鹿児島在住の山下雅司さんからいただいたエッセイをこちらにまとめました。(連載中)
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下甑島探訪そのH 〜昭和35年ごろの下甑島の山師〜  <2005年08月27日>
 1996年発行の「文集にしやま」第6号(宮野金剛編集)には島で伐採の盛んだった時代のことを綴っている。 「西郷さんの写真」と題した拙文で、下甑島の昭和35年頃の父が 西郷さんに出会った話である。
 当時の鹿児島県はどこでもそうであったように、木材の伐りだしがが盛んに行われていた。島と言えば、農業や漁業が まず思い出されるが、そのかたわら山師の仕事もあった。伐採後の山では炭焼きにもチャレンジした。何度か先輩と二人して 弁当を持っていった憶えがある。山の仕事はすべてこなして、5年ほど前まで田作りをしていた父である。今回は当時の 下甑島の原風景が甦ればと、同文集より転載する。

「西郷さんの写真」
 昭和35年ごろは、木を伐ればいくらでも売れた時代だったと聞いています。父も農業のかたわら伐採の仕事をしていました。 若い頃から、老練者の宮野利秋おじさんに師事して山の仕事を覚えたそうです。私が小学生の頃は、阿母山からツブキ、金山まで松やパルプ材になる木を 伐り出した時期で、よく伐採のあとを先輩たちと歩いたものでした。山頂へ吹き抜ける風は心地よく、海に沈む夕日を眼下に、空は茜色に染まるその絶景は 喩え様もありませんでした。
 こんな山の話を同僚の東口君が聞いて、彼の母方の祖父が仕事で甑島の山を歩いて山の写真を撮っていたことを私に話してくれました。某パルプ会社に 勤務され、島へも何年か単身で赴任されていたというのです。
 その日は偶々、両親が上京の為に泊まる日で、さっそくそのことを話すと、父は開口一番、「あぁ、西郷さんならよく知っているよ。穏やかな人で、山にも 5回以上は一緒に入ったよ・・・・・・。」と昔を懐かしそうに話してくれた。ほんとうに世間は広いようで狭いものです。
 翌日、彼は実家からおじいさんが撮った写真を探して持って来てくれた。30枚程ある色褪せた写真はさて何処だろうか。家に持ち帰ってじっくりと見せてもらうことにした。 写真の縁に「昭和35年の思い出」の文字が残っている。山から木を搬出する滑車や、人夫が一服している写真。この山はどのあたりの山か、この浜はどこの入り江だろうか。 浴衣姿に晩酌をして寛いでいる写真。さてどこの宿だろうか。
 更に次の日、今度は引き伸ばされた3枚の決定的な写真を目にすることになった。それは瀬々野浦集落の写真と2枚の阿母山の写真だった。3枚を並べると往時の瀬々野浦が再現できる。 写真の裏側に61としるされている。1961年のことではないだろうか。そうなると昭和37年に島を後にされたことと合致する。屋号に「花」がつく宿屋に2年ほどお世話になったことも手掛りになった。 青瀬の「花屋旅館」ではなかったかと、とっさに思った。
 前日あずかった小さな写真をじっくり見直していくと、はじめて港が青瀬だろうということが確認できた。九州商船の「キ」のマークが艀(はしけ)についている。また瀬尾の鼻から写したものか、 汽船にこの艀が横づけされている。ある時は、時化で漁船を引き上げているものや、潮風を受けながら海岸ぞいに荷物を背負ってくる村人の写真など。写真はその時代を語りかけてくれる。
 ところで、阿母の稜線に引かれた赤いボールペンの線は何の意味だろうか。後で父の話から転勤間近の西郷さんが撮られた伐採予定区域だということがわかった。青瀬を起点に山から山へ下甑島の 山々を幾度もカメラに収められたであろう。山木の測量をする西郷さんと同行した父の会話までも聞こえてきそうである。
 林野庁は日本の林業の育成と立て直しの為にいろいろな施策をうちだしている。若い人が林業に携わってくれるようにつとめている。価格、供給、加工、労働力の面で外材に押されてきた木材をどうにか とりもどすことは出来ないだろうか。
 木の役目は生活の中になくてはならない。間伐や枝打ちなどの手入をすることで節のない良質の木となる。その木を使って木造住宅が快適な暮らしをも約束する。地球の温暖化も回避されるという。
 西郷さんは7年程前に天寿を全うされたそうです。西郷さんの心の中にはいつまでも、青々とした山と温かい人との出会いが生きていたに違いありません。余生は畑を耕し、野菜を作り、花を育てて、 亡くなるまで自然の恩恵を大事にされたそうです。山に生きた人のやさしさが想われてなりません。
 不思議なご縁で、懐かしい風景と出会い少年時代を思い起こしております。  (文集にしやま 第6号 '96 より転載)
下甑島探訪そのI 〜ふるさとの民謡「松阪とハンヤ節」〜  <2005年11月2日>
 「かなうた かのたよ 思うことかのうた 未じゃ 鶴亀 五葉の松」
 これは松阪の唄いだし。「下甑郷土誌」には船方節と類似と書き添えてあります。
 そもそも松阪は新潟県の「松坂」が元祖で、新潟県の新発田の松浪謙良さんが日本海から北海道まで唄い歩いて、その行く土地土地に広めた民謡 と伝えられています。それで謙良節とか、松阪節とか、新潟節、荷方節などとも言われています。その他にも「会津松阪」など。座頭やごぜさん などの芸能者によって広まっています。
 一方、ハンヤ節。その元祖は長崎県漁師港、平戸島田助のハイヤ節とか、牛深ハイヤ節とか言われていますが、この節は漁師のお座敷遊興の芸者 唄になっています。
 北へ北へと「佐渡おけさ」「津軽アイヤ」など。さらに「塩釜甚句」。船で北上して様々の民謡となって残ったのだと思います。
 「松阪」は曽祖父がよく唄い、上手だったと亡くなった伯父から聞いたことがあります。歌詞をみると新潟県の松阪と通ずるところもあるようです。 北の地方とのつながりが考えられます。ハンヤ節が船乗りによって北へ広まったように松阪は南へ持ち帰ってきたのかも知れません。船方節と類似と 書いてあるのも頷けます。
 ふるさとの民謡、松阪は祝い唄。各地で名をかえて唄の文句も節もかわっています。
 仕事唄とは違い、お祝いの席で歌い継がれています。また私は小学生の頃までお祝いや酒盛りでよくハンヤ節を父の代わりに踊ってハナをもらった 憶えがあります。いまでもこのハンヤ節がながれてくると心が躍り、当時の記憶が甦ります。
下甑島探訪そのJ 〜トシドンさまがやってくる〜  <2005年12月28日>
 「ヒヒーン、ヒヒーン…」首なし馬に乗って、トシドンさまがやってくる。
 薩摩川内市の下甑島に伝わる国の重要無形民族文化財である。幼い子どもがいる家に歳の晩に来て、「お父さん、お母さんの言うことは、ちゃんと聞いているか。勉強はしているかなど…」と子どもを戒める。
 恐る恐る、トシドンさまに返答する。泣きだしそうな女の子や動じない男の子もいるが、おおかたは怖いのだ。
 トシドンさまは、おみやげを持ってきてくれる。「トシドン餅」を貰おうためにトシドンさまに近寄って、歌もうたい、お手伝いの約束もする。
 文化財のもつ親子間の愛情を垣間見みる思いがしてならない。
 12月31日は子どもの成長にとって、なくてはならない特別の日。
 私の脳裏に、家族の顔と共にいつまでも残って離れないトシドンさまなのである。  
下甑島探訪そのK 〜国防の最前線「航空自衛隊第九警戒隊」〜  <2006年2月11日>
下甑島の沖は東シナ海が広がる。島の尾岳(604b)の尾根づたいには航空自衛隊第九警戒隊(平成15年3月27日第九警戒群から部隊改編)、国の防衛最前線がある。
下甑島分屯基地創設回顧録(下甑村郷土誌1328ページ)によると、『下甑に米軍が駐屯し、「レーダー基地を建設する」ということで、 昭和二十七年、福岡施設局より建設場所の設定の交渉に係官が来村したのは、今から四十六年前のことである。』としるされている。 交渉の困難を乗り越えて計画が実行された。それから道路と言えば、自衛隊道路。昭和40年代の自動車道の整備まで、山越は徒歩のみであった。 何かの記念だったのか記憶が定かでないが、小学生の団体で自衛隊に行った。目を丸くしてメモしたように思える。
レーダーサイトは24時間体制、国防に欠かせない。今年は最新式のレーダーがさらに装備される。
創設から50年が経った小さな島は薩摩川内市として新たな道を歩み始めたが、自衛隊と隊員の役目は変わることはない。
下甑島探訪そのL 〜藺牟田瀬戸大橋の実現に調査費〜  <2006年4月14日>
 藺牟田(いむた)瀬戸の大橋実現にその調査費用が3月31日、認可された。「甑はひとつ」の看板を掲げての架橋建設に向けての大会が鹿児島市の黎明館でも行われたことが思い出される。
 旧4村が具体的に取り組み始めたのが、1988年(昭和63年)、県の調査開始が1993年という。平成5年には上甑島と中甑島は2つの橋で結ばれている。

 第1回の下甑島探訪で紹介したように北端の鹿島町はウミネコの南限地で知られ、藺牟田瀬戸は渦潮を見ることができる。10数年後に大橋が完成して、中甑島(平良島)と結ばれると、鹿児島県で最も長い橋(全長1.53q)となるそうだ。 夢の架け橋が果たす役割は島に住む人と自然の保護を前提に、これから多くの課題があろう。
 観光、産業や離島医療、教育なども含めて新しい可能性を託している。

 ある年、フェリーで出会ったバイクの青年がいた。橋がないため、上から下甑へ渡るところだった。いつかまた下甑島を訪ねてくれるだろう。

  「初旅の青年ひとり甑島 雅司」

 これは、あの日の思い出の一句である。
下甑島探訪そのM 〜甦った甑芙蓉布(ビーダナシ)〜  <2006年6月17日>
 瀬々野浦の中村悦子さんは、明治期に途絶えた芙蓉布(ビーダナシ)を蘇らせた。今から23年ほど前になる。そのきっかけは、1975年の下野敏見鹿児島大学教授の民族調査だったと聞く。母親から託された1枚の形身の着物は中村さんを奮い立たせた。試行錯誤の連続で、100年前の織物が復元された。
 「ビーダナシ」とはフヨウの木を使った手織布のこと。「まぼろしの布」とよばれ、新聞や学術論文の取材をうけた。芙蓉布は芙蓉の木を原材料として難儀のいる工程を経て作られる。伝統工芸として、全国にも紹介された。
 島に咲く芙蓉は心和ませる花だが、葛の花は郷愁をさそう。ビーダナシの前には、クズの木が原材料のクズダナシが作られていた。
 クズダナシが農作業の衣類として知られているのに対して、ビーダナシがもてなしの織物とされたのは注目される。夏衣のさらさらとした感触と艶やかさは先人の知恵の産物だ。自然が育んだ芙蓉の樹木が糸になるまでの作業。みごとに完成させた。ビーダナシを託されたお母様は、この上なくあの世で喜ばれたにちがいない。甑島の風土が生んだビーは横糸に、縦糸には絹が使われている。

「ふるさとにいま伝承の芙蓉布を蘇へらせし女の工房 雅司」      (歌誌・にしき江所収)
下甑島探訪そのN 〜瀬尾の観音三滝より〜  <2006年8月10日>
 瀬尾の観音三滝は下甑島の中央部東側に位置する。長浜でフェリーを下船し手打行きの市営バスに乗車。青瀬海岸を通り、バスが山坂にさしかかるその登り口の奥にある。
 この場所では昭和6年に薩摩電気が発電所を開設して電灯が点灯されるようになった。瀬尾川の水量があってのことだ。ランプ生活を想像すると電灯点灯の喜びははかりしれない。当時の出力は50`ワットで、夜明けから夜十時までの時間制限の送電であった。現在は九州電力の発電機4台で1960`ワットの出力がある。(下甑村郷土誌参照)

 瀬尾瀑布(『三国名勝図会』)は広々した三滝と観音堂が描かれている。滝へ行く途中に観音堂のあとが目についた。しばし立ち止まり、遠い昔を偲んだ。現在は公園とキャンプ場が整備されて時代の移り変わりをみる。
 下甑島は星空が美しい。照葉樹林の山から豊かな水量をたたえ55bの高所からの三段の滝。大滝を見つめていると雑念が取り払われ、清らかな心にさせてくれる。まさに自然との対話である。

   大滝の見えて音なき山の景 雅司  (下甑島吟行作品より)
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