忍耐


「ねぇ。ゼフェル。もし私が危ない目に遭いそうになったら助けに来てくれる?」

 図書館の一角で、アンジェリークが小声でそんなことを聞いてくる。

 緑色のでっけー目ん玉をキラキラさせて。

 そんなアンジェリークの手元には、俺には理解できないファンタジー小説。

「…んだよ。それ?」

 開きっぱなしの機械工学書に視線を戻して、目の前に座るアンジェリークに尋ねる。

 想像はつくけど…な。

 どーせ読んだ小説のヒーローが格好いいから…とかってんだろ?

「あのね。この本に出てくる騎士様がすっごく格好いいの。囚われのお姫さまをね。たった一人で助けに行くのよ。素敵でしょ。」

 予想通りの答えに身体中の力が抜ける。

 どうしてこいつは、んなに単純なんだろうか?

「ふーん。」

「……ふーんって何よ。ゼフェル。私を助けに来てくれないの?」

「一声叫べば一キロ先まで届いてんじゃねーかって言われてる超音波の持ち主が、どんな危ねー目に遭うってんだよ?」

 パラリとページをめくりながら呟く。

 ガキの頃から近所でも評判のこいつの声。

 特に叫び声は、拡声器とも超音波とも言われるくらい有名な大声だった。

「どんなって…色々あるじゃない。変な人に何処かに連れて行かれそうになったり、不良の男の子に変なことされそうになったりとか。」

「それこそ、おめーが一声叫びゃすむじゃねーか。大体、おめーが何されるってんだよ?」

「………あぁ。そう。ゼフェルはそう言うのね。」

 からかうような俺の口調がよほど気に入らなかったのか、アンジェリークが怒ったような声を出して乱暴に立ち上がった。

 静かな室内に響き渡るアンジェリークの声。

 周り中から一斉に冷ややかな視線が投げつけられる。

『おめーの声は、デカすぎんだよ。』

「……………落ち着いて座れ。」

 心の中で舌打ちをして呟く。

 本人にしてみれば、普通に喋ったつもりなんだろう。

 だけどただでさえデカイこいつの声は、静かすぎる館内には響きすぎだ。

「知らない。私、帰る。」

「お…おいっ!」

 クルリと踵を返すアンジェリークに、俺は慌てて立ち上がった。

「良いわよ。送ってくれなくても。まだ読んでいたいんでしょ。それにゼフェルは、私がどんな危ない目に遭っても平気なんでしょ。」

 そんな捨て台詞に呆気にとられた俺を残してアンジェリークが去っていく。

 俺達の様子を眉間に皺を寄せて窺っていた周りの奴等が、ただの痴話喧嘩だと察して、面白がっているかのように口の端を上げているのがシャクだった。

『…ったく! 平気な訳ねーだろっ! …っのアホ。』

 心の中で去っていった馬鹿女に罵声を浴びせる。

 俺がどれだけ我慢してるのか、あいつはちっとも判ってねー。

 読みかけの工学書に未練はあるが、へそを曲げたあいつを放っとく訳にもいかず、書庫へ本を戻しに行く。

 だけど俺が好んで読むような本は一般向きじゃないのが殆どで、大抵書庫の一番奥が定位置になっている物ばかりだった。

 お陰で大急ぎで図書館を出ても、アンジェリークの姿は何処にも見えなかった。

 それから俺とアンジェリークは、殆ど顔を合わせなくなってしまった。

 たまに学校でばったり鉢合わせしても、あいつはプッと頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。

 俺とアンジェリークが喧嘩したらしいと言う噂が、瞬く間に学校中に広がった。

 それもそうだろう。

 他の奴等からは、俺達は付き合ってるんだと思われていたからな。

 何せ俺達は幼なじみで、あいつはいっつも俺に引っ付いていた。

 どっちかって言うと取っつきが悪りぃ俺は女子から敬遠されがちなんだが、あいつは廊下の端からでも俺を見つけると、超音波で俺の名前を叫んで走ってくる。

 だからそんな噂がたった。

 俺としては他のヤロー共があいつに近寄らずにすんでるんでありがたいと思い、否定はしなかった。

 あいつも否定はしなかった。

 噂の後も相も変わらず、俺に引っ付いていた。

 要は、そう思われてて構わねぇって事だろ?

 なのに今じゃ俺の姿を見た途端、あいつは別の方向に行ってしまう。

 そんなあいつの露骨な態度に、俺はかなり腹を立てていた。

「あんた。アンジェちゃんと喧嘩してるんなら、早く仲直りしなさいね。」

 家に帰ったら帰ったで、お袋にまでそんなことを言われて尚更腹が立つ。

 大きなお世話だっつーんだよ。

 むしゃくしゃして部屋に戻った俺は、二階の窓から数人の男に囲まれているあいつを見つけた。

 男達はあいつを何処かに連れて行こうとしている。

 最初断っていたあいつの視線が、誰かを捜すかのように俺の家へと向けられる。

 そしてあいつは二階の窓に俺の姿を見つけた途端、男達に誘われるままについていってしまった。

『あのバカ………。』

 はらわたが煮えくりかえり逆流してくるような酸っぱさを胃に感じながら、俺は大慌てで外へ出た。

 外には誰もいない。

 だけど俺には何となくだけどあいつの連れて行かれた方向が判っていた。

 何とか追いついた頃には、まさしくあいつの言ってた危ない目に遭う寸前で、全身の血液までもが逆流してんじゃねーかって感じになった。

『…んで、あいつはこんな時に例の超音波を出さねーんだよ。』

 助けを求めないあいつに深い憤りを感じつつ、大きく息を吸い込む。

「今まで俺が散々我慢してたってのに、勝手に人のモンに手ぇ出すんじゃねーよっ!」

 震えるあいつに近づくヤロー共に一喝して、ぶん殴り合いが始まった。

 そこそこ腕に自信のある俺だったが、いくら何でも多勢に無勢。

 後ろから頭をぶん殴られて体勢を崩した途端、ボコボコに殴られる。

「や…誰…誰かー! 誰か助けてーっ! ゼフェルが…ゼフェルが殺されちゃう〜!」

 ビリビリビリ〜と、周り中のものが振動を起こすような超音波をあいつが発する。

『最初っから、それをやれっ!』

 あまりにもでけぇアンジェリークの声に慣れてる俺ならいざ知らず、慣れてねぇヤロー共は一瞬硬直した後、恐れおののくように逃げていく。

「………ゼフェル! ゼフェル。大丈夫?」

 誰もいなくなって、ようやくアンジェリークが俺の元に駆け寄ってくる。

「………おめぇなぁ。俺は理系なんだぞ。んな体育会系な真似事、させんじゃねーよ。」

 血の味のする唾を吐き出して低く呟く。

 正直、こいつに何事も起きなかったのは良かったが、助け方はあまりにも無様だと思っていた。

「うん。うん。ゴメンね。でもねゼフェル。助けに来てくれて嬉しかったの。それに格好良かったよ〜。」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、アンジェリークが俺にしがみついてくる。

「んなに、泣くんじゃねーよ。それに、あんまくっつくな。………我慢できなくなっだろ。」

「我慢?」

 小声で言ったつもりだが、俺に抱きついてる状態のアンジェリークに聞こえない訳はなく、目ん玉にキラキラと光る涙を残したまま、不思議そうに聞いてくる。

『あぁ。…っそっ。』

「えっ? あ……………。」

 忍耐が限界を超えた俺は、でっけー目ん玉を尚更大きく見開くアンジェリークに口付けた。

「………んで、また泣くんだよ。」

「だってゼフェルが………。」

「しょうがねーだろ。ずっとこうしてぇって思ってたんだからよ。」

「……………莫迦。」

 真っ赤になったアンジェリークが俺の胸に顔を埋める。

 それからしばらくの間、俺には今まで以上の忍耐が必要となってしまった。

 あの時、アンジェリークの超音波に驚いて集まった近所の奴等に事の一部始終を見られ、さんざっぱら冷やかされるハメになってしまったからだった。


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