死別
「あ……………。」
「どうした?」
ドライブの真っ最中。
助手席の窓から外を眺めていた私の小さな呟きを、運転席のゼフェルが聞き咎めて聞いてくる。
「何かあったのか?」
「あ…ううん。大したことじゃないの。犬を散歩させてた人がいたでしょう? その人の連れてた犬がね。小さい頃、前の家の人が飼ってた犬に似てたから、つい………。」
ハンドルを握ったままのゼフェルに呟く。
懐かしくて悲しい記憶。
「大人しくてね。滅多に吠えない良い子だったの。ホントは真っ白でフワフワの毛なんだけど、その家の人達。忙しくてあんまり構ってあげなくて………。私が散歩に連れて行ったりしてたんだ。」
「あんま飼い主にゃ向いてねーな。その家の奴等。」
「うん。私のお父さんやお母さんもそう言ってた。だけど私達があんまり構い過ぎても、そこの家の人達にしたら面白くないだろうからって、散歩に連れて行くのは控えなさいって言われた。」
「犬にしてみりゃ、気の毒な話だな。」
そう呟いてゼフェルがハンドルを回す。
「うん。ホントに可哀想なことをしちゃった。私の姿を見るとね、散歩に連れて行って貰えるって覚えちゃったみたいでね。しっぽを振って甘えた声で鳴くの。ゴメンねって、いっつも謝って家に帰ってた。」
「辛かったろ。おめぇ、動物好きだからな。」
優しいゼフェルの言葉に、あの時のことを思いだして少し胸が痛む。
「その内、姿が見えなくなっちゃってね。そこの家の人に聞いたら、死期が来たみたいだから山に放してきたって。犬は自分の死んだ姿を見られたくないから、首輪を外したら山に入っていったって。お父さんはオオカミに近い犬ならともかく、あの犬はそんなこと無いんじゃないかって不思議がってた。」
「処分に困って捨てたんだな。きっと。」
前を見たままのゼフェルの眉が不快そうに歪む。
二人っきりでのドライブの時に相応しい会話じゃないとは思ったけど、ここで止めてもゼフェルが続きを促すのは判ってる。
だから終わりまで話そうと思った。
あの子の最後の一言も隠さずに………。
「山に放したって言うのはホントだったみたいなの。だってね。何日かしてボロボロになったその子が私の家の前にいたから。お父さんとお母さんと三人で家の中に運んでね。その子…私の手をペロッて舐めて、そのまま眠るみたいに死んでいったの。」
あの時のことを思いだすと涙が溢れる。
私はゼフェルに気付かれないように、ハンカチでそっと涙を拭った。
「………おめぇにさよならを言いに来たんだな。」
「うん。お父さんにもそう言われた。それにね。手を舐められた時、私、確かに聞いたの。あの子の声を。今までありがとう…って。」
終わりまで全部話して、深く息を吐く。
ゼフェルは黙ったまま、何も言わない。
「………笑わないの?」
「? 何でだよ。」
真っ直ぐ前を見たままずっと黙っているゼフェルに尋ねる。
ちょうど信号待ちをしていたので、ゼフェルは意外そうな顔を私に向けてきた。
「だって………。いつものゼフェルならとっくに笑ってる。犬がしゃべる訳ねーだろとかって。」
「笑わねーよ。」
信号が青に変わって、ゼフェルがアクセルを踏む。
ぐんっ…と車の加速で、身体がシートに押しつけられた。
「笑わねーよ。俺も似たような経験、してっから。」
そう言うゼフェルの横顔を、私はじっと見つめ続けた。
続きを促すように………。
「昔…金茶の猫を飼ってたんだ。すげー頭の良い奴でよ。迷子になりゃ捜しに来るし、喧嘩をしてりゃ助っ人に来るしで………。俺のことを自分の子供だと思ってたんじゃねーかな。あいつ。」
初めて聞くゼフェルの思い出話を一言でも聞き漏らさないように、私は息すらも潜めて聞き入った。
「すげー長生きだったけど、寿命にゃ勝てねーよな。俺の腕の中で身体中の力が抜けてって、鉛みてーに重くなってったよ。その直前にあの野郎。こう言いやがった。お前の幸せをいつまでも祈ってるよ。…ってな。確かに聞いた。だから…おめぇを笑ったりしねーよ。」
口の端をホンの少しだけ上げて、優しい瞳で話すゼフェルの声がくぐもる。
私があの子の事を思いだすと涙が溢れてくるように、ゼフェルにとってもネコちゃんとの思い出は忘れられない大切なものなんだと判る。
先に逝かれてしまった者だけが共有できる哀しい心。
「………ゼフェル。私より先に逝っちゃわないでね。」
「ばっ…なに、縁起でもねーこと、言ってやがる。」
ポツリと呟く私の頭を、ゼフェルの左手が軽く小突く。
キッ…と軽くブレーキの音がして、目の前には真っ青な空と真っ青な海が広がった。
「……………綺麗だね。」
「あぁ。天気が良いから、尚更綺麗だな。」
二人して、キラキラ光る水面を見つめ続ける。
黙ったまま……………。
「……………あのな。」
長い沈黙を破るように呟いたゼフェルを、私はゆっくりと顔を向けて見つめた。
「俺とおめぇはよ。二人同時に逝っちまうから、安心しろよ。」
ゼフェルのそんな言葉に私は目を丸くした。
二人一緒って………。
それって…どういうこと?
「だってそうだろ? おめぇみてーにうっせー奴。残してったら後でなに言われるか判んねーしよ。それにな。おめぇ…俺を置いてく気か?」
「………うん。そうだね。」
置いてきぼりにされた子供のような目をしたゼフェルの言葉に、私は丸くなっていた目を細めてゼフェルの頬に手を伸ばした。
頬に届く寸前の私の手を力強く握りしめたゼフェルが、身体の向きを変えて私を抱きしめてくる。
早鐘のように脈打つゼフェルの心臓の音。
確かに感じる生命の息吹。
「うん。そうだね。ゼフェル。私達。沢山の子供や孫や曾孫に囲まれて、二人仲良くイッチ・ニのサンッ! で天国に逝こうね。」
「あぁ。お互い、置いてきぼりも待ちぼうけも無しだから安心しろ。」
そう笑ってゼフェルが私の唇を塞ぐ。
青空の向こう。
真っ白なワンちゃんと金茶のネコちゃんが、嬉しそうに笑っているような気がした。