愛しのキスマーク


「ふわぁあ。一時間も寝てねーから眠くてたまんねーや。だけど今日はあいつと約束してっからな………。」
 日の曜日の早朝。
 鋼の守護聖ゼフェルは二人の女王候補達が暮らす特別寮への道をポテポテと歩いていた。
 ピンポーン。
 寝不足の頭には少しばかり辛く響くチャイムを鳴らすと部屋の中からパタパタと軽やかな足音が聞こえてきた。
「ふわぁ………。」
「お早うございます。ゼフェ……………。」
 タイミングはばっちりだった。
 ゼフェルが大口を開けてあくびをする姿を目の当たりに見てしまったアンジェリークが一瞬の間の後、お腹を抱えて笑い出した。
「………アンジェリークっ! いつまでも笑ってんじゃねーよっ! 今日はおめーと約束してたから俺がわざわざ来てやったってのによ。」
「ご…ごめんなさい。ゼフェル様。だって…ドアを開けたらいきなり何だもの………。」
 真っ赤になって怒鳴るゼフェルにアンジェリークは瞳に涙を浮かべて笑い続けた。
「…ったく。帰るっ!」
「えっ? 待って! ………ゼフェル様ぁ。」
 背中を向けたゼフェルにアンジェリークは慌ててマントを掴むと甘えたように名前を呼んだ。
「……………今日はどうすんだ?」
「私の部屋でお話ししましょ。ねっ?」
「………仕方ねーな。」
 肩越しに小首を傾げるアンジェリークの姿を見たゼフェルは憮然とした表情で部屋の中に入っていった。


「ふわぁっ。……と。悪りぃ。」
 部屋で話をしている最中も、何度も何度もあくびをするゼフェルにアンジェリークはクスクスと笑った。
「ゼフェル様。寝不足なんですか? ………判った。また徹夜でメカの改造とかしてたんでしょ?」
「……違げーよ。」
「えーっ。だったら…んーと。私とのデートが楽しみで眠れなかったとか……。」
「莫ー迦。なに言ってやがる。」
 当たらずと言えども遠からじなアンジェリークの言葉にゼフェルが横を向く。
「えーっ。違うんですか? なぁんだ。がっかり。……!?」
 横を向いたゼフェルの鎖骨の辺り、今までマントに隠れて見えなかった部分にポツリと赤い痕を見つけたアンジェリークが首を捻った。
「……どうしたんだよ。」
 突然黙りこくり首を傾げるアンジェリークにゼフェルが怪訝そうに声をかけた。
「あの…ゼフェル様? そこ…どうしたんですか?」
「ああっ? 何が?」
「何処かにぶつけたんじゃないですか? 痛くないですか?」
「だからっ! 何処だよ。」
「えっと。ちょうどこの辺です。虫刺されの大きいのみたいにポツンと赤くなってて……。」
 自分の鎖骨の辺りを指さすアンジェリークにゼフェルが何事か思い当たって顔を赤くする。
「い…痛い訳ねーだろ。第一! いくら俺が器用でもそんなトコぶつけられる訳ねーだろ。」
 そっぽを向いてゼフェルが怒鳴る。
「そうですよね。じゃ。虫刺されですか? そんなに大きく赤くなって……。待ってて下さいね。虫刺されの薬持ってきますから。」
「虫刺されなんかじゃねーよ。」
「えっ? じゃあ。何で………?」
 立ち上がりかけたアンジェリークがゼフェルの言葉に不思議そうに椅子に座りなおす。
「おめーな。いい加減にしろよ。わざとらしいにも程があるぞ。判ってるクセに聞くんじゃねーよ。」
「えっ??????」
「……………。」
 頭の上に大きな?マークを乗せているようなアンジェリークの表情にゼフェルが絶句する。
「アンジェリーク。マジでボケかましてんのか? おめー。キスマークって奴を知らねーのか?」
「キスマーク? ……あっ! じゃあ。濡れタオル持ってきます。拭けば落ちますよね。」
 アンジェリークのそんな言葉にゼフェルの身体からどっと力が抜ける。
「マジで言ってんのか? ………ちょっと腕貸せっ!」
「は…はいっ。」
 ゼフェルの怒鳴り声の勢いにアンジェリークが腕を差し出す。
「良いか? ここ。なんともなってねーだろ?」
「はい………。」
 二の腕の内側、柔らかい部分を指さしたゼフェルにアンジェリークが頷く。
「ちょっと目…瞑ってろ。」
「えっ? 何で………。」
「良いから瞑れっ! 俺が良いって言うまで目ぇ開けるんじゃねーぞ。良いか? 絶対! 開けるなよ。」
 アンジェリークが完全に目を閉じたのを確認してからゼフェルはアンジェリークの腕に唇をつけた。
「やっ………。」
 目を瞑ったままのアンジェリークが生温かい感触に一瞬目を開き、すぐにまた閉じて腕を引く。
 ゼフェルはそれを許さずにアンジェリークの腕を強く吸った。
「んっ……………。」
 チリリっと焦げ付くような感覚が腕を走る。
「……よし。もう良いぞ。目…開けてみろ。」
 ゼフェルの言葉にアンジェリークがそっと目を開けると何もなかった二の腕にポツリと赤い痕がついていた。
「……………。」
「……判ったか? それがキスマークってんだよ。」
 真っ赤な顔をしたゼフェルが呆然と腕の赤い痕を見つめるアンジェリークに呟いた。
「す……。」
「す?」
「凄ーい。凄い。凄い。キスマークってシャツについた口紅の跡を言うんだと思ってた。」
「凄いって……。おい。アンジェリーク。」
 腕の痕にはしゃぐアンジェリークにゼフェルは肩を落とした。
「ゼフェル様? キスマークって身体のどんな所でもつくんですか?」
 好奇心でエメラルドグリーンの瞳をキラキラと輝かせたアンジェリークがゼフェルに尋ねる。
「どんなって……。肘や膝みてーに硬いトコは無理だけど…皮膚の柔らかい部分なら大抵つくぜ。」
「ホントですか? じゃ…ゼフェル様。ここ。ここにキスマークつけて。」
 そう言ってアンジェリークは胸のリボンとブラウスのボタンを二つほど外して白い鎖骨を指さした。
「ば…莫迦か! てめーはっ! 何でそんなコト………。」
「だってぇ。ゼフェル様とお揃いにしたいのぉ〜。ねっ? ゼフェル様。良いでしょ?」
「駄目だっ!」
 甘えるように瞳を覗き込むアンジェリークから顔を背けてゼフェルが叫んだ。
「どうしてぇ?」
「キスマークってのはな。今さっき俺がやったみてーに腕につけたりすんのは『ふざけてやりました。』ですむけどよ。そんな所は好き合ってるモン同士があ……。」
「あ?」
 真っ赤になって言葉に詰まるゼフェルにアンジェリークが小首を傾げる。
「あ…愛し合う時につけるモンなんだよ。おめーみたいに好奇心だけでつけたがるんじゃねーよ。」
「………判った。ゼフェル様はホントは私のこと嫌いなんでしょ? 私のこと好きだって言ってくれたのホントは嘘なんだ。だから…だからキスマークつけてくれないんだ。」
 ゼフェルの言葉にアンジェリークは口を尖らせて呟いた。
「なっ…なんでそうなるんだよ。おめーの事が好きだってのは嘘じゃねーぞ。」
「……じゃあ。キスマークここにつけてぇ。」
「だからぁ………。良いか? アンジェリーク。」
 半べそかいて自分を見つめるアンジェリークにゼフェルは頭を抱える。
「ぶー………。」
「ふてくされたツラしてねーでよっく聞けよ。おめーよ。俺と寝る気あんのか?」
「ゼフェル様と? いつも湖にデートに行って一緒にお昼寝してるじゃない。」
「そうじゃなくてだなぁ………。」
『駄目だ。こいつに遠回しな言い方は………。』
 ゼフェルはアンジェリークのずれた答えに腹を括った。
「おめーな。俺と赤ん坊が出来るような事をする気があるのか? って聞いてんだよ。」
「赤ちゃんが出来るような? それって……………。やっ! ゼフェル様のエッチっ!」
 ゼフェルの言わんとしている言葉をやっと理解したアンジェリークが真っ赤になってゼフェルから飛び退いた。
「ほれ。見ろ。良いか? よく聞けよ。俺はな。おめーの事が好きだぞ。だからな。そんなトコにキスマークつけるようなコトしちまったらそれだけじゃすまなくなるんだよ。だからそんなトコにキスマークつけろなんて言うんじゃねーよ。…ったく。」
 アンジェリーク同様に顔を赤くしたゼフェルはそう言って温くなったお茶に口をつけた。


『………諦めたか?』
 静かに考え事をしている様子のアンジェリークにゼフェルは思った。
「………ゼフェル様。本当に私のこと好き?」
「当たり前だろ。」
「本当に?」
「しつこいぞ。」
「好きなら…ここにキスマークつけて。」
「………てめーはっ! 俺の言うこと聞いてたのかよっ!」
「私のこと好きなら我慢して。ここにキスマークつけるだけにして。」
『そう来るのかよ。こいつ………。』
 アンジェリークの身勝手な言葉にゼフェルが黙り込む。
「……………。」
「……………。」
 二人で無言の攻防戦が続いた。
「………ちっ。来いよっ!」
 先に折れたのはゼフェルの方だった。
 左右に大きく開いた自分の太股をパンと叩く。
 アンジェリークは曇っていた顔を輝かせて近づくと、ゼフェルの足の間に自分の足を置いて太股の上に座った。
「…ったく。しょうがねー奴だよな。おめーも。で? 何処だって?」
「ここ。ゼフェル様のね。ついてるのと同じ所………。」
「少しこっち向けよ。」
「うん。………ゼフェル様? ここにキスマークつけること以外…しちゃ嫌よ。」
「へいへい。やるぞ。」
 真横を向いていたアンジェリークがゼフェルの方へ向き直る。
 ゼフェルはそっとアンジェリークの鎖骨に唇をつけた。
「あんっ!」
 先程とは比べものにならない、電気が走るような感覚にアンジェリークが身体を跳ねらせ声を漏らす。
「妙な声出すんじゃねーよ。」
「だって……あ…ん……………。」
 ゼフェルが強く吸うと今度は焼け付くような痛みにも似た感覚がアンジェリークを襲う。
「………んっ。ゼ…フェ…ル……様。」
 痺れるような感覚に耐えきれずアンジェリークがゼフェルの背中に手を廻しマントを強く握りしめた。
「っはぁっ………。」
 ゼフェルが唇を離したと同時にアンジェリークは詰めていた息を大きく吐き出した。
「………ついたぞ。」
 自分にしがみついたまま大きく息をするアンジェリークにゼフェルは静かに言った。
「ホント……?」
 まだ息の荒いアンジェリークが頬を上気させたままゼフェルの顔を間近で覗き込んだ。
「ああ。これ…手間賃な。」
「えっ? ん………。」
 ゼフェルは短く言ってアンジェリークに口付けた。
「……は…ぁ。……ゼフェル様!」
 ゆっくりと唇を離したゼフェルに抗議するように、アンジェリークが荒い息のまま眉を寄せる。
「手間賃っつったろ?」
「だからって…もう。キスマーク。ホントについた?」
「ああ。ついてる。ついてる。」
「私…見てくる。」
 バスルームに向かうアンジェリークに一つ溜息をついてゼフェルはすっかり冷たくなったお茶を飲み干した。


「………ん? どうした? アンジェリーク?」
 熱々のお茶を自分のカップに入れ直していたゼフェルがムッとした顔でバスルームから出てきたアンジェリークに声をかけた。
「………ゼフェル様!」
「な…なんだよ。」
 アンジェリークのあまりの勢いにゼフェルがたじろぐ。
「誰につけられたの?」
「はっ?」
「そのキスマーク。誰につけられたの?」
「あっ! ……………。」
 アンジェリークの不機嫌の原因が分かったゼフェルが言葉に詰まる。
「さっきゼフェル様言いましたよね。愛し合っている人達がつけるんだって。私やったことないもの……。ゼフェル様が愛している人って他にいるんだ。やっぱり私のこと好きだって言うの嘘だったんだぁ………。」
「だーっ! 違うって言ってっだろ?」
「じゃあ! これはどうしたんですかっ!」
「……………。」
「ゼフェル様っ!」
 黙り込んだゼフェルだったが涙混りに詰め寄るアンジェリークに折れざるを得なかった。
「夕べ…寝つけないから外に遊びに出て……。酒場の近くで酔っぱらいに絡まれてる女を助けたんだよ。」
「ホントはその人のこと愛してるんですね?」
「最後まで聞けって。その女自身も酔っぱらっててよ。お礼だとか抜かして無理矢理つけられたんだよ。」
「ホントに?」
「ホントだって。おめー。今日は疑り深けぇぞ。嘘だと思うなら酒場に行って聞いて来いよ。酒場の親父が全部見てたんだか……お…おいっ?」
 自分の言葉も終わらぬ内に、先程のように自分の太股の上に座るアンジェリークにゼフェルが慌てる。
「………信じてあげる。ゼフェル様大好き。」
「ああ。」
 首に手を廻して抱きつくアンジェリークの身体にゼフェルも手を廻す。
「……? おい? なにしてんだよ?」
 鎖骨の辺りをごそごそと擦られてゼフェルがアンジェリークを引き剥がす。
「だって…私じゃない人の痕が目について嫌なんだもん。」
「……だったら同じトコにおめーがつけりゃいいだろ?」
「そんな事するものなの?」
「同じ場所につければ後からつけた奴の残した痕って事になるだろ。」
「そっか。………つけてもいい?」
「嫌なんだろ? 勝手にしろよ。」
 横を向くゼフェルの鎖骨にアンジェリークが唇を寄せる。
 こそばゆさにゼフェルの身体がピクリと動いた。
 力を入れて吸い、そっと唇を離す。
「ついた………。」
「……気がすんだか?」
 自分のつけた痕を恥ずかしそうな笑顔でなぞるアンジェリークにゼフェルが苦笑する。
「うん。これで本当のお揃いですね。ゼフェル様。ゼフェルさ……………。」
 満足そうな笑顔を見せるアンジェリークにゼフェルは口付けた。
「……大好き。ゼフェル様。」
「俺もだ。」
 二人は何度も何度も呟いてその度毎に唇を重ねた。


「……お茶がすっかり冷めちゃった。」
 しばらくしてアンジェリークがゼフェルの腕の中でポツリと呟いた。
「そうだな。」
「もう一度、お湯沸かしてきます。お茶を入れ直したらまたお話しましょ。まだ時間はいっぱいあるんだもの。」
「ああ。……………ふぅっ。」
 アンジェリークがキッチンへ姿を消した直後、ゼフェルは大きな溜息をついた。
『たまらねぇよな。あいつにも……。』
 思わず苦笑する。
 惚れた弱みとでも言うのか、どうしても逆らえなかった。
『このままあいつに一生振り回されるのかな。俺。』
 冗談じゃないと思う反面、それでも構わないとつい思ってしまう。
 キッチンの方でアンジェリークが鼻歌を歌いながらお茶の準備をしている。
 昨夜の寝不足も手伝ってか、心地よい睡魔に襲われたゼフェルはいつの間にか眠り込んでしまった。
「ゼフェル様。お待ちどうさ……。ゼフェル様? 眠っちゃってるんですか?」
 熱々のポットを持ってきたアンジェリークが椅子に腰掛けたまま眠っているゼフェルに笑顔を見せる。
「……もう。ゼフェル様ったら。風邪ひきますよ。」
「ん……。アンジェ……………。」
 ゼフェルを軽く揺すったアンジェリークが寝言で自分の名を呟くゼフェルに顔を赤くする。
「……や…嫌だ。ゼフェル様ったら。………知ーらない。眠っちゃったゼフェル様が悪いんですからねー。」
 ゼフェルの寝顔を見つめていたアンジェリークはペロッと舌を出してゼフェルの傍らに膝をついた。


「おっはよー。ゼフェル。回覧板だよん。……ん?」
 翌日、ゼフェルの執務室を訪れた夢の守護聖オリヴィエがゼフェルの姿を見るなり驚いたような顔をして見せた。
「なぁに? あんたそんな格好して……。珍しいじゃない。首の詰まった襟の高い服は嫌いだったんじゃないの? いつもの服はどうしたのさ。」
「汚れたんで洗濯に出したらこれしか着るモンが無かったんだよ。」
「ふーん。……そう言えばさぁ。アンジェリークもいつもの制服姿じゃなくてハイネックのセーター着てたのよね。あんた達…昨日デートだったわよねぇ〜。」
『………あの莫迦野郎。』
「……まっ。私には関係ないわよね。じゃあね〜ん。」
 顔を赤くするゼフェルを面白そうに眺めてオリヴィエは出ていった。
『…ったく。あの様子じゃ他の奴等にバレるのも時間の問題だよな。……っかしよぉ。やるか? 普通?』
 洗面所に移動したゼフェルが着ていたシャツの襟元を下に引っ張りながら心の中でぼやく。
 ゼフェルの首筋、いつもの服では到底かくしきれない位置に残った見事な赤い痕が、くっきりとその存在をアピールしていた。


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