僕はそれが何なのかは解らない。解らないまま、三日間、朝、昼、夜と一枚のLPを聴き続けた。それもヘッドホーンをして。キチガイ沙汰である。
歌詞なのか、メロディーなのか? 当時の僕はブルーズが、ラグタイムが何なのか理解も出来ないままに、その方向に向かっていた。
そんな僕だから、ジャケットが気に入って買ってきた『誰も知らない処で人は・・・』を最初に聴いたときは(歌謡曲)に想えたのだ。それが半年後に聴いた瞬間から何かが変わってきた。その四畳半の部屋で、コンテストの賞金を目当てに「祭りの夜の通り雨」を書き、コンテストに受かりレコードデビューの話が来た。レコード会社の候補として、テイチクレコード、ワーナーパイオニア、ともう一社。瀬戸口さんの『誰も知らない・・・』はワーナーパイオニア発売。僕はすぐに瀬戸口さんのことが頭を過ぎった。ワナーパイオニアは既に録音されたモノに手を加えるとの事。
当時の僕の周りの環境からは、そのままの音で発売、力の入れ方から、結局テイチクレコードから発売と決まり、その話もいろんな事情から流れてしまった。そこから今の一人旅が始まるのである。二十数年前のライブハウス(何故か僕が廻っていた会場)では、歌謡曲みたいな音楽は受け入れられず、僕は僕でブルーズ、ラグタイムみたいな音楽を演り続け、みたいなモノはそれ以上にはなれず、自分の方向性に自信を失いかけていた。その頃既にレコードラックにあった「Jackson Browne」のLPをよく聴くようになり、歌詞に重要性を感じ始め、「Jackson Browne」と「瀬戸口修」さんを重ねて聴いていた。
「瀬戸口修」さんの音楽にはいろんな要素があると想う。男、女、愛、悲哀、ココでどれだけの言葉を僕が並べたとしても、人それぞれに感じ方は違うであろう。僕が想うに、「瀬戸口修」さんの音楽はブルーズなのではないか。
綿畑の中で生まれたブルーズではなく、都会のアスファルトの上に零れ出た「男と女のBlues」なのではないか。
ラグタイムに、ブルーズに知らず知らずのうちに惹かれていた僕が、京都の四畳半の部屋で、それとは気付かないままに「瀬戸口修」さんのブルーズを感じていたのだと想う。
「瀬戸口修」さんの唄を歌わせていただきながらも、まだ御会いしたことがない。電話だけである。逢いたい。
でも緊張するだろう。当たり前だ。日本中で最も憧れている人なのだから。二十数年過ぎて、これから又、何十年か。
まだまだ、書き足りない。
2004年2月28日
No.3
この独り言のページのNo1で、今こうして文章を書いているワープロ、パソコン、ホームページについて書いたが、もし今でも[ 橋本(ゴジラ)充 ]が生きていれば、この作業は間違いなくゴジラの仕事であった。もしそうなら今でも僕は画面3行のワープロで文章を書き、それをFAXで送り、作業が遅いだの、「ホームページの画面を飾る良いアイデアは無いのか?」などと無理難題を吹っかけながら気楽にアナログおじさんでいれたのである。
ここにそのゴジラの事を過去に文章にしたものを紹介します。
消えることがないのであれば、忘れている日があってもいい 西尾まさき
1985年、つくば市の某会場で初めて【ゴジラ】と出逢った。それほど初対面の人に積極的に話し始める男ではないと思うが、酒の力もあったのだろう。その日はライブ終了後、二人とも気が合った。
その会場で数回唄った頃から、俺はゴジラの部屋に泊めてもらうようになる。当時一間きりの、つくばの部屋はモノに溢れ、男二人が寝るにはすごく狭かったのだが、その後も茨城県内を鉾田、羽鳥、又つくば市と引越しを繰り返し、部屋数はそのたびに増えていったが、同じように物も増えてゆき、ツアー中にゴジラの部屋で酒を飲むときは、敷きっぱなしの掛け布団だけを片隅に寄せ、敷布団の上に直にテーブルを置き宴を繰り広げた。
これに伊藤正行氏、中村勉君などの仲間が集まると、敷布団は片付けるようになるのだが、布団の下からは床ではなく、畳でもなく、週刊誌などが現れる。部屋の掃除に関しては二人でよく口ゲンカをした。
一度、羽鳥時代に、中村君が家全部の掃除を五万円で引き受けるという話になり、いっそ全部燃やしてしまうほうが早いと、伊藤さんと俺が言い出すとゴジラは慌てた。そのとき既に何本もの酒瓶が床に転がっていた。ケンカもしたが、全国の俺の友人達の中でゴジラは数少ない兄弟である。
九六年早春、ゴジラから病気のことを知らされる。電話を切り妻に話した。福島の寒い団地の部屋、二人で泣いた。夜中に一人四畳半の仕事部屋でバーボンを呑みながら、又泣いた。
。。。。。。。。。。。。。ブルーズだ!!。
体に力が入らない。4月、北海道ツアー中、富良野「傷つく森の緑」のマスター佐々木良男ちゃんに事情を話す。客の居なくなった店の中、二人でブルーズを聴きながら、明け方までバーボンを呑み続けた。やっぱりブルーズだ!!。北海道から帰り、五月は全く唄わなかった。 当然、貧乏。どうしようもなくブルーズだ。
暖かくなってゴジラも職場に復帰。仕事の合間、ツアーの合間にCD「傷つく森の緑」のトラックダウンの作業に入る。当然ゴジラは疲れる、伊藤さんは酒を呑んで言いたい放題、なかなか作業は進まない。資金繰りの事もあり2年以上もかかった。それでも98年にCDを発表。初版完売。今でもCD-Rとして売れ続けている。 98年、殺しても死なないような生きのいい時期とは違い、ゴジラの体も変化していた。
5月、家族全員でつくばに遊びに行った。ゴジラを案内に水戸市観光の後、伊藤氏のお宅で又酒盛り。この日は全員よく飲んだ。この夜もまた大いなる口ゲンカ。。。。Rock!!だ。 この時期にゴジラのために曲を書いた。2001年発表『男達へのバラード』の中の一曲
「忘れないでいることは、生きてることと同じこと」。まだデモテープの段階ではあったが、聴いたゴジラの目に涙があったのを今でも思い出す。
2000年5月、伊藤さんとゴジラを見舞い、お母さんともども4人で過ごした時間が、ゴジラとのこの世で最後になった。
5月20日、ライブの休憩時間に妻からの電話で知った。電話の向うで妻はもう泣いている。
俺は泣けなかった。後半がある。次の日もライブがある。行きたくても行けない。
ツアー終了後すぐに駆けつけた。若い生きの良かった頃のゴジラの写真と再会。
写真は微笑んでいた。俺は一人外に出て泣いた。いまだゴジラの骨は家の中の棚の上にある。最初食って体に入れようかと思ったが、ウンコになるとヤバイ。化けて出られた日には、俺と妻は良いが子供達が可哀相で、まだ棚の上にある。妻が水をあげている。
歌の中では「忘れないでいることは、生きてることと同じこと」と唄ったが、ゴジラのことは兄弟であり、俺の体の中からは消えることはない。だから想わない日があっても良いのではないか。消えることがないのであれば、忘れている日があってもいい。
これは2003年8月10日にゴジラのお母さん(橋本松子)さんが発行した「おぉい、む−君」の中で僕が書いたモノです。
2003年12月18日
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