月夜の秋


 彼の名前が判った。
 ゼフェル…って名前。
 ゼフェル。
 何度も何度も心の中で呟いた。
 たまに誰もいない部屋の中で声に出してみたりして。
 ノートに相合い傘を書いてみたこともある。
 彼と私の名前で。
 恥ずかしくなって急いで消しゴムで消したけど。
 名前を知ることが出来たのは凄い…違うな。
 ちょっと情けない偶然。
 夏休み明け直後の試験で理数系の成績がもの凄くもの凄く悪くって、私は塾に通うことになってしまった。
 彼…ゼフェルが通っているのと同じ塾に。
『同い年なんだ〜。』
 案内されたクラスの中に彼を見つけたときには大興奮。
 心の中で踊りを踊っちゃった。
 しかも席まで近くって。
 正面を向いたままでも、ちょっと横目で見れば彼の顔が見れてしまう位置。
 神様ありがとう! って、何度叫んだか判らない。
 左利きなんだ…って知ることが出来た。
 文系の科目が苦手なんだって判った。
 私が苦手な理数系は信じられないくらい成績良いみたい。
 少しずつお話し出来るようになった。
 私の事…覚えていてくれた。
 夏のひまわり畑でのこと。
 彼がいるって判って、何度も何度もひまわり畑に行ったもの。
『おめー。こう何度も来て、よく飽きねぇなぁ。』
 そう彼が言ったのは、通い始めて十日目の事。
『何度来ても面白いもの。』
 笑ってそう答えたけど、それは嘘。
 何度でも彼に会いたいから通ったの。
「うわぁ〜。やっぱり理数系メチャメチャ。理数系強い人が羨ましいなぁ。」
 塾内で行われた小テスト。
 帰ってきた成績表の惨憺たる有様に、思わず出てしまったぼやきの一言。
「理数は1+1が2になるからな。1+1が2にならねぇ文系の出来る奴の方が、俺にはよっぽど信じらんねーよ。」
 そんな私のぼやきが聞こえたのか、彼は小さな声でそう呟いた。
 1+1が2にならない。
 確かにそうかもしれない。
 文系は理数系みたいに、答は絶対これ! がないから。
「あの…ね。もし嫌じゃなかったら理数の宿題教えてくれる?」
 私のぼやきに反応してくれた彼にちょっとだけ勇気を出してみた。
「………良いぜ。そん代わり、文系の宿題教えろよな。」
 ちょっと驚いたみたいに目を丸くした彼が次の瞬間、悪ガキみたいな笑顔を作ってみせる。
 そんな笑顔に眩暈を起こしそうだった。
 嫌々通う事になった塾に行くのが、彼がいる事実で楽しみに代わった。
 お互い宿題を教え合う約束をして、塾に行く日を心待ちするようになった。
 授業の終わった後の僅かな時間が二人で宿題をやるチャンス。
 秋の日は暗くなるのが早くって、すぐに夜が来てしまう。
 塾の帰り、夜道を一人で歩くのは危ないし同じ方向だから…と、彼が途中まで一緒に帰ってくれるようになった。
 ナイフみたいに細い三日月の夜は星座の話をしながら家路を歩いた。
 少しずつお月様が丸くなっていくごとに、星は見えなくなっていく。
 だけど少しずつ明るくなる月の光りで、彼の顔が少しずつはっきりと見えてくる。
 シルバープラチナの髪が月の光りみたいだと思った。
 満月の夜。
「そー言ゃよ。おめー。何て名前だったっけ?」
「……………呆れた。覚えてなかったの?」
 ちょっと…かなりショック。
 塾に通い始めて、彼と宿題を教え合うようになって随分になるのに、名前も覚えてなかったなんて。
「仕方ねーだろ。おめーが来た時ゃまた喧しい女が入ってきたぐれーにしか思ってなかったんだからよ。」
「仕方ないわね。アンジェリークよ。ちゃんと覚えてよね。」
 落胆しつつも、名前を告げる。
 私の名前を知りたいってことは、ちょっとは私が気になってるからだよね?
 そんな期待も込めて。
「アンジェリーク…か。アンジェ…おめーの髪ってよ。お日様みてーだと思ってたけど満月の光りにも似てるよな。」
 そう言って彼の左手がごくごく自然に私の髪の毛に伸びる。
「すんげーキラキラして………! わ…悪りぃ。」
 彼に触れられた毛先から電流が流れたみたいに身体中に痺れが走る。
 真っ赤になって硬直してしまった私を彼がどう思ったのかは判らない。
 赤い顔も、月夜の中で気付かれたかどうか定かではない。
 だけどそれから二人して、ずっと黙って歩いていた。
 月明かりで出来た二人の影が、いつまでも綺麗に二つ並んでいた。


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