大人になれば


「フゥッ。」
「なに大げさに溜息なんかついてるんだよ。おまえは。」
 ゼフェルの言葉に私は返事をしない。
 だって不公平だと思うから……。
「こら。どうしたって聞いてるだろ?」
 そう言って私のおでこをピンと指で弾く。
『ずるいよなぁ……。』
 以前ならこんな些細な事でも耳まで赤く染めていたゼフェル。
 なのに今では私に触れた後でも平然と笑っている。
 少し前まで私よりゼフェルの好きの方が強かった。
 なのに今では反対に私の好きがとても強いみたい。
「……何でもない。」
「何でもなくっておまえはこんな顔はしないだろ?」
 背中を向けた私を後ろからすっぽりと抱きしめる。
 頬に置かれた浅黒い手も私を抱きしめる太い腕もすっかり大人に変身してしまったゼフェル。
『殆ど同じ体格だったのに……。』
 聖地で暮らす長い年月は私達二人を確実に子供から大人にしてくれた。
 でも、その速度は私よりゼフェルの方が速いと思う。
「何て顔してんだよ。」
 悔しい位余裕たっぷりの表情でゆっくりと顔を近付ける。
「……なに拗ねてんだ?」
 長いキスの後に尋ねる笑顔が一段とゼフェルの優位性を感じられて私は何も言わない。
 拗ねてる?
 私…拗ねてなんか………。
「……仕方ねーな。なに拗ねてんのか知らねーけど…そんな顔も可愛いぜ。アンジェ。」
 そんな言い方をされるとますます悔しい。
 悔し紛れに後ろから私の首筋に顔を埋めるゼフェルの髪を引っ張った。
「あ…ん……。」
 ちょっと引っ張った位ではびくともしない。
「ゼ…フェ……。」
 身体の底から熱くなってもう何も考えられない。
 私の身体を軽々と抱き上げるゼフェルがちょっと憎らしい。
「続きはベッドで…な。」
 笑った顔があんまり悠然としているから私の方が恥ずかしくなる。
「………莫迦。」
 厚い胸に顔を埋めてそっと呟く。
 私はちょっと不安になってゼフェルにきつくしがみついていた。


「………ここにもいない。」
 鋼の守護聖への書類を届けるために女王補佐官の私はゼフェルを捜して歩き廻った。
 聖殿にいる間は女王補佐官と守護聖。
 家にいる時のようには接せられない。
『……ムカッ。』
 ちょっと思い出して頭にきた。
 以前のゼフェルだったら『…んなの関係ねー。』とか言って所構わず私に触れていた。
 なのに今のゼフェルはそんな事は絶対にしない。
 ゼフェルが冷静に大人の判断が出来る部分が出てくる度に私は置いて行かれた気分でちょっとブルー。
 以前の、時と場所をこだわらないゼフェルに困っていたのも事実だけれど、私より先を歩いているゼフェルも大問題。
『これって我侭なのかなぁ。』
 そう思いながらもゼフェルと並んで歩きたい気持ちはどんどん膨らむ。
 だって…ちょっと前ならゼフェルの考えている事は大体判ったのに今は少しも判らない。
 補佐官になりたての頃はいなくなったゼフェルを見つけるのなんて簡単だった。
 なのに今はゼフェルが何処にいるのか見当もつかない。
『………そうだ。あそこに言ってみよう。』
 一箇所捜していない場所を思い出した私は聖殿の裏手に向かって歩き出した。


「ゼフェル…いる?」
 聖殿の裏手に広がる岩場。
 ゼフェルのお気に入りの場所。
 何度か連れてきて貰った事がある。
 だけど一度だけ岩場に足を取られて私は転んで怪我した。
 それからゼフェルは絶対にここには連れてきてはくれなかった。
『あそこは足場が悪りぃんだからおめーは駄目だ。』とか言って……。
「ゼフェル………?」
 辺りを見回してみたけどゼフェルはいない。
 岩場の端、崖になってる所に腰かける。
 昔ゼフェルが座っていた場所に………。
「……フウッ。」
 溜息が漏れる。
 今のゼフェルのお気に入りの場所が判らない。
 何だか切ない。
『……戻ろう。聖殿に。』
 いつまでもここにいたってゼフェルは見つからない。
 ゼフェルの机の上にメモ書きして置いておけばいい。
 そう思って立ち上がった拍子につけていたイヤリングが落ちてしまった。
「あっ! ど…どうしよう……。えっと………。」
 崖の途中に引っかかっているイヤリングに手を伸ばす。
「あと…もう少し………。きゃあっ!」
 身を乗り出してイヤリングを掴んだ私の手元の岩が突然崩れ、私は崖下に落ちてしまった。
「ゼフェ…ル……。」
 薄れていく意識の中で私はしっかりとイヤリングを握りしめたままゼフェルの名を呟いていた。


「………ルヴァ。呼んだか?」
「は? ……いいえ。呼びませんけど?」
 いつも世話になっているルヴァの『書庫を片付けたいんですけど……。』の一言に面倒臭さを感じながらも俺は手伝ってやっていた。
 正直言ってルヴァ一人でやらせていたらいつまでたっても終わらない。
 ルヴァのこの鈍くさい所があいつに似ている気がして俺にはどうにも放っとけなかった。
「ゼフェル? どうかしたんですか?」
 片付けの手を止めている俺にルヴァが不思議そうに尋ねる。
 さっき俺の名を呼んだのはあいつじゃないだろうか?
 胸騒ぎがした。
 嫌な感じがする。
「………ルヴァ。悪りぃけど……………。」
「良いですよ。手伝ってくれてありがとうございました。ゼフェル。」
 だてに俺の面倒を長い事見てきた訳じゃない。
 ルヴァは俺が持っていた本を受け取ると笑顔で俺を見送ってくれた。
「アンジェリーク。いるか?」
 女王補佐官のあいつの部屋に行くと中はもぬけの殻。
 誰もいない室内の冷えた空気にぞくっと悪寒が走った。
 この予感は間違いない。
 あいつに何かあった。
「あれっ? ゼフェル。何処にいたの?」
 踵を返して歩き出す俺に偶然通りかかったマルセルが驚いたように聞いてきた。
「マルセル。アンジェリークを………。」
「アンジェリークが捜してたんだよ。渡さなきゃいけない書類があるって……。」
「どっちへ行ったか判るか?」
「うーん。僕が会ったのは部屋の中だから…ごめんね。」
「ああ………。」
 申し訳なさそうに謝るマルセルをその場に残して俺は歩き出した。
 あいつが俺を捜してる。
 振り払おうとしても拭えないこの悪寒。
 あいつは俺の気に入りの場所にいる。
 しかも一番危ない場所に………。
 俺は聖殿の裏手の岩場に向かっていつの間にか走っていた。


「アンジェ! いるか?」
 岩場についた俺は大声であいつの名を呼んでいた。
 はたから見たらさぞかしガキ臭い滑稽な姿だろう。
 いつの頃からか俺よりずっと先を歩くアンジェにこれ以上前を歩かれないように俺は必死になって自分を作った。
 だけどそんな間に合わせのモンはすぐに化けの皮が剥がれる。
 今がいい例だ。
 そんな考えが頭の中をよぎったが、そんな事はもうどうだって良かった。
 今はただ、この嫌な感じを拭いたかった。
 アンジェを腕の中に抱きしめて安心したかった。
 俺は岩場を捜し回り崩れた崖下に横たわるアンジェを見つけた。
「アンジェリークっ!」
 無我夢中であいつの名前を叫んだ俺は岩場を飛び降りていた。


 どの位ここにいたんだろう?
 私の名前を呼ぶゼフェルの声を聞いたような気がした。
 ガラガラと岩の落ちる音が聞こえる。
 身体中が痛くて身動きできない。
 やっとの思いで目を開くと崖を滑り落ちてくるゼフェルが見えた。
『ゼフェル! 何を………。』
 叫ぼうとしても声にならない。
「アンジェリーク。大丈夫か?」
 そっと私を抱き起こすゼフェルの何だか泣き出しそうな声に私はさっきまでの切ない気持ちが無くなって安堵感が胸一杯に広がった。
「アンジェリーク? おいっ!」
 ゼフェルの声はもう聞こえない。
 私はゼフェルの腕の中で安心しきったように意識を手放した。


 目が覚めると見慣れた天井が見えた。
『あぁ。帰ってきたんだ。』
 ぼんやりとした意識の中でそう思う。
 鋼の守護聖ゼフェルの家。
 ここが私の帰る場所。
『……ゼフェル? ゼフェルはどうしたんだろう?』
 ふいに思い出した崖を飛び降りるゼフェルの姿。
 着ていた服は破け身体は岩にぶつかり血だらけ。
 それでも私の元に走ってきてくれたゼフェル。
 ベッドから起きようと努力してみたけれど身体中が悲鳴を上げる。
 どうにか動く頭を横に向けるとそこにゼフェルの姿があった。
 傷の手当もろくにしないで両手を膝の上で握りしめ顔は俯いたまま。
 まるで自分自身を責めている様なゼフェルの姿に私は切なくなった。
「……………ゼフェル。」
 やっとの思いでゼフェルの名前を呼んだ。
 途端にゼフェルが顔を上げる。
「アンジェリーク。気が付いたのか? ……良かった。もう目を覚まさないかと………。」
 ゼフェルはそう言ってベッドの脇に膝をつき私を抱きしめた。
「ごめんなさい。」
 謝る私にゼフェルは優しく首を振った。
「良いよ。悪かったな。俺を捜してたんだってな。ルヴァに書庫の整理を頼まれて手伝ってたんだ。それよりアンジェ。おまえ。なに握りしめてんだ? 指を開こうとしたけど力一杯握ってて開けなかったぞ。」
 言われて私は思い出す。
 崖下に落ちてしまった原因。
「これって…俺が作った……。」
「ゼフェルに初めて貰ったイヤリング。これが落ちちゃって……。」
「ば…莫迦か! おまえはっ! こんなモンのために………。」
「だって! 初めてもらった物なんだもん。大切な物なんだか……。」
 言いかけた私の唇をゼフェルが塞ぐ。
「……莫迦だよ。お前は。落としたなら俺が拾ってやるよ。どこに落としたのか判らないならいくらでも作ってやる。だからもう二度とこんな危ない事すんじゃねーよ。心臓が止まるかと思ったんだからな。」
「……ごめんなさい。あの…ね。もう落としたくないからピアスにしようかと思うの。」
「駄目だっ!」
 まじめな顔で否定されて私はちょっとビックリした。
「ピアスだけは絶対駄目だ。」
「どうして? ピアスなら落とさないし…市販のでも可愛いのがいっぱいあるし……。」
「誰が何と言おうと駄目だっ! 可愛いのが欲しいならおまえの好きな奴をいくらでも作ってやるから。」
「なんでそんなに嫌がるの?」
 尋ねる私にゼフェルは顔を背けた。
『……あっ! 照れてる。』
 少年の頃そのままの照れた横顔に私はちょっと優越感。
「ねぇ。ゼフェル。どうしてピアスしちゃ駄目なの? オスカー様だってやってるのよ? ねぇ。ゼフェルってば。……あんっ。」
 わざと甘えた声で尋ねる私にゼフェルは抱きつき耳たぶを噛んだ。
「ゼフェルっ!」
「他の奴なんて関係ねーよ。」
 抗議する私の耳に息を吹きかけるようにゼフェルが囁いた。
「俺はよ…俺はおめーのこの柔らかい耳たぶが好きなんだよ。それに…ピアスなんてしてたらこんな事したくてもやり難くなるだろ?」
「やっ…ん……。ゼフェ……ル。」
 耳たぶを優しく甘噛みするゼフェルに痛いはずの身体がピクリと跳ねる。
『ずるい……。私がここが一番弱いの知ってるクセに………。』
「……しばらくの間はこれだけ…な。」
「えっ? ゼフェル?」
 そっと私から離れたゼフェルに私は不満そうな顔を見せてしまったらしい……。
 ゼフェルが意地悪な顔をして笑っている。
「おまえ…全身打撲でしばらく動けないんだぜ? そんな時にやっちまったらおまえが辛いだけだろ? 俺だって我慢するんだからお前も我慢しろよな。」
 私の前髪をくしゃっと乱してキスをする。
 そんな態度が憎らしいけど気持ちが良い。
 もう駄目みたい。
 私の負け。
「ゼフェル……。あのね。私…頑張ってついて行くから…置いてかないでね。先に一人で行っちゃ嫌よ。」
 そんな私の言葉にゼフェルはビックリしたように目を丸くした。
「………それは俺のセリフだよ。おまえが俺の前を歩いているから俺はついていくので精一杯なんだぜ?」
 そんなゼフェルの言葉に今度は私が目を丸くした。
『なんだ……。良かった。二人して同じ事を考えてたのね。』
「何だよ。なに笑ってるんだよ?」
 クスクスと笑いだした私をゼフェルが抱きしめる。
「何でもなぁい。」
「………笑ってろ。」
 私がそう呟くとゼフェルも笑顔を作り私達はお互いの気持ちを確かめ合うようにもう一度唇を重ねた。


もどる