大江戸捕り物奇談
ここは花のお江戸の浅草橋。
浅草寺裏の長屋には江戸で評判の捕り物小町アンジェリークが住んでいました。
亡き父の後を継ぎ、女だてらに岡っ引きになったアンジェリークの目下の悩みは自分がお上のご用を預かるようになってから暗躍を始めた赤目小僧の存在でした。
と言うのもこの赤目小僧、いつもいつもあわやと言うところまで追いつめて…アンジェリークのホームグラウンドでもあるこの浅草寺周辺で姿を見失ってしまうのです。
浅草寺境内は寺社奉行の管轄で、同じお上のご用を預かっている身とはいえ、町奉行所配下のアンジェリークが勝手に入ることは許されません。
昨日も後もう少しと言う所で赤目小僧に逃げられたアンジェリークは与力からきついお叱りを受けたのでした。
「赤目小僧っ! 今夜こそ御用よ。」
今夜もまた、ヒューと闇夜に呼び子の笛の音が響きます。
十手をかざしたアンジェリークは屋根の上をヒラリヒラリと飛び回る赤目小僧に大声をあげました。
「女だてらにんなモン振り回すんじゃねーよ。」
大胆不敵に笑う赤目小僧の、その名の由来となった赤い瞳が御用提灯に照らされて更に赤く輝きます。
「捕まえられるなら捕まえるんだな。」
「あっ! 言ったわね。この辺は私の庭みたいなもんなんだから。絶対絶対! 逃がさないからね。」
壁の向こうに飛び降りた赤目小僧に、地の利を知り尽くしているアンジェリークが細い路地へと向かいます。
「見つけたっ! 赤目小僧! 御用っ!」
「……へぇ。よくこっちに来るって判ったな。…っかしよぉ。1人ってのは失敗だったな。捕り物小町さんよ。」
十手を突き出すアンジェリークに怯む様子もなく、赤目小僧は余裕綽々に呟きました。
「1人だって十分よ。大人しくお縄になりなさいっ!」
「……よぉ。危ねー目に遭わねーうちに、んなモンお上に返しちまった方が良いぜ。」
「うるさいわねぇ。第一、どんな目に遭うって言うのよ。覚悟っ!」
「例えばこんな…だよっ!」
強気に赤目小僧に向かって突進したアンジェリークは、十手を握る手を取られたと思った途端、頭を抱えられるようにして唇を塞がれました。
「んんっ!!! んーっ!!!!!」
赤目小僧に唇を塞がれたアンジェリークは力を込めて離れようとしましたが相手はビクともしません。
「…って危ねー目だよ。ごっそさん。」
ゆっくりと唇を離した赤目小僧はうっすらと涙を溜めるアンジェリークの頬を一撫で撫でて、ヒラリと塀の上に飛び上がりました。
「な…な……。ドロボーっ!!!!!」
月夜の明るい晩、捕り物小町アンジェリークの叫び声が辺り一面に響いていました。
「ゼフェルっ!」
「よ…よぉ。アンジェ。どうし……。わっ!」
夜が明けたと同時に打ち物師ゼフェルの家に入り込んだアンジェリークは手近にあった皿や茶碗をゼフェルに向かって投げ始めました。
「もうっ! 悔しい悔しい悔しい〜。」
「アンジェ…止めろって。おいっ!」
投げつけられる皿や茶碗をしっかりとキャッチしながらゼフェルがアンジェリークに近づきます。
「はぁ。何だか今日はいつになく激しいですねぇ。」
「犬も食わない何とかなんだから放っときなさいよ。それよりさぁ。さっさと本物の夫婦になっちゃえば良いのにねぇ。」
「ば…莫迦野郎っ! 見せ物じゃねーよっ!」
同じ長屋のルヴァやオリヴィエにからかわれてゼフェルが真っ赤になって入り口の戸を閉めます。
実はこの2人、ずっと以前から長屋中、知らない者のない恋仲なのです。
「アンジェ…いい加減に………。いい加減にしやがれっ!」
堪忍袋の緒が切れたゼフェルの怒鳴り声にアンジェリークの動きがピタリと止まります。
「な…何よぉ。夕べ大変な目にあったんだからぁ。慰めてくれたって良いじゃない。ゼフェルの莫迦ぁ〜。」
ヒステリックに物を投げつけていたのが終わったと思ったら今度は派手に泣き始めます。
ゼフェルは頭を抱えてしまいました。
「悪かった。頼むから泣くな。大変な目って何なんだ? 聞いてやるから。」
泣きじゃくるアンジェリークを抱きしめたゼフェルがあやすように背中を軽く叩きます。
「……あのね。夕べまた赤目小僧が出たの。」
「あぁ。」
「それでね。……………。」
『………あ。言えないよぉ〜。赤目小僧にキスされたなんて………。』
途中まで言いかけてアンジェリークが昨夜の事を思い出して蒼白になります。
いくら何でも、恋人のゼフェルに他の男にキスされたとは言えませんでした。
「で?」
「あの…途中まで追い込んで……。からかわれて莫迦にされて逃げられちゃったの。」
続きを促すゼフェルにアンジェリークはキス以外の事実を伝えました。
「莫迦にされた…ねぇ。赤目小僧ってあれだろ。町奉行所や寺社奉行所の偉そうで嫌な役人ばっか狙う。評判だよな。義賊だ。正義の味方だ。ってよ。」
「あんな奴、そんな偉くないっ!」
「判った判った。で、何て言って莫迦にされたんだ?」
興奮したように叫ぶアンジェリークの頭をゼフェルはポンポンと軽く叩きます。
「女だてらに…って。十手をお上に返した方が良いって。」
「……ふーん。俺は…そいつの意見に賛成だな。」
「ゼフェルっ!」
赤目小僧の意見を支持するゼフェルにアンジェリークが怒ったように眉を寄せます。
「おめーに岡っ引きなんてのは土台無理なんだよ。親父さんのその十手。今からでも遅くねーからお上に返上してまたオリヴィエの一膳飯屋で働けよ。危ねー目に遭う前によ。じゃねーと…俺の心臓が保たねーよ。」
「ゼフェル……。でも…でもね。ゼフェル。私、止めるなら止めるでちゃんとしたい。私が十手を握るようになってから出てきた赤目小僧だけは私が捕まえたい。そしたら…そしたらお上のご用を止める。お上のご用を止めてゼフェルのおかみさんになる。………それじゃ…駄目?」
「…っ方ねーな。…っの頑固者。」
縋るように見上げられてゼフェルは苦笑しながらアンジェリークに口付けます。
障子の破れ穴から長屋の住人に一部始終を見られているとは全く思いつかない2人でした。
「お呼びでしょうか。」
「うむ。相次ぐ赤目小僧捕り逃がしで上の方々がそろそろ喧しくなってきた。」
「も…申し訳ありません。」
置屋に呼び出されたアンジェリークが与力の言葉に身体を縮こませる。
「これ以上はわしもお前を庇いきれん。……そこでだ。アンジェリーク。」
「きゃっ。」
ずいっ…と身を乗り出して肩を抱く与力にアンジェリークが小さく悲鳴を上げる。
「お前がわしの物になれば良いようにしてやろう。」
「えっ?」
戸惑ったような顔をするアンジェリークに与力はアンジェリークの肩を抱いたまま隣の部屋へと繋がる襖を開けた。
「……………嫌っ!」
部屋に敷かれた布団にアンジェリークが慌てて逃げようとしますが、それより早く与力はアンジェリークを布団の上に押し倒しました。
「嫌っ! 止めてください。私にはゼフェルが………。」
「鍋や釜を相手にしている薄汚い打ち物師なんぞよりわしの方が良い思いをさせてやる。」
「嫌っ! ゼフェル。ゼフェル。ゼフェルっ! あうっ!」
激しく抵抗するアンジェリークに与力は当て身を食らわせました。
「それ以上、そいつに触れてみろ。ただじゃおかねーぞ。」
気を失ったアンジェリークの腰の帯を解き、襟元を大きく開いた与力の首に自身の刀が突きつけられます。
「………何者だ。」
「てめーみたいなヒヒ爺に名乗る名なんて持ってねーよ。そっちの女は赤目小僧って呼ぶけどな。」
「赤目!!! な…わ…わしの髷が…髷が………。うぐっ!」
振り返ろうとした与力は髷を切られて狼狽し、鳩尾を思い切り蹴られて気を失います。
「…っ迦野郎。」
着物を乱されたままのアンジェリークを見つめて赤目小僧は苦々し気に呟いていました。
「ん………。!!!!!」
意識を取り戻したアンジェリークは慌てて飛び起き辺りを見回しました。
「気がついたか?」
「えっ? ……赤目小僧っ! きゃあっ!」
薄暗がりの中で声をかけられたアンジェリークは赤目小僧の姿を見つけ立ち上がろうとして乱れた着物に悲鳴を上げました。
「安心しろ。未遂ですんでっから。」
「………あなたが…助けてくれたの?」
大きく広げられていた襟元を直しながらアンジェリークが尋ねます。
「…ったくよぉ。だから言ったんだ。危ねー目に遭う前に止めろってよ。」
「な…何よっ! 全部あなたが悪いんじゃない。私だって…向いてない事ぐらい判ってるわよ。でも…私がお上のご用を始めた途端あなたが出てくるんだもの。このままじゃ…すっきりしないじゃない。あなたを捕まえてから止めようって…決めて……。ゼフェルと約束してるんだから。なのにこの間はキ…キスまでして……。赤目小僧の莫迦ぁ〜。」
「だから泣きゃあ良いってモンじゃねーだろ。判ったよ。俺の負けだよ。アンジェ。」
「えっ?」
名前を呼ぶ赤目小僧にアンジェリークが涙を零したまま固まります。
「…ったく。何で気づかねーかな。おめーは。」
「あ……。ゼフェ…ル。」
目の前で膝をついて頭に被っていた布を取る赤目小僧の姿にアンジェリークが目を丸くします。
「岡っ引きとしてやっていけねーって思わせりゃ止めるかと思やぁ俺を捕まえるまで止めねーなんて言いがって。おまけにあんなヒヒ爺に触られやがって。」
「好きで触られたんじゃないもん。全部…ゼフェルが悪いんじゃない。莫迦莫迦莫迦ぁ〜。」
ゼフェルの胸の中に飛び込んで何度も何度も拳で胸を叩くアンジェリークをゼフェルは抱きしめました。
「俺の負けだ。捕まってやるよ。だから岡っ引きを止めろ。良いな。」
「捕まるって……。でも……………。」
落ち着きを取り戻したアンジェリークがゼフェルの言葉に不安そうに顔を上げます。
「おめーにだけ捕まってやる。おめーにだけ…だ。だからおめーも……。」
「止める。もう止める。明日、十手を返してくる。」
しがみつくアンジェリークにキスをしながらゼフェルは直されたばかりのアンジェリークの襟元を開いていきました。
次の日、江戸中の評判だった捕り物小町は引退し、それと同時に赤目小僧も姿を消しました。
「何だか…私が赤目小僧を捕まえたって言うより、赤目小僧が私を捕まえたみたい。」
「どっちにしろ同じだろ。」
口を尖らせながら呟くアンジェリークの隣でゼフェルが苦笑して見せます。
何はともあれ、今日もお江戸は日本晴れです。