おやこの俳句教室の「おやこの俳句鑑賞」にお寄せいただいた観賞文を掲載いたします。(第99回〜)
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(掲載までに時間の掛かる場合があります。また、採用については管理人に御一任くださいますようお願いいたします。)
路地を曲がっても、咲きほこる杏の花の情景。作者は、家路にあるのだろうか。それとも夜の散歩か。表記は、「まがりても」と平仮名で、やさしく、すんなりと詩の世界に引き入れる。杏の花を「花のあんず」として、花が浮かび上がる月夜道。(まさじ)
風船の影を失うとは、風船が見えなくなるのではない。地上に影を残す高さと思う。そう解釈すると、風船という小さなもので母親の安堵感も感じた。日向での母と子の一齣だろうか。影と高さで風船のひもを持つ子どもが想像されてならない。(まさじ)
雨を降らす雲は黒っぽい灰色で、底面がほつれている(平らでない)のが特徴なのだそうだ。梅雨時の雲でも、関東のようにどんよりと留まる陰鬱な雲ではなく、九州の湧き立ち流れていく荒々しい雲であることが「激浪」」の比喩からもわかる。作者の情報は排除して読むのが俳句鑑賞の定石だが、その土地ならではの醍醐味も読む楽しみのひとつだ。(真帆)
胡瓜の塩揉みです。食膳の一品にと仕度されるところ。「鼻唄のきのふと同じ」とリズミカルに捉えた作品です。生活の俳句は楽しいですね。鼻唄は鼻にかかった小声で歌うこと。気分までも伝わる俳句。手の動きに合わせた陽気な曲でしょう。(まさじ)
広島と長崎に原爆が投下されたのは昭和20年の8月。作者が医師と知り、なお深い思いに駆られた。戦争孤児の悲惨な心情は計り知れない。孤児をみて平和への思いを俳句に託されのだ。「孤児も父となりて」に時の経過が。八月の祈りである。(まさじ)
鉦叩きは鉦を叩くように聞こえる。それも一定のリズムである。作者は、そのことを一打もゆるみがないと表現された。虫と人間の交信が秋の夜に生まれるようだ。そのしじまを平穏な時間が過ぎていく。倉田先生、天国でも聞いておられますか。(まさじ)
大海原を渡る鷹の群れを見送っている。その鷹は遠ざかる光となった。「わだつみの光となりて」と捉え、鷹渡る景が眼前に浮かぶようだ。わがふる里の甑島は、あかはら鷹の渡りのルートになっているが、作品の鷹は佐多岬のサシバであろう。(まさじ)
作者の実感が伝わってくる。十一月は冬に入る月。ぽかぽか陽気の小春日が続き旅行にもよい。その十一月の今年、鹿児島県では国民文化祭が開催された。人の繋がりも実感する「あたたかき」十一月だった。この時季になると掲句の心境になる。(まさじ)
例年に比べて今年は暖かな日が多かったけれど、「あたたかき」「十一月」の後には、寒く気忙しい師走が控えている。今年もあとわずか。恙なく新年が迎えられますように。(真帆)
この作品を知り、田舎のことが思い出された。今では使われていない火消壷だ。時代の流れがある。「使わず捨てず」と叙され、生活必需品だった、その昔の暮らしが浮かんで来る。年越しであることが作品の趣であろう。モノが語るかのようだ。(まさじ)
筧(かけひ)は、水を引く竹や木の樋(とい)のこと。作者は筧を落ちた水のその音を「一月の音つづく」と捉えました。感覚がさえた一句です。一年の始めの一月ですから殊更に研ぎ澄まされる思いです。無常の世に自然の摂理を感じました。(まさじ)
暦で春とは言いながら、ぐっと冷え込んだ朝は池や水溜まりなどに薄い氷が張る。その薄氷を風がかすめた。とっさに、「さらさらと風走る」と捉えた作者。さらっとした風なのだ。場所はわからないが想像がふくらむ。春がそこまで来ている。(まさじ)
鹿児島県の出水平野はツルの飛来地として名高い。シベリアから越冬のため飛来したツルは、春に北帰行する。作品はその引鶴だ。周囲のなだらかな山々を見渡す作者。山なみを「空への渚」と捉えて、穏やかな日のツルの旅立ちが目に浮かぶ。(まさじ)
山並に寄せくる雲を渚に例える句はありがちだが、山自体を空への渚ととらえたのは他に見ない。これから幾多の困難を経て渡っていく鶴への想いが「やまなみ」という仮名書き、「渚」の穏やかさ、「引く」という静けさ(「帰る」と置き換えてみると納得できるだろう)から伝わってくる。自然に対峙する真摯さ。(真帆)
晩学は年をとってから始める学問である。「絶えず沖より」には作者の深い思いが感じられる。春の波であるから、己を励ますように静かに寄せて来る。毎日が勉強だとよく言われる。晩年に好きな勉強ができる幸せを思う。師の教えを支えに。(まさじ)
氏の自註によると横浜の大桟橋での吟行句なのだそうだ。観念的な句に見えるが、写生に立脚しているので誰にも納得できる。きらきらと光る波の無限に心を打たれたと書いておられる。沖には草田男の一大紺円盤が拡がっているのかもしれない。(真帆)
春から夏への季節の変わりを潮の香りが教えてくれるのです。「海近く住み」でお住まいは海の近くだと分かります。港に出入りの船の汽笛がなおいっそう潮の香を漂わせるかのようです。日常の暮らしにおける季題がしみじみと伝わってきます。(まさじ)
阿蘇の草千里だろう。草千里にわが子を遊ばせる耕二の顔が見えてくる。白靴であることからも小さい頃の子どもと察する。「放ちやる」で父親の子への愛情が溢れている。草原に白い靴が跳ねる。耕二はよく家族を連れて各地を訪ねたそうだ。(まさじ)
長男のちょうど遊び盛りの頃には鹿児島に住んでいたので、草千里にも行ったし、霧島やえびな高原にも連れて行った。(次男は、そういう経験に乏しく可哀想に思うときがある。)小さな子は広いところを広いままに存分に走り転がる。母親はハラハラしながら見ていたが、父親は「放ちやる」という心境なのだろう。のびのびと明るく気持ちの良い句。(真帆)
半夏生は、夏至から11日目の7月2日ごろ。田植の終わるころだ。一人暮らしになられたであろうか。湯沸かしていながら使わずにいると。「半夏生」の季節感と作者の暮らしがよくわかる作品である。この時期になると思い出す時候の一句。(まさじ)
義母の元気だった頃、帰省して朝餉の手伝いは、まずやかんでお湯を沸かすことだった。四季を通じて儀式のように、朝起きたら台所を清め、湯を沸かす。夏はお仏壇にお茶をあげたら、湯の役割はほぼ終わり。沸かした湯がぬるくなるまでのけだるさも想像できる。(真帆)
季語「星飛ぶ」は「流れ星」の傍題。「や」と切字があるので、取り合わせの句だろう。下五の後に省略されている内容に手掛かりが少ない分、読者の裁量に委ねられているのだが、作者の思いにどれほど寄り添えるか自信がない。それでもこの季語は置き換えようがなくて、つまり必然的だ。門下生は師の選評の何を掴み取った(あるいは、掴み損ねた)のだろうか。 (真帆)
窯変は「陶磁器の焼成中に火焔の性質その他の原因によって、素地や釉に変化が生じて変色し、または形のゆがみ変わること。また、その陶磁器」(広辞苑)。野分は秋の暴風。窯変の皿に野分雲の激しさを見て取った。衝撃的な配合の作品だ。(まさじ)
10月はサシバが南へと帰る季節だ。肉眼ではよほどの大群でないと視野に入らないが、高い山からはその飛翔を目の当たりにすることが出来る。作者は「みるみるわれの小さくなり」と遠ざかる渡り鳥を詠んだ。スケールの大きい作品である。(まさじ)
季語のあり方を考える時、この句の「渡り鳥」の措辞はひとつの極みと言える。「季語が動く」とか「季語の斡旋が〜」などという作り方ではなく、まず、季語があって作者がいる。力強い鳥の渡りに、作者は見送る実在としての「われ」を遠く離れて鳥となっているかのようだ。(真帆)
透き通るような冬の水は、すっかり葉を落とした枝の影を鮮明に映している。まさに鏡だ。作者はその情景を「欺かず」と捉えた。冬の水は人間の駆け引きなどない。「一枝の影も」と作者の眼差しが読み取れる。人間探求の作者が残した凝視。(まさじ)
この句に対峙するとき、いつも身の引き締まる思いがする。作者自身が冬の水と一体となり、一枝の影も疎かにせず映し出そうとしているかのように思えるからだ。(真帆)
冬の薔薇を活写しての作品だ。思わず鏡を覗き込んだ小生。バラを見て舌を連想されたのには驚く。さらに「無邪気ならざる」と形容された。大変ユーモラスな俳句は、作者の心が平穏なるがゆえ。滑稽さを見せるには直観力が大事なのである。(まさじ)
人生はよく旅に例えられるが、この句の旅は青年の初旅であるからこそ比喩ではなく事実であると読みたい。年初の(あるいは生まれて初めての)一人旅に青年の思いの丈はいかばかりか。かつても今も「青年」である作者の旅の始まりは甑島なのだ。(真帆)
「凍ゆるみつつ」に実感がある。凍ついていた天地も少しずつ緩まるのだ。春浅いこの季節には風が荒れ狂い海は大時化になる。春一番を思えば季節の変化がわかる。朱鳥は春がすぐそこまできているのを肌身に感じながら海を詠んだに違いない。(まさじ)
川蜷に静かな日差しが降り注ぐ。穏やかな透き通った川の流れも見えてきそうだ。春の明るい日差しの中に砂川の蜷が浮かび上がる。俳句は対象の凝視がいのちだが、この情景を絵画にしたら、どんな色彩になるだろうか。海の蜷ではない風情。(まさじ)
作者は人生ではじめてお父さんになった時の俳句、まだ目は見えない名前もない赤子に「はやく見えるようになってこの輝きを見てください。」と、蝶(ちょう・てふてふ)が祝福に来ています。平明な生活の中の感動の深さや大きさを蝶は表現してくれています。(みはる)
*お名前の「みはる」は目に于の字ですが、機種依存文字につき、平仮名表記させていただきました。
出会いがあれば別れがある。別れの卯波が眼前に広がっているのだ。親しい友人なのかそのような間柄なのだろう。客観された言い回しに情が潜む。「あはれにをはる」とは成就を願っていたことの証だ。成就の恋ならばと卯波を見つめる作者。(まさじ)
人の記憶から自分が抜け落ちていくことを「涼しさ」ととらえている。そういう心境になれることが、少しだけうらやましい。硬くひんやりとした陶の椅子の存在感が不思議とマッチしている。(真帆)
睡蓮が開きました。その池を覗き込む作者の眼前に鯉が現れたのです。水面に浮かぶ小さな睡蓮と鯉の動きを取り合わせた作品です。鯉の分けゆく花二つと表現したことで池の睡蓮がクローズアップされました。色彩までも想像させてくれます。(まさじ)
「魚から人に戻りて」とあることに驚いた作品だ。魚は海中で人は陸上で生きています。この作品は当然、人が海から上がり陸で日焼けしたことをユーモアたっぷりと俳句にしたのです。想像を膨らませると人魚を夢の中で見たのかも知れません。(まさじ)
曼珠沙華は彼岸花のこと。二学期になり運動会も近づくお彼岸のころ開きます。黄金色の稲に対し畦道に飛び火のような赤は際立ちます。作者は児童らと歩行しているのかもしれません。曼珠沙華が効果的でまっすぐな通学路が目に浮かびます。(まさじ)
上昇気流を捉えてサシバは南へと帰る。日和もよく肉眼でも渡りを見た作者の感動の一句。遠い場所から飛び立った群れは相当高い上空を渡るが、山岳の近辺からの飛翔は間近に観察できる。雲を出て雲に入るは白雲とサシバが連なる光景だろう。(まさじ)
「梯子より人の匂ひ」とは何だろうかと想像がふくらんだ。梯子が見えて人の姿は見えない。近づくとその梯子に乗って作業をしている人がいた。庭師の汗の匂いだろうか。神さまが出雲に行かれて留守になる陰暦10月。神無月ならではの作品。(まさじ)
揺れているのは船だが、船内に映り込む朝日が(床に伸びる影が)揺らめいていると感得している。作者は毎朝のように船に乗っているが、この十二月のある日の朝日を特別美しく感じたのだろう。慌しい年末の、束の間の静けさ。(真帆)
初詣で破魔矢は子どもの厄除けとして授与される。お父さんに抱かれた子どもが見える。子どもに持たせてその長さを実感するのだ。破魔矢をにぎる子に親の微笑ましさが伝わってくる。俳句は写生がいのちと言われるが詠嘆の助詞が効いている。(まさじ)
納税の詳細についてはよくわからず、自分の申告も毎年PCの画面とにらめっこの状態なので、鑑賞者としていささか心許ないが、白寿を迎えてなお申告の必要があるということは、生涯現役の誉れ高いということだろう。「後期高齢者だから」と自嘲気味に仰言る方も多いけれど、どうぞいつまでもお元気で、とエールを送りたい。(真帆)
今の今まで体育館は子供たちがところ狭しと動き回っていた。その子供らがいなくなり、残ったのは塵ばかりだったのだ。時あたかも暖かな春である。塵でそれまでの様子も浮かんでくる。学校に関わるお手伝いをされた作者かもしれない。(まさじ)
時計屋の前を通るたびに時間が違う。なんでなんだろうか。一度聞いてみたいと思うが聞いたことはない。掲句は春の夜、偶然通りかかった時計屋の前、時計屋の時計を見て思わず「どれがほんと」だろうかと。何とも構成が印象的な作品である。(まさじ)
五月闇は五月雨のころ、真昼でも暗いことをさす。作者は出張でホテルに着いたのだろう。部屋のドアを開けて中に入ったその直後オートロックの音に驚いたのだ。誰しも経験したことであろうが、俳句にされると研ぎ澄まされた感覚が改めて残る。(まさじ)
トランジスタラジオとは懐かしい。テレビの普及する前はラジオが楽しみだった。チューナーをあわせるのが難しく、ノイズで番組がよく聞き取れないほどだった。青嵐の俳句で奇抜な発想がすばらしい。想像が膨らむ。(まさじ)
関東では自生種を見る機会がないが、花弁の鹿の子模様が可憐でありながら気丈な感じのする形の良い百合だ。絶滅危惧種となっていて、九州では甑島が最も自生密度が高いそうだ。野生種となれば「日に耐へて」というのがよくわかる。シーボルトゆかりの花でもあるらしい。(真帆)
牛をひく人の様子を詠んでいる。水引草を口にくわえている人の格好まで想像した。
その所作と大きな牛の取り合わせが自然に読み手に伝わる。一幅の絵のように作品は仕上がっている。人と牛の息づかいも感じさせる作品。(まさじ)
白萩の揺れるさまを詠まれている。吟行での作品であろうか。野一面に咲く白萩はあたかも湯がまの湯が湧くように一方にふくらんでは揺れて見えるだ。風をはらみてという措辞で白萩の存在感を示した美しい作品である。(まさじ)
色づいた千草を草紅葉という。その「すぐそこを行く」舟の音に作者は気づいたのです。俳句では二句一章で情景を切り取る技法があります。作品はまさにその手本です。聴覚と視覚の取り合わせです。特に中七の表現が心引かれました。(まさじ)
舟の音がするということから水辺を想起し、すぐそこを「行く」という表現に臨場感があります。でも、舟も川面も見えないのです。作者が集中しているのは草紅葉です。紅葉の頃なので、夏草の様に繁っているわけではなく、ひょっとしたら水の反射がキラキラと映り込んでいるかもしれないなどと景が広がっていきます。(真帆)
鷹匠に会ったことはない。時代劇で鷹狩をする場面を見た時、飼い慣らされた鷹の凄さには驚いた。「鷹匠の指さしこみし」と言われて鷹匠の姿が浮かびあがる。その指は鷹の胸に。読み手はさしこみしという動きのある言葉に引き込まれる。(まさじ)
一晩中通しての里神楽はどのようなものなのか。作品は神よりも鬼のよろしきとされている。神楽を見たことのない者にも神楽に誘われる思いだ。神人一体の宴の場で鬼の所作に引き込まれて行く作者。人間でない鬼にすさまじさを思う。(まさじ)
今年初めての機織り。さざ波が光を運ぶかのように機織りのようすが活写されている。川縁の機織りの作業場なのかもしれない。光と織始が漢字であとは平仮名表記が効果的だ。光の流れで一年の機織り始めが印象的な作品となっている。(まさじ)
たおやかで、華やかで、それでいて日常に根ざした情景。「○○始」という季語に共通した日々の生活を言祝ぐ意が漣に宿る光のキラキラとした質感にも込められている。よいことの沢山訪れる一年となりますように。(真帆)
雪虫が飛ぶ情景を空ではなく山の色としたことで、漠然とした奥行きではなく具体的な景色となった。何色と直接言っていないので、読み手はそれぞれの原風景をあてはめて読み取ることだろう。秋から急速に冬へと向かう空気が、視覚だけでなく五感を通じて染み込んでくるようだ。
「桜吹雪を走り過ぐ』何と風の強い日なのでしょう。正門なので卒業式か入学式の日のことではないか。せっかくセットした髪までも桜吹雪でもみくちゃに。お母さんのことだと鑑賞しながら、もしかしたら生徒?いづれにしても明るい光景だ。(まさじ)
桜前線は南から北へ上がるものと思っていたが近年は違うようだ。今年も関東地方の開花が早くなった。それでも東北地方の開花は遅い。桜と初夏の花が同時に咲くという津軽はなおさらだ。「押し合うて」と桜のこゑが津軽海峡をわたる。(まさじ)
すばらしい小学1年生の俳句です。漢字は一だけであとはひらがなです。ならった一の字をつかったことで、とてもいいさくひんとなりました。かんじたままをすなおにつくったこいのぼりです。おなかいっぱい、かぜをたべたのでまっすぐにおよいでいます。(まさじ)
風の中のこいのぼりの様子を「一」と表現したことで、風の向きや強さも見えてきます。「食べて」とこいのぼりが自分から風を取り入れている様子は、とても力強くて頼もしいですね。(真帆)
とても懸命で力強い俳句。いのちうむのところに、いのちの尊さ、大切ないのちを感じているところに素晴らしいと思いました。(こうじ)
5月から7月はウミガメのさんらんきです。すなはまにたまごをうみます。そのようすを「なみだをながしいのちうむ」とハイクにしました。とてもかんどうするいっしゅんです。2か月ほどでふかしてカメがうまれます。しぜんをたいせつに、いのちをたいせつに、そういうきもちのハイクです。(まさじ)
ウミガメの産卵を目の前で見るというすばらしい体験をしたのですね。あなたがうまれたとき、あなたのおかあさんもなみだをながしました。そうしていのちをつなぎ、夢をたくしていくのです。(真帆)
湾定例句会で薩摩一宮の花尾神社周辺を吟行した折、主宰に隠れ念仏の山坂を案内してもらった。小学生の娘を伴っての吟行だった。後日、娘の誕生日を前に先生にお願いして色紙に掲句を書いて頂いた。あの日あの時が俳句に残った夏休みです。(まさじ)
父子にとって、本当によい夏休みになりましたね!水一路先生には、鹿児島にいた時に何度も吟行に誘っていただきました。まさじさんの文章を読んで、あの山々の句だったかと、また思いを新たにしました。関東に転居の後、二番目の息子の誕生のとき、川辺の桜の吟行の連中の皆様とお祝いの句を送ってくださいました。先生の笑顔が懐かしいです。〈俳句の評と関係ない話でした。ごめんなさい。〉(真帆)
下甑島は鹿の子百合のふるさとです。可憐な花を野山に咲かせます。奇岩で知られる下甑島にひときわやさしい鹿の子百合がその断崖にも仰ぐことができたと感動の作品です。陸上か海上からか分かりませんが見上げた断崖と鹿の子百合が印象に残ります。(まさじ)
蟋蟀のかおを一徹と捉えた作者。そのかおを見よと命令して迫力がある。一途に打ち込む学者にその心構えを諭しているようでもあり、自らへの叱咤激励とも思えてならない。改めて動物図鑑を見てみると私自身も問われているかのようだ。(まさじ)
蟋蟀はなかなかじっとしていないし、貌なんて確りと見る機会がないけれど、作者は「この」と言っているので、互いに凝視して動かないのだろう。間合いを詰めての真剣勝負だから表情も「一徹」。余談だが、真正面から見ると頭が三角の虫と長四角の虫がいるらしい。蟋蟀は四角い貌で雑食。(真帆)
鳥渡る季節です。作者の目は一峽を以て国境と渡り鳥の移動を捉えています。自由な鳥の渡りには国境はないのかもしれませんが、この一峽こそが正に渡り鳥の国境かと眺めているのです。在りし日の優しい先生の眼差しが浮かんできます。(まさじ)