夏の独り言


 実は好きな人がいる。
 名前も知らないし、数えるほどしか会ったこともない。
 だけど私は彼に恋をして………ううん。
 彼を愛していた。
 初めて会ったのは夏の盛り。
 ひまわり畑の中でだった。
 大きな大きな背丈ほどもあるひまわりで作られた花の迷路。
 空さえも見えないほど密集した花の迷路の中を、お気に入りの麦わら帽子を被って歩いているときに彼と出会った。
 バイトでもしていたのかな?
 彼はひまわりの花達に水をあげていた。
 大粒の汗をかきながら。
 黒のタンクトップにジーンズ。
 少し浅黒い肌が夏の陽差しで更に黒くなっているみたい。
 シルバープラチナの髪が陽差しを眩しいぐらいに弾いている。
 私はついつい足を止めて、彼に見入ってしまった。
 無造作に汗を拭う仕草ですら、魅了されてしまう。
「…んだ。迷ってんのか?」
 突然私の方を向いて呟く彼の声に息が止まった。
 少し低めのハスキーボイス。
 声が聞けるなんて…声をかけられるなんて思ってもいなかった。
 だから私は怪訝そうな顔をしてみせる彼に、無言でコクコクと頷くのが精一杯。
「…っ方ねーな。こっちだ。………来いよ。」
 呆れたような溜息を一つ吐いて、彼は左手の親指で1本の道を指し示し歩き出した。
 そんな彼の後ろ姿を見ていたら、私の方に向き直った彼が私を呼ぶ。
 慌てて駆け寄ると、彼はまた黙って歩き出した。
 そんな彼の後ろを私も黙って付いていく。
 このままずっと二人だけでいられたらいいのに。
 ひまわりの花畑が凄く凄く複雑な迷路になっていればいいのに。
 どんなに願っても無理なこと。
 ここの迷路に来たのは初めてじゃないもの。
 何度も何度も楽しんだもの。
 もうすぐ出口なのも知っている。
「着いたぜ。」
 出口に到着して、彼が私の前からいなくなる。
 私のために目の前を空けてくれた。
 目の前に広がるのは泣きたくなるくらい真っ青な空と真っ白な入道雲。
「もう迷うんじゃねーぞ。」
 そう呟いて、彼はまたひまわりの中に消えていく。
 ありがとうさえ言えなかった。
 だから気が付いた。
 彼の歩く速さに。
 私が後を付いて歩いているときよりもずっと速い速度。
「………ありがとう。」
 お気に入りのこの場所にいてくれてありがとう。
 何気ない仕草を見せてくれてありがとう。
 私を見てくれてありがとう。
 声をかけてくれてありがとう。
 声を聞かせてくれてありがとう。
 道案内してくれてありがとう。
 私の歩くペースに合わせてくれてありがとう。
 色々なありがとうの気持ちを込めて、姿の見えなくなった彼に小さく呟く。
 大好きなひまわり畑が更に好きになった夏の一日だった。


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