毎朝会う訳


 鳥たちが鳴き始め徐々に明るくなっていく外の世界に、一晩中パソコンのキーボードを叩いていたゼフェルが大きく伸びをする。

『そろそろだな。』

 壁に掛けてある時計の時刻を確認してパソの電源をOFFにすると、ゼフェルはガタンと椅子から立ち上がりシャワールームへと向かった。

 眠気を振り払うかのように熱いシャワーを頭から浴びると、水滴を滴らせたまま手早く着替えを済ませて近くの公園へと走り出す。

「おはようございます。」

「おう。」

 たったこれだけ。

 小さな犬を連れた同い年らしい少女とお互い一言ずつ声を掛け合うだけのためにゼフェルはらしくもない『毎朝ジョギングしている少年』を演じているのだった。

『莫迦じゃねーかな。俺。』

 眠い身体を引きずるようにして家に戻るといつもそう思う。

 しかし一晩中起きていてどんなに眠くて仕方のない状態になっても、彼女が犬を散歩させているだろう時刻になるとゼフェルの眠気は何処かに吹き飛んでしまう。

『俺…きっとどっかがいかれちまったんだな。』

 ベッドに倒れ込んで遠のいていく意識の中でゼフェルがそんな事を思う。

 随分と前、初めて彼女と出会った時のことを思い出しながらゼフェルは夢の中へと沈んでいった。



 それは友達とさんざん遊び回って朝帰りになってしまった日のことだった。

 朝もやの中、ゼフェルの前方から犬をつれて歩いてきたのが彼女だった。

 今まで見たことのない顔だった。

 多分、ゼフェルの家の先にある新興住宅地に越してきた新しい住人だろう。

 もの珍しそうにキョロキョロと緑色の瞳を輝かせて朝もやの中をゆっくりと歩いていた。

「あ。おはようございます。」

 ふと、目が合って彼女がゼフェルに笑顔で挨拶する。

「……お…おう。」

 驚いたゼフェルは戸惑ったようにそう返すのが精一杯だった。

 それでも彼女はにっこりと微笑んで歩いてくる。

 すれ違いざまに吹いた風が彼女の金色の髪を揺らしてゼフェルの鼻に甘い香りを届ける。

 ゼフェルは朝もやの中に消えていく彼女の振り返ることのない後ろ姿をずっと見つめていたのだった。

 それから毎日、ゼフェルは家の前を通る彼女を二階の窓から見ていた。

 犬の名前がペスだと言うことはそんな中で知ることが出来た。

 でも彼女の名前も住んでいる家も判らない。

 胸の中のもやもやとしたものを抱えながら再び朝帰りとなった日、ゼフェルは彼女ともう一度言葉を交わすことが出来たのだった。

「おはようございます。ジョギング中に会うの久しぶりですね。」

「………おう。」

 彼女のそんな何気ない無邪気な一言から『偽ジョギング少年』は誕生したのだった。



 いつものようにゼフェルが髪の毛から水滴を滴らせながら『偽ジョギング少年』を演じている時だった。

 前方から犬のもの凄い唸り声が聞こえた。

『……んだ?』

 訝しんだゼフェルが心なしか足を早めて先へ進み、目の前の光景に足を止める。

 放し飼いされていた犬が彼女に…正確には彼女が足下で庇っているペスに襲いかかろうと牙を剥いていたのだった。

 犬は苦手だった。

 だけど全身の血が逆流する感覚に襲われたゼフェルはダッシュで走っていって牙を剥く犬の腹を思いっきり蹴り上げたのだった。

 キャンキャンと悲鳴のような鳴き声で犬は逃げていった。

「大丈夫だ……。」

「怖かったよぉ〜。」

 声をかけようとしたゼフェルに涙声の彼女が突然抱きつく。

「お…おいっ!」

 焦るゼフェルの服を握りしめて彼女はひっくひっくとしゃくり上げていた。

 胸の中で泣きじゃくる彼女をどうしたら良いのか判らなくてゼフェルは彼女をギュッ! と抱きしめた。

『…っと。こんな時間で良かったぜ。』

 人通りの全くない朝の早い時間にゼフェルが感謝する。

 こんな…泣いている女を抱きしめている所など、誰かに見られたら何を言われるか判ったものではなかった。

 くぅーん…と彼女の足下でペスが心配そうに彼女を見上げる。

 そんな愛犬の鳴き声でようやく彼女も落ち着いたらしい。

 ゆっくりとゼフェルから離れる動きを見せたので、ゼフェルも彼女を抱きしめていた腕の力を緩めた。

「ごめんなさい。驚かせちゃって………。」

 涙を溜めたままの緑の瞳が申し訳なさそうに下を見る。

 ゼフェルは首にかけていたタオルをそんな彼女の頭に被せるように投げてよこした。

「そんなに汚れてねーから使えよ。そのぐしゃぐしゃなツラどうにかしちまえ。」

「ありが…と………。」

 彼女はゼフェルに言われた通り、タオルで顔を拭った。

「あの…私、アンジェリークって言うの。名前…教えてくれる?」

「……………ゼフェルだ。」

 くしゃくしゃに丸めたタオルで口元を押さえていた彼女が未だに潤んでいる瞳だけを見せてゼフェルに尋ねる。

『アンジェリーク。』

 ゼフェルは彼女の名前を胸に刻み込みながら自分の名前を口にしていた。

「ゼフェル……。ゼフェルがジョギングしていて良かった。そうじゃなかったらどうなってたか判らないもの。明日の朝も…また会える?」

「………あぁ。」

「良かった。それじゃあゼフェル。また明日ね。今日は本当にありがとう。これ…明日返すね。」

 アンジェリークはゼフェルの名前を口の中で繰り返し、笑みを浮かべてタオルを持ったまま背中を見せた。

 ゼフェルの『偽ジョギング少年』は、まだ当分の間、続く事となりそうだった。


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