薩摩焼所感 (『未来図』15周年記念コンクール エッセイの部に投稿)
 自分の住むことになった土地の文化と伝統に触れたいと、司馬遼太郎『故郷亡じがたく候』でも 有名な東市来町美山を何度か訪ねた。例年十一月には窯元祭がある上に、今年は渡来四百年祭と 合わせてイベントも盛り沢山。どの窯元も売る物がなくなるという状態で、作風と誠意を信じて 予約の申し込みをして帰る遠方の上得意客から、改めて見直してみようという近隣からの観光客で、 集落全体が活気に満ちていた。
 薩摩焼は渡来陶工の上陸地によって三つの系統に遡ることが出来る。美山は苗代川系とされている。 が、素人にもわかりやすいのは「白もん」「黒もん」という区別だろう。喩えるならば、白もんは 和歌的で黒もんは俳句的だ。
 白もん(白薩摩)は、かつては庶民の使用を禁じられ、献上窯に限って制作を許された。それは白もんの美を 正しく保存し伝承していくための制約であるともいわれている。乳白色のなめらかな地に繊細な絵が 描かれたり(金襴手)緻密な細工がなされたり、と多分に装飾的・技巧的なのだが、そこは育ちの良さ とでもいうべき嫌味のない華やかさである。純粋に詠嘆のの感覚を追求してある一線を超えると生活臭が なくなるということか。実用性を無視してはいないが、それとは別の優美さである。白もんの原型である 無装飾の壺を見たとき、まさに祭祀用という威厳を感じた。
 一方の黒もん(黒薩摩)は、現在のところ伝統的な作風とニューフェイスの二つに分化しつつある。 伝統的なものは、黒く艶があり、素朴で無骨だ。新しいものは釉薬の配合の工夫で色合いも作風も様々だが、 形はシンプルで地模様も登り窯の火勢の強弱を反映したものである。共通しているのは、日常使いのものであること。 生活様式が変われば器の機能も変わって然るべきだという変革を受容しており、その上で変わらない本質を備えていれば よし」ということらしい。
 白もんにせよ黒もんにせよ、本来の目的に沿って、それを現代に発展させている。作陶という枠を守ることと生かすこと、 反対に枠を壊すことと超えること。目的に忠実になればなるほど、現れる個性は単純に見えるくらいに本質に集約される。 手びねりのうねるようなフォルムも良いが、ろくろで端正に整えられた造型も美しい。偶然の天啓に思いを託した 不作為さも、焼き上がりを予想して柄を配置したものも、それぞれ味わい深い。有季定型俳句の主軸である季語にしても、 普段「自然」を意識する時のイメージほどの奔放さは、むしろ「ハレ」の部分であり、かえってフラクタルやルーティンによる 整った動きや表現といった「ケ」の部分によってより的確に捉えられるのではないか。そして、それを冷静に必要最小限の情報として 切り取るとき、計らずも吐露される個性は、簡潔であっても確固としたものであり得る。味わう側も、去来する様々な知識や感情を 踏まえた上で、なおニュートラルな感覚を持ち合わせているべきだと思う。
 窯元めぐりで疲れ、最後には自分の足で歩けずに泣き出しそうにしていた四歳の息子はそれでも一人前に印象を説明しようと 一所懸命に親に話しかけていた。曰く、白もんは「とってもきれいで、ちょっともったいないね。おうちに持って帰っても飾れるところがなくて 残念だよ。」黒もんについては、「なんか、おいしそうだよ。お皿は食べられないのに不思議だね。」見事な言い切り。 長々と堂々めぐりを繰り返す私の文章よりもよほど核心をついている、かもしれない。
 
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