あすなろ俳句教室の新コーナー「あすなろ一句鑑賞」にお寄せいただいた観賞文を掲載いたします。(第1回〜第30回)
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(掲載までに時間の掛かる場合があります。また、採用については管理人に御一任くださいますようお願いいたします。)
往診の先は、あまり状態の良くない患者さんなのでしょうか。生と死の狭間で揺れ動くような患者の容態の事を考えながら歩いている医師とその心持ちを表すような蜃気楼。春の暖かく、それだけに少し物憂いような空気を感じるような俳句だと思います。(美卯)
往診の道は峠越えだった。今のような自動車道は下甑島にはない。青瀬から瀬々野浦まで、徒は険しい。相当の年齢まで往診をされた。ある日の蜃気楼に医者の心情も読み取れる。 しんきろうの丘に、離島医療ひとすじの先生の句碑が建つ。(冬児)
平田先生は下甑島の医者だ。父の話によると、祖母の往診をたのみに青瀬峠を急ぎ、高齢で往診も少なくなっていた先生に、最後の往診をしてもらったという。 俳句の蜃気楼は、若い日の頃にみた自然現象であろう。僻地医療ひとすじであった。(まさじ)
鯉幟が気持ちよく泳いでいます。素直に作者は俳句にしています。「ひとの庭なる」がポイント。緋鯉や真鯉を父親が教えている様子、親子の声まで聞こえてきそうな感じですね。子に見せる行為が何よりも美しく、愛情の証しであると思います。(まさじ)
この俳句をみた時に、すぐに浮かんだのは村役場だ。わが故郷も市町村合併して、役場は支所となった。 作品は、島役所がかつてあった場所の畑のアマリリスだ。過疎化で行政は統合されたのか。田作りもできなくなった島民の高齢化も案じられる。(まさじ)
比喩(ひゆ)の俳句だ。作者はその対象物をみごとに描き出している。秋の夜空の星の集まりである天の川を柱とみた。年輪を刻む大きな柱を見るようだ。見て眠るが時間の経過と安らぎも与える。満ち足りて眠る子どもの顔を想像したり…。(まさじ)
私も眠れないときにはよく星をみています。夏は天の川もよく見えますが、柱のようだとたとえたのはおもしろいなあと思いました。私も夏の星の俳句を書いてみようと思いました。この作者の書いた俳句、どんな人かを調べてみたいです。(小6優子)
作者は熊本の俳人。上江津湖近くには句碑もある。上五の「とどまれば」に作者がよみがえる。生家の近くだろうか。立ち止まった辺り一面、トンボがふえているのに気づかれたのだ。自然環境が破壊されないようにと、思わずにはいられない。(まさじ)
木の実といえば、どんぐりを思い出します。よろこんで拾っている子どもでしょうか。「また、あった。ここにもあった」そんな声が聞こえるようです。次々と落ちる木の実。自然の恵みを感じる俳句ですね。人の喜びに応える木の実です。(まさじ)
俳句は時代を写す鏡かもしれません。缶詰めを開けるのに、今は缶ビールのように簡単です。以前は缶切りを使いました。「こきこきこき」という音で、手の動きもわかります。静かな時間の流れと、季語で音の空間も広がって絶妙です。(まさじ)
七五三参りです。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあちゃんもご一緒かもしれません。子どもの成長を願う行事です。男の子がしめているネクタイの色に作者は気づき、鳩の空色と表現しました。作者の優しい眼差しが溢れる作品です。(まさじ)
今まで大仏さまに当っていた冬日は山に移った。時間の経過を「大仏の冬日」で物語っています。背の山が照らし出されて印象的。かつて、私も鎌倉の大仏を訪ねましたが、自然のなかに鎮座まします大仏に時空間の安らぎを感じました。(まさじ)
「去年今年」は新年の季語。作者は「去年今年貫く」と表現され、それは「棒の如きもの」とたとえられました。新年を迎えても普段と変わらない生活。棒に込められた作者の思いを知るよしもありませんが、作者の気概までも伝わってきます。(まさじ)
白梅と紅梅はみごとです。白梅に少しおくれて開いた紅梅です。作者の視線は梅花から大空へと広がっています。「紅梅の深空あり」と印象深い自然詠。白梅と紅梅を並べて書にしたい作品です。また絵画にして、その空間を描きたくなりました。(まさじ)
いつだったか、TVのクイズ番組で「白梅と紅梅はどちらが先に咲くのか?」と出題されていて、確かに順番がありそうだと思ったことがあります。凛として無垢な白のあとにふくよかで妖艶な紅が咲くのですね。背景に確固として空がある。まばゆい早春〜爛春の風景です。(真帆)
幾重にも連なる山と山桜の風景。漢字を分解すると、山の字が4つ、桜、又の字が各2つで構成された作品です。不思議な力を持つ俳句です。山と山桜と言えば、田舎育ちの私は郷愁あるのみ。みなさんは何を思われますか。独特の青畝俳句です。(まさじ)
季語は「永き日」。柵を越えたニワトリのその瞬間に遭遇しました。日が長くなったのどかな春の情景です。ニワトリは空を飛ぶことはないので、柵があれば放し飼いできますが、その柵を越えたことは作者の心情にも及ぶかのようでなりません。(まさじ)
「八十八夜」は立春から数えて88日目で、陽暦では5月の1〜2日ごろ。種蒔や茶摘の時期の目安になっている。
暦の知識と「母の声」しか手掛りのない句だが、その姿なき母の存在感が「しかと」という表現によって、心に沁みて感じられる。
ものが成育し、葉の茂る陽気は確かに母の愛に通じる。(真帆)
早苗月は6月の季語で陰暦の五月の異称。字づらだけみると「笛」と「苗」は似ており、無関係ではなさそうです。
掲句は「山越えて」と切り出して場面がよくわかります。里神楽は各地で伝承され、笛や太鼓には日本の心が息づいています。(まさじ)
暑い夏の午後の昼寝は気持ちよい至福のひとときです。昼寝から目が覚めても、まだ夢見ごこちの作者。
それを「夢に片足かけしまま」と表現しています。片足が効いています。昼寝覚めの様子がよくわかります。
メルヘンの世界をひきずりながら…。(まさじ)
この句を少年時代に読んだとき、「この気持ち、わかる!私も算数苦手だから」と思いました。でも、今読んでみると、そう単純なことでもないのかな、と深読みしたくなります。
なぜ、少年はしのび泣いているのか。夏休みの宿題の算術が解けないのではなくて、算術のように明快な答の出ない「夏」の出来事に対して、しのび泣いているのではないかと・・・。(真帆)
夏休みの宿題は大変でした。その中でも苦手の算数。算術という時代の俳句です。「しのびなけり」は少年の姿を十分に伝えています。だれに手伝ってもらうわけでもなく、必死になっている少年なのです。つらいことをたえ忍ぶ心を教えられます。(まさじ)
肩ぐるまで子供と父親の顔が浮かびます。いつもはみやげがあるのに、この日はありませんでした。みやげの代わりに肩ぐるまをしたのです。
作者は生活の1コマをあるがままに俳句に残されました。子育ての時でなければ出来ない作品。秋の夜。(まさじ)
秋も終わりです。噴煙は秋の大空にたなびいていました。暮の秋が過ぎて行く感じが実感させられます。
「空にほしいまま」と表現した作者。春とは違う季節感です。作者はどんな思いで噴煙を眺めていたことか。
余分なことを想像しています。(まさじ)
汽車で旅したころのにおいが俳句から伝わってきます。俳句はその時を残す側面を持っています。
「口いつぱいに」という中7には喜びがあらわれています。めったにない冬の旅に家族の顔が見えるようです。
口と季語以外はひらがなで効果倍増。(まさじ)
鹿児島県出水市には、今季も1万羽を超えるツルが飛来しています。塒の田んぼでツルが畦から下る瞬間を「ことりと」表現した作者。ツルの動きがみえるようです。鳥インフルエンザが終息して、掲句のような観察ができる日を願っています。(まさじ)
「海鳴り」は、辞書には〈天気が荒れる前にうねりが海岸でくずれるために発生する音〉とあるが、元日のあらたまった空気の中で体の芯にいきわたる響きに、作者は母の励ましを感じたのだろう。
フランス語で海は母と同じ音韻なのだという。海は命の源。(真帆)
「ねこやなぎ」が揺れていた。通りすがりの作者は、猫柳をみて即座に連想したのだろう。忘れたものは「尾」という。猫が尾を忘れたかとも。柔軟な発想による俳句の面白さだ。機知に富む作品に思わず、微笑んだ。季語のひらがな表記がいい。(まさじ)
野山で遊びまわった子ども時代を思い出す俳句です。治りはじめの傷のかゆみは作者の実体験でしょうか。郷愁を感じています。季語の「すかんぽ」は茎の皮をむいて食べますが美味しいですよ。家から持ってきた塩を少しつけて食べたものです。(まさじ)
遠足の声がばらばらと表現されると、大人数の列を想像します。バス利用の遠足ではなく田舎の山道、峠越えだ。リュックサックを背負った子供たちの弾む声に風土がしのばれます。俳句は日本の原風景そのものです。遠足の青瀬峠を越えし日よ。(まさじ)
「筍飯の大盛よ」と作者はおどろいているのです。大人はその大勢な食欲の子供に目を奪われるのです。真っ黒になって遊びから帰ってきた成長期の子供の元気な姿まで想像がふくらみます。作者の子供に対する愛情と期待感とがみなぎった作品。(まさじ)
「ただひとつ待つことあり」と作者は言う。人間は弱い存在だが、何かを頼りに頑張ることが大事。待つことがあれば暑さも何のその。誰にも経験するであろう日常を作者は普遍のものとした。俳句とは不思議。17音以上の力を与えてくれる。(まさじ)
大きな虹ができたその中を人が歩いてきます。農村の風景は人間の営みの中にあります。虹と一面の青田。遠近感に加え、色彩のコントラストも映像の世界をみるような俳句です。虹も青田も7月の季語ですが、作者は絶好の情景に遭遇しました。(まさじ)
日ごとに小さくなっていく朝顔をみて、作者は父母のことを思われたのです。暑い盛りに体調はくずしていないかと気遣っての一句です。俳句は存問。あいさつの心は決して肩肘張ったものではなく、自分の正直な気持ちの表現だと思います。(まさじ)
初めは大輪の色濃い花を開いていた朝顔が、だんだん小さく色薄くなっていきます。作者は、朝顔の変化に気づいたとき、すっと素直にご両親のことを想われたのでしょう。
私自身の体験で言えば、親と離れて暮らしていると会いに行くにも、何か理由をつけないとかえって「どうしたの?}と心配されたりしないかと気構えてしまったりします。こんな風に、「両親を訪問しよう(帰省しよう)」と意志を俳句にできるのはすごいです。(真帆)
からからになるまで、今日も唐辛子を干し続ける。「昨日の色の唐辛子」が眼前に。昨日、今日という言葉がまことに絶妙だ。今日も干すと言われてみると、手の動きまでもみえてくる。俳句は視覚、聴覚、味覚を存分に堪能させると思った。(まさじ)