かたつむり
「こんな所にいたんだ。大騒ぎになってるのよ。ゼフェルいないから。」
「よぉ。……だからって何もおめーまで来ることねーだろ。汚れっぞ。」
細かい霧雨が煙るように降りしきる中、中庭で傘もささずに佇んでいたゼフェルに声をかけた私に、振り返ったゼフェルが不快そうに赤い瞳を細めて呟く。
「良いの。どーせ濡れついでだもん。」
「……悪りぃ。おめーにまで探させちまって。」
言葉とは裏腹になるべく泥はねをしないようにゆっくりとゼフェルの隣に近づいた私に、グレーの上着を脱いだゼフェルが私の着ている真っ白なドレスの上にかけてくれる。
「それでも何もしねーよりはましだろ。これでも羽織っとけ。」
「ん。ありがと。………何してたの?」
「久々に懐かしいモン見てた。」
そう言ってゼフェルが指さすのは目の前の大きな紫陽花の葉っぱ。
その葉っぱの上には一匹のかたつむりがゆっくりと歩いていた。
「わぁ。かたつむりだ。珍しいね。」
「あぁ。最近、見なくなったよな。」
感心したような私の言葉にゼフェルがもう一度視線をかたつむりに戻す。
私はそんなゼフェルの横顔を見ていて、ゼフェルと初めて言葉を交わした時のことを思い出していた。
「おめー。こんな所で何やってんだ?」
ピンクのレインコートに赤い傘をさして地面に座り込んでいた私に声をかけたのは同じ幼稚園に通うゼフェルだった。
違うクラスだから今までお話ししたことは無かったし、違うクラスだけどゼフェルが乱暴者なのは私のクラスでも評判だった。
だから最初、声をかけられた時は怖かった。
「何やってんだ? って聞いてっだろ。聞こえねーの……あっ! かたつむりだ!」
私の足下の地面をゆっくりと進んでいくかたつむりを見つけられて、ゼフェルに踏みつぶされちゃうんじゃないかと思った。
「へぇ〜。すっげーでかいな。どっから出てきたんだろう。」
だけど私の想像は外れて、ゼフェルは嬉しそうに私の隣にしゃがみ込んだ。
「……おめー。もしかして今までこいつを見てたのか?」
「うん。だってこのままじゃ誰かに踏まれちゃうモン。折角、あっちの葉っぱから向こうに行こうとしてるのに。」
傘をささず帽子を被っただけのゼフェルに目をまん丸にされて初めて言葉を交わした。
「だったら向こうに連れて行ってやれば良いじゃねーかよ。」
「だって……………。」
ゼフェルの言葉に私は黙り込んでしまった。
「……あ。おめー。かたつむり、触れねーんだろ。」
「うん。」
呆れたようなゼフェルの言葉に素直に頷く。
「しょうがねーな。…っと。」
「あ。」
頷いたまま足下のかたつむりをじっと見ていた私の視界にゼフェルの浅黒い腕が伸びる。
ひょいっとつまみ上げられたかたつむりが身体を殻の中に縮めた。
「おめーはちょっとの間ここにいろ。」
帽子を取ったゼフェルがそう言ってかたつむりを帽子の上に乗せる。
しばらくして殻の中に縮まっていたかたつむりがゼフェルの帽子の上で角を出す。
「…っし。行こうぜ。」
帽子の上にかたつむりがくっついたのを確認してからもう一度帽子を被ったゼフェルがパッと私の手を握る。
「ど…何処に行くの?」
「こいつは向こうに行こうとしてたんだろ。向こうの公園に紫陽花の咲いてるトコがあるんだ。そこならこいつの仲間もいるぜ。きっとな。」
本当に嬉しそうな笑顔を見せてゼフェルが私を立ち上がらせて公園へと歩き出す。
ポツポツと降る雨の中、帽子の上にちょこんと乗ったかたつむりが嬉しそうに揺れていた。
『そう言えばあの時決めたんだっけ。』
「…んだよ。なに思い出し笑いなんかしてんだよ。」
クスッと漏らした含み笑いを聞き咎めたゼフェルが私の顔を覗き込む。
「何でもない。ね。ゼフェル。そろそろ行こ。」
「…だな。いい加減にしねーと神父が角だしかねねーもんな。」
言いながらもゼフェルはなかなか動こうとしない。
「なぁ。」
「何?」
「覚えてねーと思うけどよ。ガキの頃、かたつむりが踏まれちゃ可哀想だって地面にしゃがみ込んでたおめーを見た時よ。こんなトロくせー奴は俺がずっと面倒見てやんなきゃって思ったんだ。ずっと…な。」
「ゼフェル……………。」
真剣な顔で私を見つめるゼフェルに身体中が熱くなる。
スローモーションみたいに近づくゼフェルに私はかたつむりみたいにゆっくりと瞳を閉じた。
プロポーズの言葉は『俺達、一緒になんねー。』だった。
うんって頷いて…何も結婚式当日にもう一度プロポーズする事ないのにね。
「…んで笑うんだよ。」
不貞腐れちゃったゼフェルに私はそっと耳打ちをした。
「あのね。私…昔。雨の中、帽子を被って傘も差さないで歩いてた男の子に恋をしたの。」
「…んだとぉ? そいつ…誰なんだよ。」
目をつり上げるゼフェルを余所に私は踵を返して建物の中へと戻った。
「おい。アンジェ!」
「後で教えてあげる。」
慌てて私の後を追いかけてくるゼフェルに私は今の私が出来る最高の笑顔を見せて振り返った。
「後…だな。今夜、覚悟してろよ。どんな手、使ってでも白状させてやるからな。」
ようやく私達を見つけた式場の係りの人達に連れられていくゼフェルが吠えるように怒鳴る。
「どんな手って……………。」
ゼフェルの言葉を口の中で繰り返して私は冷や汗を流した。
『お式の最中に白状しちゃった方が良いかな? ゼフェル…意地悪だから。』
羽織っていたゼフェルのグレーのタキシードを係りの人に渡してクスリと笑う。
『自分の事なのにね。教えてあげなきゃ。あの雨の日。帽子の上にちょこんとかたつむりを乗せて私の手を引いて歩くゼフェルのお嫁さんになろうって決めたのよって。』