緑色の海


 気がついたら海の真ん真ん中にいた。

『またかよ。』

 夢の中だと言う事が十分に判っているのに思わず舌打ちをする。

 もうしばらくしたら俺の目の前にあの嫌みったらしい前任の鋼の守護聖が出てきて恨み辛みを延々と繰り返すだろう。

 足下からは沢山の手が鋼のサクリアを求めて俺を掴む。

 そして俺はもの凄い力で真っ黒な海の中に引きずり込まれるんだ。

 真っ黒のドロドロに腐れ切った海の中に………。

 そこまで思って、ふと、違和感を覚える。

 いつもと同じ、海のど真ん中。

 周り中、海以外何も見えない。

 いつもと同じ筈なのに違和感は拭えない。

 チャプン…と水の跳ねる音に我に返る。

 白く細い腕が水底から姿を現した。

『あぁ。何だ。やっぱ何も変わってねーや。』

 何も変わって…いや…違う。

 今日の夢はいつもと違っていた。

 あいつが出てこない。

 水底から伸びる腕は1人分だけ。

 そして…見たこともないくらい綺麗な緑の海。

 いつの間にか胸の辺りまで緑の海に沈んでいた。

 スッ…と大きな影が俺に近づく。

 白い腕が2本、俺の首に廻る。

 いつものように強引に引きずり込まれる力は感じられない。

 でも確実に俺は緑の海の中に沈んでいった。

『人…魚……?』

 海の色と同じ色の大きな瞳の人魚が愛おしそうに俺を抱きしめる。

 人魚の金色の髪が緑の海の中でキラキラと輝く。

 俺を見上げるように顔を上げた人魚の白い手が俺の頬を撫でる。

 その冷たい感触にゾクリと身震いがした。

 身体が動かない…動かせなかった。

 息をする事すら忘れてしまう。

 ニコッ…と人魚が俺に微笑みかける。

 人魚のその笑顔に俺は引き込まれていった。

 ゆっくりと人魚が海の色と同じ瞳を閉じて俺に近づく。

 桜色の人魚の唇が、息苦しさのせいなのか恐怖心から来ているのか判らない、震える俺の唇にゆっくりと重なる。

 冷たい人魚の…唯一暖かい唇に俺は緑の水底まで沈んでいった。



 ガバッ! と、もの凄い勢いで飛び起きると身体中汗だくだった。

 外を見ると空はうっすらと白み始めている。

 べたつく身体をノロノロと動かして熱いシャワーを浴びる。

 濡れた身体をそのままに、湿ったベッドに再び倒れ込んだ。

「あいつ…だったよな。」

 思わず口にする。

 さっきまで見ていた夢に出ていた人魚は…アンジェリークそっくりだった。

「今日…あいつと約束してんだよな。どうしろってんだよ。」

 日の曜日のデートの約束。

 こんなんでまともにあいつといられるか自信はねー。

 だけど、だからって約束を反故にすんのも嫌だ。

 湿ったシーツと別れを告げて手早く着替えてアンジェリークの部屋に向かう。

 あいつは森の湖に行きたいと言って、俺を急かすように連れて行った。

「いつ来てもここって綺麗で落ち着きますよね。ゼフェル様。」

 森の湖であいつが笑顔を見せて湖の畔へ近づく。

「おい。あんま近づいて落ちんなよ。おめーはおっちょこちょいなんだからよ。」

「ひどーい。ゼフェル様ったら。大丈夫ですよー。1人じゃないもん。落ちてもゼフェル様が助けてくれるもん。」

「知んねーよ。そこまで面倒見きれっかよ。」

 こいつとの些細な言葉のやりとりは俺に今朝方の夢を忘れさせてくれていた。

 だと言うのに……………。

「きゃ……。」

 ドボン…とあの莫迦は俺が言った通り足を滑らせて湖に落っこちやがった。

「おい…大丈夫かよ。…ったく。だから言ったろ。ほら。掴まれ。…っわっ!」

 手を差し出してやったらアンジェリークは俺の手を握って思いっきり引っ張りやがった。

 そして不覚にも俺までが濡れネズミになってしまった。

「…っめーっ! なに考えてやが……………。」

 怒鳴りかけた俺は濡れたアンジェリークに今朝方の人魚をダブらせる。

「あの…ゼフェル様? 大丈夫ですか? 私…ふざけすぎました?」

 黙り込んだ俺を不審に思ったアンジェリークが水に濡れて冷たくなった手を俺の頬に伸ばす。

 そんなアンジェリークの手を途中で握って俺はアンジェリークを抱きしめていた。

「ゼ…ゼフェル様?」

 夢なのか現実なのか訳が判らなくなった。

 腕の力を緩めて胸の中のアンジェリークを見つめる。

 アンジェリークは緑色の大きな瞳を揺らして…ゆっくりと瞳を閉じた。

 そんな動作に俺は震えるアンジェリークの桜色の唇にゆっくりと口付けた。

「………ゼフェル様。ちゃんと眠れてます?」

「…んだよ。突然。」

 夢と同じ暖かな唇から離れた俺にアンジェリークが真っ赤になって尋ねる。

「あの…怒らないでくださいね。私ね。この飛空都市に来た頃、同じ夢ばかり見てたんです。ゼフェル様がね。知らない男の人に酷く責められて地面から出てきた沢山の手に連れて行かれちゃう夢。行っちゃ嫌って叫んでもゼフェル様には聞こえないの。」

「おめ…それ……………。」

 思わず絶句した。

 俺は夢については何一つ話したことがねー。

 なのにこいつは俺の夢に感応したんだろうか?

「気になってね。オリヴィエ様に相談したの。夢の中で困ってる人を助ける方法無いですか? って。そしたら、その人の夢の中にあんたが出てあげなって。」

 アンジェリークの言葉に俺は今朝方の夢に納得した。

「今日が…初めてだったな。」

「えっ?」

「………おめーが出てきた夢が…さ。」

「ゼフェル様……………。」

 泣き出しそうな顔のアンジェリークの唇をもう一度塞ぐ。

 そのまま俺達はトプン…と湖に沈んでいった。


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