桜の木の下で
むかーしむかし。
春になると一面がそれはそれは見事なピンク色に染まるお山があったそうな。
ふもとの村の者達から『桜山』と呼ばれ親しまれていたその山に、いつの頃からか一匹の鬼が住み着いてしもうた。
村の者達は鬼の悪さを恐れ、年頃の娘をお山に登らせ悪さをしないように頼ませたのじゃった。
何人もの娘がお山に登ったが、誰1人として村には帰って来んかった。
そうしていつしかその山は『鬼の住む山』として恐れられるようになってしもうたのじゃった。
ふもとの村にはアンジェリークと言う、誰からも愛されるとても好奇心の旺盛な明るい女の子がおった。
「ルヴァ様。ルヴァ様。お山からこんなものが降ってきたの。」
ある日、アンジェリークは村一番の物知りのルヴァにその小さな手のひらに握っていたピンク色の花びらを、緑色の大きな瞳をキラキラと輝かせながら見せに来たのじゃった。
「おや。アンジェリークはこれが何なのか知らないんですか?」
「うん。知らない。ルヴァ様。これなぁに?」
アンジェリークはルヴァの問いかけに素直に頭を垂れて尋ねたのじゃった。
「こちらにいらっしゃい。」
ルヴァはそう言ってアンジェリークの小さな手を握ると鬼の住む山の入り口に連れていったそうな。
「ほら。この階段の上の方。ピンク色に見えるでしょう。桜と言う木の花びらなんですよ。それは。私のおじいさんのそのまたおじいさんがアンジェリークくらいの頃にはお山に登ってもっと近くで見ることが出来たらしいんですけどねぇ。今はここから見上げるのが精一杯なんですよ。」
「どうしてお山に登らないの? アンジェ。登りたいな。もっと近くで見てみたい。」
「おやおや。アンジェリークはとと様やかか様からお山の鬼の話を聞いたことが無いんですか?」
「うん。」
「そうですか。この山には恐ろしい鬼が住んでるんですよ。だから登れないんです。」
「鬼? どんな鬼なの? 怖い?」
「聞いた話ではお侍の持つ刀のように輝く髪の毛をして血のように赤い目をした鬼だそうです。お山に入った者達は皆、鬼に食べられてしまったんですよ。だからアンジェリークもお山には登らないようにしないといけませんよー。」
「食べられちゃうの? ルヴァ様。うん。判った。アンジェ。登らない。」
「いい子ですね。アンジェリークは。」
ルヴァは真剣な顔で何度も何度も頷くアンジェリークの頭を撫でて自分の家へと戻っていったそうじゃ。
そんなルヴァの後ろ姿を見ていたアンジェリークは、ヒュウ〜と後ろから桜の花びらを運ぶ風に好奇心を抑えきれず、鬼のお山に入っていってしもうたのじゃった。
「わぁ。すごーい。きれーい。」
階段を登りきった先には想像以上に美しい光景が広がっておった。
アンジェリークは降り積もる花びらをかき集めその中に飛び込み、埋もれ、いつしか遊び疲れて眠ってしもうたのじゃった。
目が覚めた時にはとうの昔に日は暮れて、闇の中で梟が鳴いておった。
「真っ暗……。とと様ぁ。かか様ぁ。………きゃんっ! ふ…ふぇ〜ん。」
アンジェリークは夜の闇の恐ろしさに半ベソをかきながら走り出し、張り出した木の根につまずいて大泣きを始めてしもうた。
履いていた草鞋の鼻緒は切れてしもうたし、膝小僧からは血が滲んでおった。
「痛いよぉ。怖いよぉ。お腹すいたよぉ。とと様ぁ。かか様ぁ。」
「…っせーな。誰だよ。」
誰もいないと思っていた社の扉がもの凄い勢いで開き、アンジェリークは心臓が止まりそうなほど驚いたのじゃった。
「……ガキじゃねーか。おめー…こんな所で何してんだ。この山には登るなって親に言われてねーのか?」
ゆっくりと社の階段を降りてくる人影はアンジェリークの目の前で徐々にその姿をはっきりさせていったのじゃった。
年の頃はアンジェリークよりずっと上の17・8くらいの若者じゃろう。
しかし…その若者は侍の刀のように輝く髪と血のように赤い目をしておった。
「………ふぇ〜ん。とと様ぁ。かか様ぁ。鬼に食べられちゃうよぉ〜。」
ルヴァに聞かされた鬼の姿を確認した途端、アンジェリークは火がついたように本格的に泣き出したのじゃった。
「泣くなっ!」
「ふぇ〜ん。」
「泣くんじゃねえっ!」
「えーんえーん。」
「だーっ! いい加減に泣き止まねーと、とって食っちまうぞっ!」
鬼の叫ぶような言葉にアンジェリークはピタリと泣くのを止めよった。
「…ったく。現金なガキだぜ。おら。いつまでも、んなトコに座ってねーでさっさと帰れ。」
「……あんよが痛いの。」
「あぁ? ………ちっ。」
アンジェリークの言葉に鬼は血の滲んでいるアンジェリークの膝小僧に初めて気がついて舌打ちをしたのじゃった。
そこらに転がっていた鼻緒の切れた草鞋を拾い上げると鬼は自分が着ておった着物の袖を口で裂いたのじゃった。
鬼の口の中は綺麗な白い歯が並んでいるだけで牙は1本も見えんかった。
手早く鼻緒をすげ替え膝小僧に着物の袖を巻き付けた鬼はアンジェリークをヒョイっと肩に担いだのじゃった。
「や…嫌ぁ〜。アンジェ食べてもおいしくないよぉ〜。」
「…ったく。食わねーよ。下まで連れてってやるから暴れんなっ!」
ジタバタと足をばたつかせていたアンジェリークは鬼の言葉に素直に従い、鬼はアンジェリークを担いだままゆっくりと歩き出したのじゃった。
「………お兄ちゃんがお山の鬼なの?」
「……………。」
アンジェリークの言葉に鬼はピタリと足を止めよった。
「違う…の?」
「……おめーはどう思うんだ?」
「判んない。お兄ちゃんはルヴァ様が言ってた鬼そっくりだけど優しいモン。鬼ってね。牙があって角もあって恐いんだよ。お兄ちゃん。牙も無かったし角も無いもん。」
アンジェリークはそう言って鬼の頭を撫でたのじゃった。
「変わったガキだな。おめーは。」
鬼は自分の頭を撫でる小さなアンジェリークにクッと喉を鳴らして笑った。
そんな鬼の笑顔に幼いアンジェリークの心に暖かい想いが生まれたのじゃった。
「アンジェリーク〜。」
「かか様の声だ。」
下の方から聞こえた母親の声にアンジェリークがピクンと反応しよった。
「この辺からなら1人でも行けるな。もう山に入るんじゃねーぞ。それと…村の奴等に、もう女を寄こすなっつっとけ。良いな。ガキ。」
「ガキじゃないモン。アンジェリークだもん。」
自分を降ろして山を登っていく鬼にアンジェリークは怒ったように言いよった。
鬼は振り返りもせずに手をヒラヒラさせて暗闇の中に消えていったそうじゃ。
数年後、年頃になったアンジェリークは鬼の山に登る役目を自ら進んで志願したのじゃった。
「それじゃあ…ルヴァ様。おとうさん。おかあさん。行って来ます。」
白無垢の花嫁衣装を身につけたアンジェリークは盛りを終えた桜並木の下をゆっくりと登っていったそうじゃ。
『覚えてる。ここの事………。』
社についたアンジェリークは幼い頃の事を思い出しておった。
あの後、何度も何度も鬼は怖くないと大人達に言い続けたが、1人も信じる者はおらんかった。
『あの時の…お兄ちゃんなら怖くないから大丈夫。』
幼児の頃の暖かい想いはいつの頃からか恋心へと代わっておった。
明らかに生活の匂いのする社の中に入ったアンジェリークは囲炉裏の側に座り、静かにこの社の主が帰ってくるのを待っていたのじゃった。
「……………。…ったく。またかよ。いらねーっつったのによ。」
夜になり社に戻ってきた鬼は囲炉裏の側に座る花嫁に舌打ちをしたのじゃった。
「ちょっと来いっ!」
「きゃっ…。」
ぐいっと鬼に手首を取られたアンジェリークは引っ張られるように外へと連れ出されてしもうた。
「見て見ろ。」
鬼の長い指が示す先には華やかな大きな明かりが見えた。
「反対側の…小せぇ明かりがおめーの村だ。そして…あのでっけー明かりは都の明かりだ。」
「都?」
「そうだ。どっちでも…おめーの好きな方に行けば良い。」
鬼はそう言ってアンジェリークを残して社の中へと戻って行ってしもうた。
ポツリポツリとしか見えない小さな明かりとキラキラと輝く大きな明かりを見比べていたアンジェリークは、今まで山に登った娘達が誰1人として村に戻らなかった訳を理解したのじゃった。
「…んだ。おめー。何で入ってくんだよ。」
社に戻ったアンジェリークに初めて出会った時と全く変わらない鬼が赤い瞳を不快そうに細めて言ったのじゃった。
「夜の山の中を歩くのは危ないから………。」
「変わった女だな。おめーは。俺が怖くねーのか?」
「えぇ。怖くないです。鬼さん…覚えてませんか? 私のこと………。」
にっこり微笑んで尋ねるアンジェリークに鬼は驚いたようにその赤い瞳をまん丸にしたのじゃった。
「いつつくらいの頃…お山に登って転んで膝を擦りむいて……。」
「………大泣きしてた現金なガキ…か? おめーが? あん時の? ………でっかくなりやがって。」
ふっと細められた赤い瞳の優しい色にアンジェリークの心臓はドキリと跳ね上がった。
「鬼さんは…全然変わりませんね。」
「俺は人じゃねーからな。……どうする。村に戻るなら入り口まで連れて行ってやる。それとも………。」
「ここにいちゃ…駄目…ですか?」
「……………。」
アンジェリークの言葉に鬼の赤い目がまたまん丸になった。
「鬼さんの…所にいちゃ駄目ですか?」
「駄目だ。」
にべもなく言いきる鬼にアンジェリークは瞳に哀しそうな色を浮かべたのじゃった。
「どんなに頑張ってもおめーが俺といられるのは50年足らずだ。だったら…端っから1人の方がずっと良い。」
『あ……………。』
しかし自分以上に寂しい哀しみの色をその赤い瞳に映す鬼にアンジェリークは何も言えんかった。
重い沈黙がアンジェリークと鬼を包んでおった。
「私…私が人じゃない者になる方法があればいいのに……。そしたら鬼さんと………。」
「ゼフェルだ。」
「えっ?」
「俺の名前。ゼフェルだ。」
「ゼフェル。……ゼフェルとずっと一緒にいられる方法ってないのかなぁ?」
「ねー訳じゃねー。」
プイッと横を向いて憮然とした表情で呟くゼフェルの次の言葉をアンジェリークはじっと待っておった。
横を向いたままのゼフェルの頬は赤く染まっているように見えたのじゃった。
「教えて。ゼフェル。どうすれば良いの?」
「………満月の夜。満開の桜の木の下で俺と契ることだ。」
『満月の夜…桜の木の下で…ゼフェルと…ちぎ…る……………。』
ボンッと爆発しそうな勢いでアンジェリークの全身の血液が逆流したんじゃろう。
真っ白な白無垢がほんのり桜色に見えるほどアンジェリークは顔を赤くしよった。
そうして次の年の満月の夜。
満開の桜の木の下で2人は結ばれたのじゃった。
いつしか『鬼の住む山』は再び『桜山』と呼ばれるようになり、ふもとの村の者達に親しまれるようになったのじゃった。
めでたしめでたし。