鹿児島在住の山下雅司さんからいただいたエッセイをこちらにまとめました。(連載中)
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下甑島探訪そのO 〜甑島航路の変遷(1)〜  <2006年10月10日>
 甑島航路は時代とともに島人の暮らしを支え、本土への脚となった。2年前、市町村合併で甑島は薩摩川内市になったが
10年後には下甑島が架橋で結ばれ甑島はひとつになる。甑島航路も大きく整備されることが予想される。今回は、長年にわたる就航船を調べてみた。その時代が蘇ってくるであろう。

 @トン数、A定員数、B速力、C就航期間、D航路、などを記す。
【和丸】@77.43トン A 64人 B 9.0ノット
【長水丸】@ 156 A 81 B 10 C 昭和9〜18年 D 牛深〜甑島航路、串木野〜手打航路
【昭丸】@ 75.57 A 67 B 9.0 C 18年〜37年7月 D 串木野〜手打、阿久根〜甑島
【つかさ丸】@ 196.99 A 208 B 10.0 C 24年〜39年8月 D 串木野〜手打、阿久根〜甑島
【佐世保丸】@ 120.29 A 100 B 9.0 C 25年1月〜26年6月 D 串木野〜手打、阿久根〜甑島
【明勢丸】@ 183.87 A 158 B 10.12 C 29年1月〜5月 D 串木野〜手打、阿久根〜甑島
【野百合丸】@ 200.64 A 124 B 11.0 C 31年11月〜50年1月 D 串木野〜甑島
 以上、7隻を記した。なかでも野百合丸の18年余に及ぶ活躍には思い出が深い。
 「野百合咲く島振り返る母の顔・まさじ」ふるさとを後にした昭和43年、旅立ちの船であった。

 次回は阿久根〜甑島航路の廃止から現就航船までの足跡を辿る。
下甑島探訪そのP 〜甑島航路の変遷(2)〜  <2006年11月13日>
昭丸に始まる阿久根〜甑島航路はいまはない。長年にわたり串木野航路が本土との架け橋になっている。今回も、前回に続き長年の就航船を記す。

@トン数、A定員数、B速力、C就航期間、D航路、などを記す。
【彦山丸】@148.20トン A81人 B11 .0ノット C昭和39年9月〜昭和41年3月就航、D串木野〜手打航路、阿久根〜甑島航路
【波路丸】@255.36 A178 B11.5 C昭和41年4月〜46年7月 D串木野〜手打、阿久根〜甑島
【有保丸】@385.40 A343 B14.0 C 46年7月〜57年2月 D串木野〜甑島
【柏丸】@549.43 A350 B14.5 C50年1月〜55年6月、昭和50年九州商船から甑島商船へ貸船、D串木野〜甑島航路
【鯨波丸】@427.56 A350 B14.0 C57年2月〜62年5月、同上 D串木野〜甑島航路

甑島航路に高速船が就航したのは昭和55年。これまでの定期船にはない時間短縮化が実現し、フェリーの就航も観光客の増加に寄与した。
【初代 シーホーク】@388.15 A290 B27.61 C55年6月〜平成2年3月 D串木野〜甑島航路
【フェリーこしき】 @645 A貨物、自動車と400人 B16.4 C62年2月進水 D串木野〜甑島航路

以上7隻を記したが現在就航中の二代目、高速船とフェリーは次回にゆずり、船への思いを綴りたい。
下甑島探訪そのQ 〜甑島航路の変遷(3)〜  <2007年1月9日>
今や甑島まで1時間ほどで渡ることができる。フェリーでも直行便は1時間半ほどである。

@トン数、A定員数、B速力、C就航期間、D航路、などを記す。

【2代目シーホーク】@304.00トン A301人 B29.3ノット C2年3月就航D串木野〜甑島航路
【フェリーニューこしき】@942 A400 B19.0 C14年10月就航 D串木野〜甑島

船質は高速船は軽合金、和丸からフェリーは鋼。船種はシーホーク、フェリーは汽船で、それまでは貨客船であったが、和丸以前は木船だった。長崎から天草、串木野、甑島までの航路があった。 肥前丸、金昇丸、勢運丸など記録に残る。離島航路の安全運航を願うばかりである。3回にわたり、甑島航路の変遷を取り上げた。島育ちの者にとって、船への想いは深い。

探訪エッセイ

山下雅司
『野百合丸の時代』

かつては九州商船、いまは甑島商船鰍フ運航で便利になった甑島航路。歴代の船には想い出が刻まれている。鹿の子ゆりのふるさと甑島にふさわしい船名の「野百合丸」は特に懐かしい。

下甑島は山が高く、東シナ海を望む西海岸は貨客船が不定期に運航された時期もあったが、時化のために欠航続きが多かった。そのためだけではないが、島の東側に定期便は運航する。

昭和30年代は村の西側の集落から船に乗るとなると早朝に懐中電灯を携えての峠、山越えであった。片道1時間半近くの山道を歩いて港にたどり着いた。さらに、当時はハシケ。波があると、ハシケの揺れに両脇を抱えられての乗船であった。今日のようなに、港に横付けできるとは考えも及ばなかった。

生活物資を運搬する役目もあった定期船内は暗く、機械室の臭いがして、船酔いする人も多かった。毛布をかけて、すぐ横になった。洗面器と枕が船には備えられていた。少々の波にもびくともしなかった野百合丸。波が音を立てて看板を洗う。船は上下、左右に揺れて進む。もう、船には乗りたくない。船酔いの私は長い航海に、そう思った。 上甑島を目前に、波は少しおだやかになった。船は上甑島から中甑島、そして下甑島へ。4時間ほどの航海がまもなく終わる。港からハシケが近づいて来る。本船から乗り移った。それから、船酔いも収まらないうちの山越である。手荷物を右手左手に持ち替えながら、家路を急いだ。冬であれば真っ暗闇で懐中電灯の灯りが頼りだった。絶えることはないわが青春の時代である。
下甑島探訪そのR 〜下甑島の地層(1)〜  <2007年3月12日>
甑島列島の地層はいつ頃、どのような時代に堆積したか。それを化石が証明している。下甑島の地層は中生代白亜紀の終わり頃とあります。約7000万年前と推定される。アンモナイトの化石、イノセラムスと呼ばれる大型の二枚貝の化石など。(下甑文化より)

甑島の地質のことが平成13年度の「下甑文化」第5号に掲載されている。鹿児島県立博物館主催の「博物館がやってきた」ことが紹介されて、地質.昆虫.野鳥.植物などについて同館長、学芸主事3人の特別寄稿が掲載されている。

氷河時代(2〜5万年ほど前)の甑島列島は天草諸島方向に陸地が広がっていたことになり、海面は100メートル以上も下がっていたと言う。地層は変えられない証言者である。
下甑島探訪そのS 〜下甑島の地層(2)〜  <2007年5月21日>
甑島列島では主にイノセラムス、アンモナイト、三角貝(トリゴニア)、カキなどの化石が確認され、その多くは中生代白亜紀に堆積した姫浦層群にある。これだけでも、地層に興味がわく。

さて先頃、カノコユリのふるさと「甑島の自然」と題した展示が県立博物館であり、興味深く見た。特に島の成り立ちが地層断面図で分かりやすく説明されていた。下甑島の山が高いのはなぜか。下甑文化5号「甑島の地質」を読み返した。

下甑島にはみかげ石と呼ばれる岩石がある。花崗閃緑岩(花崗岩と閃緑岩の中間的な成分を持つ灰色っぽい岩)のこと。地質時代の区分では新生代新第三紀中新世。マグマが地下10数キロメートルの深さで、ゆっくりと冷えた岩石は、長い年月にその密度(比重)がまわりの岩石より小さいことで、せり上がった状態になった。 だが下甑島の高い山はホルンフェルスと呼ばれる岩石。それはマグマの熱で別の岩石に変化したからという。
尾岳、青潮岳はもちろん、海面に聳え立つナポレオン岩なども、このホルンフェルスだ。いつも眺めていた山や奇岩も、また違う思いでみることである。
下甑島探訪その21 〜竜宮の海から「こしき海洋深層水」〜  <2007年7月23日>
海洋深層水は高知や富山などでも取水されるカルシウムなどのミネラルが含まれる太陽光が届かず、水温が年間を通して変わらない水深200bよりも深い海水のこと。

こしき海洋深層水は、地域おこしで2002年に始まった。手打港の沖、水深375bから汲み上げる施設などに要する費用は大きい。
当初は飲料水「こしき竜宮伝説」として、硬度100、硬度1100が発売された。最近は飲料水のほか、料理店や焼酎メーカー、食品、医療用にも利用されている。

フィリピン海溝の深層水は東シナ海に流入し、下甑島沖が海溝の終わりという。竜宮の海からの贈り物である。
下甑島探訪その22  〜映画の舞台になった下甑島〜「釣りバカ日誌9」より〜  <2007年9月17日>
松竹映画「釣りバカ日誌9」が公開されたのは平成9年の秋であった。撮影は鹿児島市、川内市を始め4月に行われた。映画のラストシーンは弓なりの手打海岸。白砂と青い海がみごとに下甑島を印象づけた。

映画のクライマックスに民家を使った結婚披露宴のシーンがある。島出身の茜さんと馬場部長が結ばれる。古き田舎の慣習が再現された。そのなかで歌われた松坂節は貴重なものである。

都会暮らしの荒んだ心を取り戻してやろうとした父親の馬場部長。そのひとり息子がハマちゃんとキス釣りをするシーンで、この映画はエンディングを迎える。人間は自然にいやされ生かされている。
ハマちゃんとスーさんが島にやって来た4月16日、17日のロケは住民のエキストラもあり盛り上がった。以前にも甑島は映画の舞台となっているが、それらの交流で地方がさらに活性化するきっかけになればこの上ない。
下甑島探訪その23  〜甑島は食の発信地「コッパ作り」〜  <2007年11月15日>
カライモがデンプンの原料として盛んに出荷された時期があった。砂糖の代替商品としての「水アメ」の主要原料であったからだ。昭和30年代のコッパ作りは島の収入源でもあった。

コッパと言うと白コッパ作りがそれだ。「カナ」を使いカライモを削り、乾燥させる手法である。イモ切り機は大量のコッパ作りに使用された。 切ったコッパはコッパ棚(丸太の骨組みにダイミョウ竹を並べた干し棚)に網を広げて干す。日の恵みと北西風のおかげで乾燥したコッパが出来上がる。

あの日あの時の原風景である。コッパはまた保存食としても食文化を形成した。
下甑島探訪その24  〜浦(浜)人の島「しもこしき」〜  <2008年1月22日>
下甑村郷土誌に「薩摩藩政下の浦浜制度と下甑」という記載があった。
薩摩藩は多くの島を抱えており領内を郡(こおり)奉行と船奉行がそれぞれの役目を遂行した。領内には浦と呼ばれる地域を設けた。文中に「浦人の職分は漁業であったが、藩政策の主眼は海辺の警備と海運の維持にあった。 そのなかで下甑は、上甑、桜島とともに…船奉行(御船手)の支配にはなく、郡奉行の直轄に属する在郷に位置づけられていた。が、下甑の浦(片野浦・瀬々野浦)は船奉行の支配も受けていた。」とある。
下甑の浦が昔から大陸警備の拠点にもなっていた。瀬々野浦の南蛮通目はそれこそ、その昔の南蛮船の見張りということでその名が付けられたのだろう。
下甑島探訪その25  〜山桜咲くころに「短歌一首」〜  <2008年3月10日>
下甑島は山が高く、谷は深い。島人は自然に逆らわずに農作業に勤しんだ。棚田を作り、段々畑には甘藷を育てた。かつて田舎は長男長女の兄弟が家を守った。
島の春は桜。さくらと言えば山桜。素朴な花ゆえにふるさとの心がありありと宿る。その大切なふるさとからの便りが届いた。それはそのまま短歌に詠まれ残された。

山さくらさかる彼岸に帰りませ山は匂ふと里の便り来 山下種利 歌集『春雷』(平成16年3月6日発行・短歌新聞社)より

ふるさとの山桜をもって愛情が溢れる。春を待つ作者への心情をくんで出された姉よりの便りであった。山桜の咲くころになると思い出す作品である。
下甑島探訪その26  〜水墨画「波濤(はとう)」になったナポレオン岩〜  <2008年4月28日>
2006(平成18)年10月、一枚の水墨画に出合った。「波濤(甑島ナポレオン岩)」芝 龍郎作品である。
西の海に聳え立つ沖瀬はナポレオンの顔に似ていることから、ナポレオン岩と呼ばれるようになった。その奇岩を取り巻く波濤の迫力は圧巻である。作品にはウミネコ(海猫)が描かれている。下甑島はウミネコの繁殖南限地で子育ての島である。

水墨画「波濤」は2005年9月にフランスはパリの国立海洋博物館でも公開された。南九州水墨画展が20回を迎えた記念に海外進出が企画され、その記念に製作されて海を渡ったのである。
芝先生はこの時、パリの人たちを前にして水墨画による席画もされた。筆の動きと墨の濃淡を熱心に見入る来館者が目に浮かぶようである。

4月16日(水)から22日(火)の1週間、山形屋画廊に於いて〜水墨画40年・古希記念〜墨で描く白の世界 芝龍郎水墨画作品展が開催された。
下甑島探訪その27  〜下甑島の夏〜思い出の大目(ううめ)釣い〜  <2008年7月17日>
釣りの名所、甑島。多くの釣り人が瀬物ねらいでやってくる。今回は釣り人の釣りではない。島の人が釣る大目(ううめ)だ。

大目は夜光性で昼間は暗い場所に集まる習性があると、そんなことも知らないで磯の岩場に行き糸を垂らした。小学生の頃だ。 仲間が何匹も釣りあげるのに釣れない。魚のすばしっこさにエサばかり取られた。釣りの下手さが証明されてしまった。

大目は塩焼きや茹でて食する。塩焼きは香ばしく、それはそれは珍味である。魚は10aほどで骨には気をつけねば大変だ。 喉にひっかけてしまう。干物にして、都会にいる子供に送ったりした人もあった。ふるさとの海の幸であり、何より嬉しい郷愁の味なのだった。


夏の日や暗き岩場の大目釣い まさじ
下甑島探訪その28  〜トシドンの話〜  <2009年1月17日>
 ユネスコの無形文化遺産候補の「甑島のトシドン」。

 大晦日の夜、首無馬の鈴音は小さい子どものいる家の前で止まった。
ドドッと家の中に入るや、「どの子どもか、親の言うことをきかんのは…」とトシドンの大きな声。子どもは正座して、言うことを聞く。
その年のよいことも、悪いこともトシドンはよく知っていた。

 トシドンは子どもに踊りや歌もうたわせた。しっかりとした子どもになるようにとの思いがこめられる。
家の手伝いもすると約束した子ども。最後にトシドン餅がわたされる。約束は後で聞きにくるとも言い残して立ち去った。

 トシドンは大みそかの年神さまで、子どものしつけの伝承行事。歴史民俗文化財である。
下甑島探訪その29  〜恐竜の化石!(下甑島・鹿島町)〜  <2009年9月3日>
 下甑島の鹿島町(旧鹿島村)で恐竜の化石が見つかった。下甑島の北側に位置する鹿島で昨年、3月から採取されている。
約7千万年前の地層から発掘された化石は歯と肋骨とみられる。ティラノサウルスと同じ獣脚類という。
 甑島の地層(中生代白亜紀後期)から恐竜の歴史がよみがえった。鹿児島県で恐竜化石の発見は初めてのこと。大陸と陸続きであったのだ。それにしても長い時の流れ。この地球上に存在した肉食恐竜。絶滅直前の恐竜とされる。
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