桜色のエチュード


「んっ?」
 バランバランと聞いたこともないような音にゼフェルが身体を起こす。
 土の曜日の昼下がり。
 飛空都市の外れに絶好の隠れ場所を見つけ、暇が出来るとこの場所にやってきて惰眠を貪っていた。
 何しろ、滅多にどころか殆ど人が来ることはない。
 そんな外れで自分以外の何かがいることに興味を持ったゼフェルは音のする方へと歩き出した。
「………へぇ。」
 しばらくして感心したように声を出す。
 蔦に絡まれた寂れた建物。
 こんな所に建物が建っていたとは知らなかった。
 耳に喧しい不協和音は、そんな建物の中から響いている。
 一歩、足を踏み出したゼフェルが建物の裏手側に立っている大きな桜の木に気づき足を止める。
 桜の木は枝一杯に蕾をつけて春の準備を始めていた。
『桜の花なんて大嫌いだぜ。』
 眉をしかめたゼフェルが心の中で毒づく。
 昔から…守護聖のことも女王や聖地のことですら夢物語だと思っていた頃から桜の花が嫌いだった。
 何しろ花の咲く季節に良い思い出が無い。
 最悪だったのは自分が聖地に連れられる記憶。
 両脇を屈強の男達に掴まれ引きずるようにシャトルに乗せられるゼフェルの目の前で、桜の花びらはこれでもかと言うほど舞散っていたのだった。
「……ちっ。」
 蘇った嫌な記憶を振り払うように短く舌打ちをして、ゼフェルは不協和音の正体を確かめるべく建物の方へと足早に近づいていった。


「……………あ。」
 ギーッと言う重たい扉の音に不協和音がピタリと止まり、代わりに聞こえた少女の声。
「……なんだ。おめーかよ。」
「こ…こんにちは。ゼフェル様。」
 金色の巻き毛を揺らしてアンジェリークがペコリとお辞儀をする。
 ゼフェルはこの少女が苦手だった。
 少しつつくとすぐに泣いてしまいそうな…本当に普通の少女だからだった。
『自己主張する分、あっちのたかビー女の方がましだぜ。』
 ゼフェルの二人の女王候補に対する評価はこうだった。
 だから自然と対応がつっけんどんになる。
 アンジェリークの方でもそんなゼフェルの態度が苦手らしく、育成のお願い以外でゼフェルを訪ねることは殆ど無かった。
「何やってたんだよ。」
 黙り込んでしまったアンジェリークにゼフェルが尋ねる。
「あの…ピアノを弾いてたんです。」
「ピアノ?」
「はい。これです。」
 訝しげなゼフェルの表情にアンジェリークがすぐ側の黒い箱に向き直る。
 白い指が白と黒の鍵盤に触れると先程まで聞こえていたバラバラと言う不協和音が建物の中に響いた。
「……っでぇ音だな。ピアノって楽器だろ? こんなひでー音のする楽器なのかよ?」
「違いますっ!」
 耳を押さえて顰めっ面をするゼフェルにアンジェリークが叫ぶように否定する。
 そんな必死の表情にゼフェルは一瞬、引き込まれた。
「違います。ピアノって…ピアノってホントはもっと綺麗な音が出るんです。このピアノ…長いこと誰にも弾かれてなかったから音が狂ってるんです。」
「ふーん。ま…どっちでも構わねーよ。そのひでー音で俺の昼寝の邪魔はすんなよな。じゃな。」
 悲しそうに翡翠色の瞳を揺らすアンジェリークに一言言いおいてゼフェルは建物を出ていった。
 少し離れたところで振り返るゼフェルの耳に、まるで引き留めるかのように不協和音が聞こえていた。


「なに考えてんだ? あいつ。」
 あれからかなりの日が過ぎた。
 その間、不協和音はずっと途切れることはなかった。
 あの時からなんとなくアンジェリークのことが気になって、ゼフェルの目はずっと彼女の姿を追っていた。
「俺や他の奴等の前じゃヘラヘラ脳天気に笑ってるクセしやがって……。なんでピアノ弾いてるときだけあんなツラすんだよ。」
 バランバランと言う不協和音を寝転がって聞いていたゼフェルが苛立ちを覚え身体を起こす。
 彼女は…アンジェリークはピアノに対しているときだけ、誰も見たことのないような表情をしていた。
 なんとなく見覚えがあった。
 聖地に連れられて来たばかりの頃、抵抗しきれなかった自分に腹が立って鏡を睨み付けていた時の自分の顔。
 その時の顔とアンジェリークのそれとが似ているようにゼフェルは感じていた。
「……おめーっ! なに考えてんだよ。」
 どうしても耐えられず、ゼフェルは走っていってピアノを弾いていたアンジェリークに怒ったように尋ねた。
「えっ? あ…こんにちは。ゼフェル様。」
 驚いて振り返ったアンジェリークがゼフェルに笑顔を見せる。
「なに考えてんだって言ってっだろ。」
「あの…何って………。」
 ゼフェルの勢いにアンジェリークは戸惑い、その戸惑いの表情が更にゼフェルを苛つかせた。
「そのオンボロ弾いてる時だけマジなツラしやがって。なんで他の時はそうやってヘラヘラ笑えるんだよっ!」
「……………。」
 ゼフェルの言葉にアンジェリークは翡翠の瞳を大きく見開いた。
「判ってんだよ。おめーは突然女王候補に指名されて…ここに連れてこられた納得のいかねー部分をそうやってピアノにぶつけてんだろ? なんでそうやって一人っきりの時だけ辛そーなツラしやがる。なんでそれを他の奴等にぶつけねーんだ。」
「だって……………。」
「だってもくそもねーっ!」
 反論しかけるアンジェリークの言葉をゼフェルの怒鳴り声が封じる。
「だって…仕方ない事でしょう。半強制的に連れてこられたけど…でもだからって何もしない訳にはいかないんだもの。大陸にはちゃんと人が住んでいて…私が頑張ることであの人達が幸せになるなら精一杯の事をしないと。そりゃゼフェル様が言うみたいに納得のいかない部分はまだ残っているけど、だからって他の人にぶつけたってどうしようもないことだもの。ゼフェル様だって…ゼフェル様だってどうしようもないって判ってるクセに……。どうしようもないって判っているのに私に言わないで下さい。」
「んだとぉ………。」
 アンジェリークの最後の言葉にゼフェルの身体中が熱くなる。
 つかつかと歩み寄り、アンジェリークの腕をきつく掴んだ。
「もいっぺん言って見ろよ。」
 低く絞り出すようなゼフェルの声にアンジェリークは眉をしかめて顔を背けた。
「もう一回言って見ろって言ってっだろっ!」
「私は…私はゼフェル様みたいに出来ないもの。いくら納得いかないからってそれを人にぶつけることなんか………。」
「そして一人きりの時に泣きそうなツラすんのかよ。」
「だって…人にぶつけて倍以上に辛い思いをしてるのはゼフェル様じゃない。なのにどうしてそんなこと言うんですか? いつもいつも。ルヴァ様やランディ様と言い合って…その後、とても辛そうにしてるクセ………!」
 アンジェリークの言葉にゼフェルは頭の中が真っ白になった。
「ん…んーっ!」
 唇を塞がれ苦しそうに呻くアンジェリークの後頭部を押さえ込み更に深く唇を重ねる。
「!!!!!」
 突然の痛みと鉄の味に正気を取り戻したゼフェルがアンジェリークを離す。
「………莫迦っ!」
 バチーンと派手な音と共に罵声を浴びせてアンジェリークは走り去った。
 後に残ったゼフェルは呆然と先程までアンジェリークに触れていた血の味のする唇に指を触れていた。
『俺…いま何を……………。』
 徐々に頭の中の霧が晴れてきてゼフェルがきつく拳を握る。
 いつの間にか愛しているのに気が付いた。
 アンジェリークという存在を………。
 だから許せなかったのだ。
 ピアノに向かう彼女の辛そうな表情も、皆に見せていた本当じゃない彼女の笑顔も………。
「…っくしょーっ!」
 叩きつけるように鍵盤の上に手を降ろす。
 バーンっと壊れた音が建物の中に激しく響いた。


「は…はぁ。はぁ。」
 特別寮まで一気に走り戻ったアンジェリークは部屋に入った途端にその場にしゃがみ込んでしまった。
 ドキドキと心臓が激しく鼓動を続ける。
「………ゼフェル様の莫迦。」
 ようやく落ちついたアンジェリークは頭の中でずっと言い続けていた言葉をポツリと呟いた。
『えっ?』
 治まっている筈の心臓がドキンと跳ねてアンジェリークは目を丸くした。
「ゼフェル様の……莫迦。」
 もう一度言うとドキドキと心臓が鼓動する。
「ゼフェル…様?」
 ドキドキドキドキ、鼓動がスピードをあげる。
 アンジェリークは訳が判らずに両手で自分の胸を押さえた。
「ゼフェル様。」
 名前をそっと呟いたらドキドキがトクンに変わった。
「なんで……? だってゼフェル様。私にあんなこと………。」
 先程のことを思い出すとトクントクンと鼓動が続く。
 ファーストキスだったのだと認識したらもっと続いた。
 カーッと顔が熱くなった。
 初めて…初めてアンジェリークはゼフェルのことを好きになっていた自分に気が付いたのだった。
 謁見の間で初めて会ったとき、なんとなく親近感を覚えた。
 ルヴァからゼフェルが守護聖となった経緯を聞いたとき、なんとなく納得した。
 そしていつも知らず知らずの内に視線がゼフェルを追うようになっていた。
 執務室を抜け出すゼフェルの後を追いかけてピアノのある建物を見つけたのは全くの偶然。
『お前のピアノを聞いていると嫌なことは全部忘れてしまえるよ。』
 ピアノを弾いていると父はいつもそう言って笑顔を見せていた。
 それを思い出してアンジェリークはピアノを弾いた。
 酷く乱れた音だったが、それでも気にしなかった。
 ルヴァと話し合った後、ランディとケンカをした後、いつも酷く辛そうな顔をしているゼフェルに少しでも届けばと思っていたのだ。
 自分でも全く知らないうちに………。
「私…どうしよう……………。」
 別れ際、ゼフェルの頬を激しく叩いてしまったことを思い出してアンジェリークは唖然と呟いた。
『もう…もうゼフェル様にお会いできない。』
 トクントクンといっていた心臓がツキンと痛んで、アンジェリークはポロリと涙をこぼした。


「こんにちは。アンジェリーク。」
「リュミエール様?」
「宜しかったらお散歩に行きませんか? とても素晴らしい場所にご招待いたしますよ。」
 数日後、訪ねてきたリュミエールに誘われるままアンジェリークは飛空都市の外れにある建物の中へと案内された。
「あの…リュミエール様………?」
 見覚えのありすぎるこの場所にアンジェリークは戸惑った。
「ある方に教えて頂いたのですよ。ここにピアノがあることを。弾いてみて下さいませんか?」
「えっ? 私がですか?」
「この場所を教えてくれた方があなたがピアノを弾けると言うことも教えて下さったのです。簡単なもので結構ですから…何か弾いて下さいませんか?」
 にっこりと笑うリュミエールにアンジェリークは慌てた。
「だ…駄目です。リュミエール様。私…そりゃ少しは弾けますけどリュミエール様にお聞かせ出来るようなものじゃないし……。それにこのピアノ。長いこと誰も触ってなかったから音が狂ってるんです。」
「平気ですよ。アンジェリーク。どうか弾いて下さい。」
 顔は笑顔のままでも有無を言わせないリュミエールにアンジェリークは椅子に腰掛けピアノの蓋を開けた。
 真っ白な鍵盤に恐る恐る指を乗せ、瞳をきつく閉じて指を降ろした。
 ポーンと言う透明な音に驚いて目を開ける。
 指が自然といつも弾いている曲の動きを始める。
『どうして? どうして……? どうして……………。』
 弾きながら心の中は疑問でいっぱいだった。
 だけど透明な音が嬉しくて、アンジェリークはいつの間にか笑みを作っていた。
 ポロン…と最後の一音を奏で終えたとき、背後から拍手が聞こえた。
「素晴らしかったですよ。アンジェリーク。」
「リュミエール様。このピアノ………。」
「……ゼフェルに頼まれたのですよ。壊れたピアノを直したのは良いけど自分では音が判らないので見てほしいと。」
「ゼフェル様が?」
 慌てて振り返ったアンジェリークはリュミエールの言葉に呆然となった。
「私は用事がありますから失礼いたします。多分この建物の近くにいると思いますからゼフェルに伝えて頂けませんか? 素晴らしいものを見せて頂きましたと。お願いしますね。アンジェリーク。」
「……………リュミエール様。ありがとうございました。」
 背中を見せたリュミエールにアンジェリークは深々と頭を下げた。


「……ゼフェル様?」
 建物の裏手に廻ったアンジェリークは木の根本で寝転んでいるゼフェルを見つけ遠慮がちに声をかけた。
「あの………。」
「なんか用か?」
 自分のすぐ隣りに腰を下ろすアンジェリークにゼフェルは目も開けずに短く尋ねた。
「あの…リュミエール様からお聞きしました。ピアノ…直して下さってありがとうございました。」
「礼を言われる筋合いはねーよ。まともな音が出りゃ少しはましなツラで弾けるだろーと思ってよ。……………この間は…悪かったな。」
 クルリとアンジェリークに背を向けてゼフェルが呟いた。
「あの…ゼフェル様。あの…ね………。私のお父さん。よく私にピアノを弾いてって言うんです。私のピアノの音を聞いてると嫌なことや辛いことが無くなるみたいだって。私…無意識にココでもそれをやってたんです。私の大好きな……ゼフェル…様………が辛いことを忘れられますようにって。」
 微かに聞こえた自分の名前にゼフェルがガバリと飛び起きる。
 振り返ったゼフェルの視界に入ったのは降りしきる桜の花びらの中で顔を真っ赤に染めたアンジェリーク。
「あ…あの……………。」
「アンジェリーク。俺は…ガキの頃から桜の花が大嫌いだった。ろくな記憶がねぇ。最悪なのは俺が守護聖になる時だった。……もう一回言ってくれよ。桜の花も悪くねぇ。俺がそう思えるように…よ。」
 腕の中にアンジェリークを抱き寄せながらゼフェルが呟く。
「私…ゼフェル様が好きです。ゼフェル様が辛そうなお顔をする度に私も悲しかった。ゼフェル様のお心が少しでも癒えるならって…ピアノを弾いてました。」
「アンジェリーク……………。」
 真っ赤な顔で自分を見上げるアンジェリークにゼフェルが眩しそうに目を細める。
 互いに瞳を閉じてゆっくりと唇を近付けた。
「……………やっぱ、桜の花って好きになれねーな。」
「………ゼフェル様ったら。」
 唇が触れ合う直前、二人の唇の間に舞い降りた桜の花びらを指でつまんでゼフェルが憮然と呟く。
 アンジェリークはそんなゼフェルの表情に笑顔を作った。
「笑ってんじゃねーよ。やり直しだ。」
「えっ! きゃっ。」
 照れ隠しの乱暴な動きでゼフェルは再びアンジェリークを引き寄せそのまま唇を重ねた。
 二人の周りでは盛りを終えた桜の花びらが微弱な風に舞うように降り注いでいた。


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