鹿児島在住の山下雅司さんからいただいたエッセイをこちらにまとめました。
そのH以降はこちらへどうぞ。

下甑島探訪その@ 〜下甑島(しもこしきじま)は海猫(ごめ)の南限地〜  <2004年05月7日>
 下甑島は薩摩半島の西方40kmに位置する甑島列島(三島)の一つである。  かつては秘境・甑島といわれて大自然の残る島の代名詞となっていた。近年、フェリーも運航されるようになって、観光客は年々多くなりつつある。 今年10月からは「薩摩川内市(さつませんだいし)」としての行政になる。さらに島は県内外からの来訪者が四季を通じてふえると予想される。
 さて島の春といえば海猫が渡ってくる季節。下甑島の北西側の鹿島断崖では、ウミネコの繁殖が始まる。約半年間、海猫にとっては子育ての島となる。 切り立った断崖には外敵から子を守る海猫の営巣がある(社団法人俳人協会「南九州吟行案内」にも説明)。
 きびなご漁の初夏は海猫にとって最高の季節であろう。「ウミネコ留学生」の漁船からの餌付けは地元の新聞に毎年紹介されている。子ども達はその体験を通して 親心の大切さも海猫から学び得るのではないだろうか。
下甑島探訪そのA 〜カノコユリのふるさと甑島〜  <2004年07月12日>
 甑島は梅雨(ながし)が明けると夏本番となる。この季節に咲くかれんな花、「鹿の子百合」は甑島が自生地。 反り返った花びらに、長いおしべとめしべが突き出ている。その名の通り、かのこ絞りを思い出させる、淡いピンクの地に 鮮やかなべに色の斑点が特徴。カノコユリは島のシンボルとして、8月下旬まで村のいたるところで見ることができる。
 ユリは食材としても知られているが、かつては観賞用としてカノコユリは外国へ出荷された時期がある。村をあげての、その栽培、球根の選別、箱詰め、運搬に至るまで人の力で 難儀の作業であった。
 カノコユリのふるさと甑島はいまやインターネットで世界中の人々がみることができる。手つかずの自然の宝庫をいつまでも守りたいものである。 「薩摩川内市」の誕生までに100日を切った。10月12日がその日である。
 甑島への航路は、平常ダイヤは本土を起点として高速船「シーホーク」が往復2便、「フェリーニュー
こしき」が島を起点に2往復の就航となっている。
下甑島探訪 そのB 〜下甑島は野鳥の宝庫〜  <2004年09月08日>
   
 鹿児島県指定の地域にもなっている自然豊かな下甑島。山は高く600メートルにもおよぶ。切り立った断崖が海岸へと迫り、 集落はその海に面している。昭和40年代に出来た村道は尾根から尾根へと曲がり眼下にその集落を望み、生活道となっている。
 今回は「文集にしやま」10号から転載。9月12日にある下甑村閉村式の記念になればと思います。ふるさとに寄せる思いの 拙文で、2000年12月に級友、宮野金剛君の編集による文集です。

【旅立ちの時〜その2】
 昨年(1999年)の9月19日、俳句吟行会で日置郡金峰山へ登った。この時期は渡り鳥が南方へ帰る頃である。野鳥観察者は早朝より 双眼鏡を持って峰の稜線づたいに目を凝らしている。10時20分ごろだったと思う。観察のメンバーの一人から声があがった。鷹である。 梢から輪を描きながらとびたち上昇気流に乗ってゆく。その様は悠々と壮大であった。
 さて、ふるさと下甑島にも野鳥の多いことが知られている。しかし、野鳥というだけで詳しいことはあまり知らない。8月に稲刈りに帰った時に、 父が今年は雀でも村雀と違って渡り鳥の仲間だと言っていたことを思い出した。留鳥・漂鳥(島内にだけにみる)とは確かに違う。故郷の山は 渡り鳥のルートなのだ。私に鳥類の知識がないのが致命傷で、ああそうかで帰ってきた。
 後日、金峰山でみたアカハラダカは甑島でも観ることができると聞き、調べることにした。この鷹は鳩を少し大きくしたぐらいの鳥で、東南アジアから 4,5月頃繁殖のために朝鮮半島にわたり、9月に帰って行く渡り鳥で10年程前に確認されたらしく未だその詳しいことはわからない。一つに、なぜか 北上の時は群れをなさずに飛んで行き、帰りには群れとなって渡って行くらしいのである。
 2週間ほどのこの時期にサシバに先駆けて観察ができるこの鷹のルートを地図で追ってみると、金峰山は渡りの端に位置するとも見える。そう考えると、 下甑島はそのメインルートになるかも知れない。
 1995年、鹿児島県立博物館発行の「鹿児島の自然調査事業報告書U・北薩の自然」の中にアカハラダカ、サシバ、ハヤブサが観察される鳥として、 他の鳥類との優占率が63.4パーセントと群を抜いている。観察の場所を変えれば更にその数は増えるのではと書いてある。
 まさしく、甑島は渡りの中継地点ということになろうか。一日に300キロメートル以上も飛んでいく。渡りも終わりの頃となると、飛びたつ時間も 早まるとも聞く。8時間もかけて、800〜1000メートルの上空を奄美へと南下して行くのである。

 四季折々の花が咲き、青く澄み渡る大海原をひかえる故郷はまだまだ未知の財産を秘めている。環境問題が地球上のテーマになっている昨今、 いつまでも自然と共存して行かねばならない。
下甑島探訪 そのC 〜奉納舞「シアノーノー」の継承〜  <2004年11月02日>
   
 瀬々野浦集落の大帯姫神社で奉納される「シアノーノー」。
西山小学校の児童と集落の人々により継承されて毎年11月10日に同境内でとり行われる。平家落人伝説に由来する奉納踊りは下甑の他集落でも受け継がれているが、 ここ瀬々野浦では1ヶ月ほど、子供たちはその練習に熱が入る。2000年度から受け入れが始まった「ナポレオン留学生」も祭当日は奉納舞の担い手となる。

 奉納舞は神事のあとしばらくして始まるが、出番を待って川沿いの小道には先頭に子供その後に大人の踊り手が到着。鳥居をくぐり社殿の左手に陣取る。 児童の鼻や頬、首や手の化粧が目映いほどである。いよいよ「シアノーノー」の始まり。大人顔負けの踊りに観衆からは惜しみない拍手が送られ、年に一度の神祭りは 最高潮に達する。

 かつては中学生もその役目を果たした。勇壮にして哀調をおびた歌と太鼓だけによる奉納舞。子供たちはどんな思いで踊るのだろうか。踊り手は変わろうとも 郷土に受け継がれた伝統芸能を大切に保存して後世に残さなければならない。小学校においても、地域に根ざした総合的な学習教育の一環としての意義があろう。
下甑島探訪 そのD 〜往診の道 平田清 物語〜  <2004年12月26日>
   
 青瀬から瀬々野浦へ通じる往診の山道は今はない。青瀬に開院されていた平田先生は本土の人で、 熊本の医学校を出られて下甑島に来られたという。当時も半農半漁の田舎。不便な離れ島で多くの 島民を診察された。私も小学生の頃、母に連れられて先生の診察をうけた一人である。各集落の患者を 診るための往診。その道すがらに東シナ海の彼方に中国大陸が見えたという。蜃気楼である。偶然の 自然現象と峠越えの先生に去来した思いは・・・。

  往診の道すがら見ししんきろう  平田清

 その時の俳句は後に、しんきろうの丘として立った。
 下甑村は今年、薩摩川内市となったが平田先生の功績は村史に永遠に残る。僻地医療に大いなる貢献を されたのである。昭和の医師、平田清先生は、いつの日か「平田清物語」として多くのみなさまに紹介される 日があるかもしれない。かつて「南日本文化賞」を受賞されたありし日の先生が思い出される。

<追記(真帆)>TVドラマ「Dr.コトー診療所」に、この句碑が映った事があるそうです。
下甑島探訪 そのE 〜「おふくろさん」の島〜  <2005年2月20日>
   
 下甑町手打(旧:下甑村手打)。歌手、森進一さんの母郷である。
 歌謡曲「おふくろさん」は平成11年10月31日に手打海岸近くに歌碑となった。その除幕式に作詞家の川内康範氏と森進一さん来島。 島での記念コンサートには多くの人が都会からも訪れている。
 当日はコンサート前から雲行きはあやしくなり、数曲目には横殴りの大降り。それでも天国の母にこの歌とどけと森さんは万感の想いで舞台を務めた。 雨の中で私の歌を・・・。頬を叩く雨。マイクをしっかりと握りしめて最後の1曲まで熱唱した。

 歌碑の前に立つとセンサーで歌が流れる。「おふくろさんよ、おふくろさん・・・」
 いつまでも、母と子の絆はこの島に生きている。ありし日の母の真実。強く生きよと歌に刻まれる。母に対する子の感謝の心が時代を超えて息づいている。 励ましと希望があれば、障害どんな事にも負けることはないだろう。
 白砂に寄せる潮騒をバックに今日も「おふくろさん」の歌が時を刻んでいる。
下甑島探訪 そのF 〜「瀬々野浦の子守歌」〜  <2005年4月25日>
 誰もが幼い頃に母や婆さんの背中で聞いた子守歌。
 1992年発行の「文集にしやま・第2号」に、民俗学者・下野敏見氏の「瀬々野浦の子守歌」と題する一文があった。
 「五木の子守歌は名曲であるが、それと同じ歌詞が鹿児島県内各地で歌われ、甑島でも歌われている・・・」とある。
 以前に五木村に家族で出かけたことがある。その哀調は多くの皆さんが知るところだ。
 私も知らず知らずのうちに、子守歌を聴き育ったのだろうが、すっかり忘れかけていた。
 「瀬々野浦の子守歌」の1番から9番まで記された歌詞をみると、その内容はまことに人間の息づかいの通い合うものである。 自分の子も他人の子も関わりなく愛情に満ちており、生活の中の食べ物(ご飯)と切っても切れない関係を持ち、さらには生命(いのち)の尊さを 自然の優しい眼差しを通して出来上がっている。
 先生が当地を初めて訪ねられて、庶民の肉声から取材された貴重なもの。時代を超えた文化遺産である。月夜の晩に婆さんに背負われて西浄寺の前を家路に着いたことを想い出した。 夜であったから子守歌は聴かなかったであろうが。
下甑島探訪 そのG 〜民俗―第2号―「下甑島の民俗調査」    (鹿児島大学民俗研究会発行)から30年〜  <2005年6月27日>
 昭和49年4月発行の鹿児島大学の「下甑島の民俗調査」は同年3月18日から22日の5日間に取材したものである。 15名余の精力的な記録。その調査項目は島の生業、年中行事、人生儀礼、信仰を中心に、伝承、方言、民謡などが載っている。

 生業暦は農業、漁業が記されている。当時、水稲(早稲)は多くの島民が棚田づくりに朝から晩まで家族総出の時代であった。4〜5月は 植え付け、8〜9月は収穫。台風の常襲地であったが自給程度の米はどこの家でも作り、田植えは加勢していっせいに行われた。
 漁業は今でも盛んで、漁業体験の若い人が島を訪れている。定置網や一本釣り。また潜水によるアワビ漁など。初夏にはテングサ採り。 中学校の生徒会資金にもかつては、全校生徒で漁船を仕立てての1日もあったことを思い出す。
 同調査で記事は僅かであるが林業が取り上げられている。マツの伐採や炭焼きも当時はあって、学校が終わると炭焼き窯へ弁当を持って行ったことを憶えている。 今は車道があるが昭和40年代の初めまでは徒歩で山また山を越えたのである。

 「下甑島の民俗調査」は多く郷土の民俗学者により掘り起こされているが、この大学民俗研究会のものも貴重な資料であろう。5日間の調査には当時の生活が よく取材されている。昔、村は大流れで文献がなくなったことを思うと、聞き書きの学生に敬意を表したい思いである。筆者と同じ年齢の皆さんである。
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