海辺の二人


「海に行きたいなぁ……。」
「はぁ? 海?」
 女王候補アンジェリークの呟きに鋼の守護聖ゼフェルは『何を行ってるんだ。こいつは?』とでも言いたげに湖を見つめる彼女の顔をまじまじと眺めていた。
「泳ぐにはまだ早ぇんじゃねーのか?」
「えっ?」
 ゼフェルの言葉にアンジェリークは驚いたようにゼフェルを見た。
「や…嫌だ。私…声に出してました?」
「ああ………。」
「あの…違うんです。泳ぎたいとかそうじゃなくて……。ただ見に行きたいなぁ…って………。」
「見に行きたい…ね。何でまた突然んなコト思いついたんだ?」
 尋ねるゼフェルにアンジェリークが困ったような顔をした。
「あの…呆れないで下さいね。今朝方…小さい頃に家族で行った海の夢を見たんです。コバルトブルーの海と白い砂浜と……。それで何だかむしょうに海が見たくなって………。」
「ふーん。で、ついでに少しばかりホームシックになった…と……。」
「ゼフェル様! 呆れないでって言いましたでしょ。」
「呆れてなんかねーよ。それより海か………。」
「……ゼフェル様?」
 考え込んでしまったゼフェルをアンジェリークが不思議そうに見つめた。
「アンジェリーク。明日の土の曜日は謁見の日だったよな。」
「えっ? えっと……。あっ! はい。そうです。」
 突然のゼフェルの問いかけにアンジェリークが指折り数えて答えた。
「謁見のあと大陸の視察に行って…寮に戻るのは大体2時位か?」
「……はい。いつもその位になっちゃいます。」
「よし。だったら明日…1泊分の荷物用意して待ってろ。迎えに行くから。」
「えっ? 1泊分の荷物って……。ゼフェル様?」
 ゼフェルの言葉の意味を判りかねたアンジェリークが目をパチクリさせた。
「……海に連れてってやるよ。」
「海に……。あの…でも……。ジュリアス様に怒られるんじゃ………。」
 飛空都市に海はない。
 海に行くと言う事はそのまま飛空都市を抜け出すと言う事になる。
「…んだよ。怒られるのは嫌だから海に行くのは諦めるってのか?」
「いいえっ! 行きたいです。」
「だろ? 3…4時頃に迎えに行く。2時間もありゃ準備できるだろ? 良いな。」
 アンジェリークは何かの準備にとても時間がかかる。
 迎えに行く時間を指定しようとしたゼフェルがその事を思い出し指定時間を1時間遅らせた。
「はい……。でもゼフェル様。4時頃から行っても………。」
「このボケっ! 誰が土の曜日に海に連れてくっつったよ。その日は聖地の俺の家に泊まって…海に行くのは日の曜日だ。」
「ゼフェル様の家に………?」
 カーッとアンジェリークの顔が赤く染まる。
「おめー…なに顔赤くして……………。」
『ちょ…ちょっと待て。俺…今こいつに何て言ったんだ? 俺の家に泊まれって………。』
 自分の言ったセリフを思い出してゼフェルがアンジェリークに負けず劣らずに顔を赤く染める。
 アンジェリークの望みを叶える事しかゼフェルの頭の中にはなかったのだ。
「ば…莫迦野郎。なに妙なコト考えてんだ。こっちから行くより向こうから直に行った方が海に長くいられるだろ。だからだよ。それと! エアバイクで行くからスカートは止めとけよ。良いな。」
「は…はい。判りました。」
「それともう1つ! 日帰りだからおめーの言ったコバルトブルーの海でも白い砂浜でも何でもねー所だぞ。」
「良いんです。どんな海でも海が見られれば……。嬉しい。ゼフェル様。ありがとうございます。」
「ちぇっ。おめーはオーバーなんだよ。これ位で………。」
 満面に笑みを浮かべるアンジェリークにゼフェルは照れたようにそっぽを向いた。


「すみません。遅くなっちゃって……。」
「遅せぇよ。おめーは。……おい。スカートは止めろって言ったろ。しかもそんな丈の短い……。走ってる最中にめくれても知らねーぞ。」
 日の曜日。
 かなり寝不足気味のゼフェルが白いセーラーカラーのシャツに紺色のミニスカート姿のアンジェリークに眉を寄せた。
「大丈夫です。これスカートじゃなくてキュロットですから。」
「キュロット? ……ああ。ズボンみてーなモンか。んじゃ。乗れよ。」
 アンジェリークの説明にゼフェルがもう一度確認して納得する。
「しっかり掴まってろよ。」
「はい。」
 返事だけは良かったものの一向に掴まってこないアンジェリークにゼフェルが後ろを振り返った。
「おめー。何処に掴まってんだ?」
「えっ? あの…ここに………」
 シートの出っ張りの部分をしっかりと握りしめているアンジェリークが不思議そうに返事をする。
「……はぁ〜。………手!」
 ハンドルを握っていた両手を離したゼフェルがアンジェリークに叫ぶ。
「えっ?」
「良いから。右手よこせっ!」
「はいっ!」
 ゼフェルの動作に戸惑っていたアンジェリークが言われてブラブラと動くゼフェルの右手を自分の右手で握る。
「次! 左手!」
「はいっ! ……きゃっ!」
 言われるままにゼフェルの両手を握ったアンジェリークの手を握り返したゼフェルが強く前に引っ張り自分の腰に廻させる。
「ゼ…ゼフェル様?」
「莫迦。身体くっつけててくんねーとバランス取りずれぇんだよ。しっかり掴まってねーと落っこちても知らねーからな。行くぞ。」
 ゼフェルの背中に密着するような体勢になったアンジェリークが慌てて離れようとするので、ゼフェルはアンジェリークの手をしっかり掴んでもう一度自分の腰に廻すとエアバイクを走らせた。
「ゼ…ゼフェル様。安全運転で行きましょうよ。」
「んなコト言ってたら日が暮れちまうぜ。」
「だって……。きゃあっ!」
 エアバイクのかなりのスピードにアンジェリークがゼフェルにきつくしがみついた。
『……へっ?』
 フニャっと背中に当たる柔らかい感触にゼフェルが唖然とする。
 カーッと身体が熱くなった。
 昨夜不用意に客間に入り着替え中のアンジェリークの下着姿を見てしまった。
 瞼に焼き付いた寝不足の原因とも言えるその姿が再びゼフェルの目の前に浮かんできたのだった。
「………ゼフェル様?」
 ゆっくりとスピードを落としたバイクにアンジェリークがしがみついていた腕の力を緩めて不思議そうに声をかけた。
「……仕方ねーから安全運転してやるよ。」
 ゼフェルは振り返りもせずに答えていた。


『……元気な奴。』
 海に到着したと同時に波打ち際ではしゃぐアンジェリークの姿をゼフェルは砂浜に座りこんで眺めていた。
 昨夜の寝不足と先程までアンジェリークと身体を密着させていた緊張感とで体力と精神力とをかなり消耗しているゼフェルであった。
「ゼフェル様〜。ゼフェル様も来ませんかぁ?」
「莫迦野郎。俺はこの格好だぞ。濡れる気ねーよ。おめーも服濡らさねー様に気を付けるんだぞ。」
「はーい。」
 ジーンズ姿のゼフェルに笑顔を見せてアンジェリークは返事をした。
「…ったく。判ってんのか? あいつ。濡れた服のままでバイクに乗せねーからな。錆びたらどうすんだよ。………ん? これ……。」
 手元の砂をサラサラといじっていたゼフェルが砂の中の固い感触にそれを拾い上げる。
「ゼフェル様。どうかしたんですか?」
 いつの間にやってきたのかアンジェリークがゼフェルの目の前で見おろすように顔を覗かせた。
「わぁ……。小さくって可愛い貝ですね。綺麗なピンク色。」
「桜貝って言うんだよ。欲しいならやるよ。ほら。」
「良いんですか?」
「ああ。俺が持ってたってしょーがねーだろ? 以前来た時はこの辺にももっと沢山あったんだけどな………。」
「以前…って……?」
 受け取った桜貝を大切そうにハンカチに包んだアンジェリークが座っているゼフェルの隣りに座り不思議そうに尋ねた。
「………守護聖として聖地に無理矢理連れて来られただろ? そん時…よく抜け出して此処に来てたんだよ。」
「此処に……?」
「ああ。おめーが家族と行ってたって言うコバルトブルーの海程じゃねーけどよ。汚染された真っ黒な人工海しか知らねー俺には此処も十分に綺麗な場所だったんだよ。」
「……………。」
「あっちこっち歩き回って…此処で見つけた生物の名前片っ端から調べて……。その貝もそん時調べたから名前を知ってるんだよ。でなかったら俺がこんな貝の名前なんて知るわけねーだろ? ……どうかしたのか?」
 嬉しそうに自分を見つめるアンジェリークにゼフェルは怪訝そうな顔をして見せた。
「何だか嬉しい。ゼフェル様の意外な一面が見れて………。私のお父さんがよく言ってました。海とか山とか大きすぎる自然の中にいると人間って素直になるんだよ。って……。」
 言いながら立ち上がりアンジェリークは波打ち際へと向かう。
「………ゼフェル様? ゼフェル様もこんな所で育っていたらもっと素直な性格になったかも知れませんね。」
「………てめー。それ。どーゆー意味だよ。」
 アンジェリークの含みのある言葉にゼフェルが目を座らせた。
「だって…ゼフェル様って素直じゃないんだもん……。」
 言ったと同時に走り出す。
「てめっ! 言いやがったな? 待ちやがれっ!」
 逃げるアンジェリークをゼフェルは慌てて追いかけた。


「アンジェリークっ! てめー。汚ねぇぞ。こっちに来やがれっ!」
「ベーッだ。ゼフェル様ジーンズですもんね。ここまで来れないでしょ。」
 膝の辺りまで海に浸かったアンジェリークが波打ち際で怒鳴るゼフェルに舌を見せる。
「よーし。そう言う態度取るんだな? ……覚悟しろよ。」
「悔しかったら此処まで……。えっ? 嘘ぉ〜。」
 ザブザブと波を蹴散らすように走ってくるゼフェルにアンジェリークが慌てて逃げ出した。
「嘘ぉ〜。ゼフェル様。濡れるの嫌なんじゃなかったんですか?」
「…っせーよ。てめーが悪りぃんだろ。」
 逃げるアンジェリークと追いかけるゼフェルの距離が徐々に縮まっていった。
「きゃっ!」
「捕まえたぜ。この野郎……。…ったく。てめーって奴は……。世話やかすんじゃねーよ。大体! 俺が素直じゃねーからって、てめーにとやかく言われる筋合いはねーだろ。」
 アンジェリークの手首を掴み自分の方を向かせたゼフェルが怒った口調で言った。
「とやかく言いたくなるんだもん。」
 そんなゼフェルの言葉にアンジェリークが口を尖らせて拗ねたような瞳を見せる。
「ゼフェル様…素直じゃないから……。一昨日だってその前だって………。」
「一昨日? 湖で偶然会ったあれか?」
「偶然じゃないもの。私…お会いしたかったですってちゃんと言いましたでしょ。ゼフェル様だって私に会いたかったって言ったクセに……。」
『こいつ…俺になにを言わせたいんだ?』
『言って欲しい言葉があるの。ただ一言だけ………。』
 無言で見つめ合う二人の、言葉にならない言葉が瞳によって語られる。
「……………知らない。」
「ちょ…ちょっと待てっ!」
 背中を見せるアンジェリークの手首をゼフェルは握った。
 波の音がゼフェルの背中を押す。
「……………好きだ。」
 打ち寄せる波の音に消されてしまうのではないかと思われるほど小さな声でゼフェルが告げた。
「おめーが好きだ。……好きだ。好きだ。」
 いつか必ず言おうと思っていた言葉。
 アンジェリークが喜びそうな言葉を色々考えていた。
 しかし、いざ告げるとなると一つの言葉しか出てこなかった。
「……大好きっ! ゼフェル様っ!」
「う…わっ!」
 アンジェリークがゼフェルに抱きついたのとゼフェルが寝不足のせいで引く波に足を取られ身体のバランスを崩したのはほぼ同時だった。
 バッシャーン。
 波飛沫を上げてゼフェルは尻もちをついた。
「………アンジェリーク。」
 ゴボゴボゴボッ。
 一際大きな寄せる波が座りこんでしまった二人を頭から飲み込む。
「……濡れちまったな。」
「………びしょ濡れですね。それに…ちょっとしょっぱい。」
 ゆっくりと唇を離した二人が互いに照れた様に笑い合った。


「そろそろ帰るぞ。」
「えっ? もう………。」
 岸辺に向かうゼフェルの言葉にアンジェリークが残念そうに呟いた。
「今から帰らねーと飛空都市に戻れねーぞ。」
「……ゼフェル様のお家にもう1泊したいな。塩水でベタベタして気持ち悪いし……。もう少し二人でいたい……………。」
 そんなアンジェリークの呟きにゼフェルが耳まで赤くする。
「お…おめーな。自分で言ってて意味判ってるのか?」
「……夕べも渡された部屋の鍵…閉めなかったんだよなぁ。今夜も閉めないでおこうかと思ってるんだけどな?」
 ゼフェルの腕を取り悪戯っ子のような瞳で顔を覗き込む。
『……駄目だ。腹くくっちまうと女の方が度胸すわってるぜ。』
「……ジュリアスに怒られる時は一緒だぞ。」
「うん。」
「………嫌だっつっても聞かねーからな。」
「うん。」
「………動けなくなっても俺のせいじゃねーぞ。」
「うん。」
「……………ずっと…好きだからな。」
「……うん。」
 バイクに戻る二人の後ろで波間に沈む太陽がほんの一瞬、アンジェリークの瞳の色を映し出していた。


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