甘い誘惑


「こんにちは〜。ゼフェルいる〜?」

 転がるような軽い声を響かせて、畏れ多くも新宇宙の女王陛下たるアンジェリークが、部下である鋼の守護聖…つまりは俺の部屋にやってくる。

「また、いらっしゃったんですか? へ・い・か。」

「良いじゃない。何回来たって。それよりいつも言ってるけど、変な風に区切らないで名前で呼んでくれない? ゼフェル、すっごく無理してるでしょ。喋り方。」

 嫌みったらしくわざと区切って尊称を呼んでやったら、プッと膨れたアンジェリークがそう言って俺に近づいてくる。

「…っ方ねー…ないですね。ルヴァの奴がうっせー…うるさいんですよ。陛下に対して乱暴な言葉遣いは好ましくありませんよーとか何とか言って。」

 慣れねー言葉につっかえつっかえ話す俺を、アンジェリークは面白そうに見つめる。

「うふふ。何度聞いても面白ーい。でも、ホントに良いのよ。言われる本人が良いって言ってるんだから、普通に喋ってよ。そうじゃないと、何だかゼフェルのトコに来た気がしないもの。ね。ゼフェル。どうせ二人っきりなんだからさ。」

 そう言って首をコトリと傾げた途端、俺の鼻腔を甘ったるいニオイが通過していく。

 アンジェリークが入ってきた当初から匂っていた、甘ったるいニオイが。

「………おめー。今日は何を持ってきてんだよ?」

 鼻をクンクンとさせながらアンジェリークの奴を睨み付ける。

 女王に就任したばっかのアンジェリークはここ最近、暇を見つけちゃー俺の部屋に転がり込むようになっていた。

 しかも毎回毎回、思わず眉間に皺を寄せたくなるようなニオイをさせて………。

 ちょっと前はオリヴィエから貰ったとか言って、色んな香水を取っ替え引っ替え日替わりで付けて来てた。

『臭せぇから付けて来んな!』

 窓を全開してても耐えられない香水のニオイにそう怒鳴ったら、今度はケーキやらクッキー何かの甘めぇモンのニオイを持って来やがる。

 お陰で俺の部屋の窓は、万年全開状態だった。

「あ。気が付いてたの? ホントにゼフェル、鼻が良いわよね。ほら。じゃ〜ん。厨房でね。ホットケーキ焼いてきたの。」

「女王陛下は食うモン、食ってねーのか?」

 パッと見ただけでも八段はある、シロップのたっぷりかけられたホットケーキに呆れながら呟く。

「そんなこと無いわよ。女王のお食事ってね。ホントに上品で美味しいものばかりなんだから。だけどね。毎日そればっかりじゃ飽きちゃうでしょ。それにね。ホットケーキみたいなのって、全然出てこないの。食べたくなったら自分で作るしかないでしょ。」

「よーするに、女王陛下は一般庶民の食いモンが食いてーって事だな。………どうでも良いけどよ。おめー、またここで食う気なのか? 自分の部屋に戻るか、どっか別のトコ行って食えよ。」

 目の前の机の上にホットケーキの皿を置き、ガタガタとそこらから椅子を引っ張ってくるアンジェリークに悪態をつく。

 この女はどうあっても、俺の目の前でこの甘ったるそうなホットケーキを食う気でいるらしい。

「良いじゃない。何処で食べたって。」

「甘ったりぃニオイで気持ち悪くなんだよ。」

 部屋中に充満する甘ったりぃニオイで、胸の辺りがムカムカしてくる。

「ホント。ゼフェルって匂いにうるさいわよね。この間付けて来た香水は嫌いだって言うし、お菓子の甘い匂いは胸焼けがするって言うし………。何か好きな匂いって無いの? あ、先に言っとくけど、機械油の臭いみたいに変な臭いはペケよ。良い匂いでね。」

 喋りながらあっという間に三段分のホットケーキを平らげたアンジェリークの言葉に、俺は思わず考え込んだ。

『好きな匂い…か………。』

 気にしたことも無かった。

 しいて上げれば女王候補だった頃のこいつの、金色の髪の毛から立ち上るシャボンの香り。

 女王試験の最中にはしょっちゅう後ろから抱きついて、その香りを堪能してた。

「石鹸の匂い…かな。微かに匂う程度で…だけどな。」

 もう二度と嗅ぐことの許されないあの香り。

 同じ香りには絶対出会うことはないだろう、封印された匂い。

「石鹸? フローラル系の匂いとかミント系の匂いとか色々あるけど?」

「んなの気にしねーよ。とにかく匂ってんだか匂ってねーんだか判んねーぐらいが良いと思うぜ。俺はな。」

「ふ〜ん。そうなんだ。」

 俺の言葉に頷いていたアンジェリークがもう三段分を平らげた所で、女王を捜していた女王補佐官のロザリアに引きずられるように執務室に連れ戻されていく。

 残り二段のホットケーキが載ったままの皿をしっかりとキープしたままの姿で………。

「ゼ・フェ・ルっ。」

 それからしばらくして、あいつがまたまた俺の部屋にやってきた。

「おめーなぁ………。またロザリアに怒られっぞ。」

「あ、今度は大丈夫よ。ちゃんと、ゼフェルの部屋にいるから何かあったら呼んでね…って、メモ置いて来たから。それより風が強いから窓閉めて良い? 今日は何も持ってきて無いから平気でしょ?」

 確かに今日は、どぎつい人工的な香水のニオイも、甘ったりぃ菓子のニオイもしねー。

 強い風に髪の毛を押さえながら窓を閉めるアンジェリークに、俺も全開になったままだった窓を閉める。

 だけど……………。

 閉め切った部屋の中にいると、何かの香りがフワリフワリと俺の鼻腔をくすぐる。

 香りを感じるたびに辺りを見渡すのだが、アンジェリークが目の前でフラフラしているだけ。

「なぁ。何か匂わねぇ?」

「え〜。私には判らないけど?」

 尋ねてもあいつは何の事だか判らないと言った顔をして見せるだけ。

 仕方なく俺は目を閉じて、全神経を嗅覚に集中させた。

 確かに香る匂いがある。

 不快な匂いではない。

 俺はその匂いの元に向かい、目を閉じたまま歩き出した。

 徐々に近づきつつあった筈の匂いが、直前でスルリと離れていく。

 再度、近づく。

 再びスルリと逃げられる。

 何度かそれを繰り返した後、業を煮やして目を開けた俺の視界には、俺から離れていくアンジェリークの姿。

 匂いの元はアンジェリークだった。

「………おいっ! 目隠し鬼をしてんじゃねーんだ。ちったぁじっとしてろっ!」

「きゃっ………。」

 壁沿いに逃げるアンジェリークを挟み込むように捕まえて、俺はもう一度目を閉じて嗅覚に意識を集中させた。

 確かに目の前から漂ってくる匂い。

 空気の流れで香りが霧散しないように、ゆっくりと香りの元に近づく。

 行き当たったのは………。

 顔に触れる懐かしいふわふわした感触に目を開くと、金色の波が目の前に広がる。

「おめーなぁ……………。」

 やっちゃなんねー事をしちまったと思っている俺に、アンジェリークの奴が悪戯が見つかった子供のようにペロリと赤い舌を出してみせる。

 諦めとも呆れともつかない溜息を吐く俺を、アンジェリークが真っ直ぐに見上げてくる。

 緑色のでっけー目が、ユラユラと揺れていた。

 ユラユラ揺れる瞳を見ている内に、知らず知らずにアンジェリークに口付けていた。

 ゆっくりと唇を離すと、満足げな女王の顔が俺の目の前にあった。

「…っ迦野郎。俺を誘ってるつもりなら、もっとストレートにしやがれっ!」

 怪しく揺れる緑色の瞳に誘われて再び口付ける。

 甘い誘惑の罠に、すっかり溺れてしまった。

 逃れる気は、さらさら無ぇけどな。


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