マリオネット


「アンジェリーク。本当にお前は何て醜い娘なんだろう。……お行き。私の魔力でお前は美しい娘の姿に変わっている。その美しい姿で男達を虜にするんだよ。そして虜になった若い男をここへ連れておいで。それが私の魔力の源。私が魔法をかけなければ醜いお前を気に止める男などこの世に存在しないのだからね。」
「………はい。奥様。」
 目の前で甲高い声で笑う妖艶な美女にアンジェリークと呼ばれた少女が黄金色に眩しく輝く髪を揺らして頭を下げる。
 深い海の色を湛えた彼女の瞳が悲しげに揺れていた。


 ギシッ。
 いつも聞こえる扉の音とは確実に違う音に本を読んでいた店の主人が顔を上げる。
「あんたがルヴァか?」
 扉の所に立っていた一人の少年がそう言って一歩前へ足を踏み出す。
 ギシッ。
 聞き慣れない金属音は銀髪の少年が足を踏み出す度に店の中に響いていた。
「あー。そうですけど。何か?」
「町の奴等にあんたがこの町で一番の物知りだって聞いて来た。」
「はぁ。そう言われると照れますねぇ。こんな商売をしてますから自然と物も情報も集まって来るんですよ。本を読めばある程度の知識もつきますしね。で、あなたはどちらをお求めですか? 品物ですか? それとも………。」
「ここに…ほくろのある魔法使いのババアを探してる。」
 ギシッ。
 手袋をしたままの左手までが軋んだ音を立てる。
 そんな音に少年は不快そうに眉を寄せながら自分の右目の下を指さした。
「魔法使いをお訪ねならマジックギルドに………。」
「そのババアはとっくの昔に追放されてんだよ。」
 ルヴァの言葉に少年はあっさりと言い放つ。
「ギルドを追放…ですか? 女性で……。んー。そんな珍しい話は聞いたことがありませんけどねぇ。」
「そうか。邪魔したな。」
 クルリと背中を向けて出て行こうとした少年が、ふと、何かを思い出したかのように踵を返す。
 ギシギシギシッと軋んだ音が暗い室内に響いた。
「あー。まだ何か……?」
「この辺りで若い男が行方不明になるって話は聞いたことあるか? 多分…俺ぐらいの年の奴等だ。」
 魔法使いと若い男の行方不明事件。
 接点の全く見当たらない言葉にルヴァは目をぱちくりとさせた。
「ねぇのか?」
「あ…あー。それでしたら、ここから一里ほど森の奥に入った所に小さな村があるんですよー。そこで最近、あなたぐらいの年の少年達が何人か森の中に入ったきり戻ってこないと言う話を聞いてますけど……。」
「この奥…か。判った。サンキュな。」
「あっ! あのー………。」
 ギシギシと音を響かせながら店を出ていこうとする少年をルヴァは慌てて呼び止めた。
「…んだよ。」
「その……冒険者の方ですよね。失礼ですけどその義足。大分軋んだ音をたててますから新しい物と交換したら如何ですか? ちょうど新しい物が入荷してますし……。そのままでは不自由でしょう。」
「……………義足なんかじゃねーよ。」
「は?」
 嫌そうに顔を歪めてボソリと呟いた少年が呆気に取られたままのルヴァに背中を見せる。
 キイッキイッと聞き慣れた音を立てて扉が揺れていた。


 滝の流れ落ちる小さな泉で水浴びをしていたアンジェリークが水面に映る自分の姿を見つめる。
 黄金に輝く金色の髪も深い碧の瞳も…自分でも綺麗だと思えるものだった。
 バシャンと水面を揺らす。
 だけどアンジェリークはこの姿が嫌いだった。
 この森に入った男達は皆、魔女のかけた魔法により方向感覚を失いアンジェリークの元にやってくる。
 そしてこの姿を見て…邪な思いを抱くのである。
 魔女の元を逃げ出すことは簡単なはずだった。
 しかし……………。
『お前は何て醜い娘なんだろう。』
 毎日のように言われ続ける言葉がアンジェリークを魔女の元に縛り付けていた。
 自分でも見た記憶の全く無い…本当の姿に戻ってしまうのが怖くて仕方なかった。
 魔女の言う通り、男達に見向きもされないような醜い姿に戻ってしまうのが嫌でアンジェリークは魔女の元を離れることが出来なかった。
 パシャッとアンジェリークが顔に水をかける。
 揺れる水面に水滴を滴らせる赤い唇が映る。
 アンジェリークはそんな唇を強く擦った。
 幾人もの男達が欲望のままに口付けるこの唇には嫌悪感しか持てなかった。
 邪な欲望のままにアンジェリークに口付けた男達は皆、魔女の魔力の虜にされる。
 そして自我を失い魔女の元で動けなくなるまで生気を吸い取られ続けるのだった。
 パシャッともう一度、顔に水をかける。
 身体中に冷たい水を浴びたアンジェリークはゆっくりと岸辺に向かい自分の服に手を伸ばした。
「……キ…キャーッ!」
 茂みの向こうの赤い瞳と目があってアンジェリークは悲鳴を上げて身体を隠すようにその場にしゃがみ込んだ。
「わ…悪りぃ。水音がしたんで何かいるのかと………。」
 呆然とアンジェリークの姿を見つめていた少年が彼女の悲鳴に我に返って背中を向ける。
「よぉ。おめーに聞きてー事があるんだけどよ。」
「……聞きたい事?」
「ああ。取り合えず…こいつを着ちゃってくれ。」
 茂みに引っかけてあったアンジェリークの服を耳まで真っ赤にさせた少年が背中を向けたまま投げてよこす。
「あの…聞きたい事って……。」
 大急ぎで服を着たアンジェリークが恐る恐る少年の背中に声をかけた。
 魔女の魔力で方向を見失いここに辿り着いたのだろう。
 何も身につけていない自分の姿を見られたのだ。
 目の前の銀髪の少年が振り向いた直後に何をしてくるのか…アンジェリークには嫌と言うほど判っていた。
「もう…良いのか?」
「は…い……。」
 震える声で返事をしたアンジェリークは振り返った少年の赤い瞳に引き込まれた。
『なんて…綺麗な………。』
「悪りかった。こんな森の中に女がいるとは思わなかったからよ。」
「あ。いいえ。」
『あれっ?』
 振り返っても一向に自分に近づいて来ようとしない少年にアンジェリークは心の中で首を傾げた。
「道に迷っちまったらしいんだ。この森の奥に小さな村があるって聞いたんだけどよ。おめー。その村の奴か?」
『自制心の強い人なんだわ。この人。』
 少年の言葉に首を振りながらアンジェリークは思った。
 魔力により少年は確実にここへと導かれてきている。
 だと言うのに、自分に何もしてこない。
 今までアンジェリークの目の前に現れた男達の中にも少年のように自分に何もしない自制心の強い男はいた。
 しかしアンジェリークはそんな男達の自制心を崩さなければならなかった。
 魔女の元へ連れていくために………。
「そうか。違うのか。だったら…おめー。村へ行く道を知っているか?」
 少年の言葉にもう一度首を振る。
「私は…この森の中に一人で住んでいるんです。あの…もう暗くなります。夜の森はモンスターが出て危険です。ですから…うちに泊まっていって下さい。」
 言いながら心の中で『ああ』と小さく呟く。
 今、目の前にいる自制心の強いこの少年を魔力の虜にするために夜の時刻を共に過ごさなければならないのだ。
 何よりも一番恐怖を感じる事だがアンジェリークは我慢しなければならなかった。
 何故ならどんなに強い自制心を持っていたとしても、魔力の強まる夜の闇に男達の自制心はあっさりと崩されるからであった。
「おめー……。本気で言ってんのか?」
 アンジェリークの言葉に少年は眉をひそめる。
「えっ?」
「……一人で暮らしてんだろ? なのに見ず知らずの男を泊めようってのか?」
「あの…でも……。この辺りは道も狭いし崖も多いから…暗くなるのが早いからあまり動き廻らない方が安全なんです。本当に夜は危険なんですよ?」
「……………。」
「あの……。」
「ゼフェルってんだ。そこまで言うなら一晩だけ厄介になるぜ。おめー…名前は?」
「アンジェリーク…です。」
 じっと自分を見つめるゼフェルの射るような赤い瞳にアンジェリークは心の中の全てを見透かされているような気持ちで名前を告げていた。


「本当にこの辺りは暗くなるのが早えぇんだな。」
「ええ。それに暗くなるとモンスター達が狂暴性を増すんです。あの…良かったらこのベッドを使って下さい。」
 ゼフェルを家に招き入れたアンジェリークが自分のベッドを指さす。
 より具体的な物を示せば示すほど男の自制心が崩れやすい事をアンジェリークは知っていた。
 しかし、そんなアンジェリークをゼフェルは呆れたように見つめていた。
「俺をそこで寝かせて…おめーは何処で寝る気なんだよ。これはおめーのベッドだろ?」
「あ…私はその辺に………。」
「莫迦か。おめーは。」
「えっ? ……きゃあっ!」
 突然抱き上げられたアンジェリークが悲鳴を上げる。
 ボスンっとベッドに投げ出されてきつく瞳を閉じた。
 恐れていたことが始まろうとしている。
 しかし、それに耐えなければならなかった。
 キスさえされれば…それだけ我慢すれば良いのだ。
 ゼフェルが自分にキスをすれば…それでゼフェルの自我は失われる。
 ただ、身体全体で男の体重を感じる恐怖感だけはいつまでもアンジェリークの中に残るのだが………。
「……………?」
 いつもならとっくの昔に相手の体重を身体全体に感じている。
 なのに今日はいつまでたっても身体は軽いままだった。
 恐る恐る目を開けるとゼフェルは持っていた荷物から取り出した寝袋を床に広げ潜り込む所だった。
「あ…あのっ!」
「おめーはそこで寝ろ。俺はこれがあるから。」
 思いも寄らぬ展開にアンジェリークが慌てて起き上がりベッドに腰掛ける。
「でも…それじゃ……。疲れが………。」
「こいつは雨露さえしのげればおめーのベッドと同じくらい万能なんだよ。じゃな。」
 ポカンとしているアンジェリークをそのままにゼフェルは明かりを消して寝袋の中に頭まですっぽりと潜り込む。
『なんて…意志の強い…人。でも…どうしよう。』
 暗い室内の隅にこんもりと丸く見えるゼフェルの寝袋を見ながらアンジェリークが思う。
 おそらく魔女は既にアンジェリークの元に男が来ていることを知っているだろう。
 明日になって連れて行かなかったら…どんな目に遭うか判らなかった。
『奥様の魔力が効かないなんて…そんな事………。』
 半信半疑でベッドに横になる。
 もしかしたらそのうち自制心が崩れてゼフェルが起き出してくるかもしれない。
 アンジェリークはそう思って待つことにした。
 ゼフェルの方からギシリと軋んだ音が聞こえる度に身体をビクリと震わせながら………。


『………はぁ。』
 ベッドの上の人物が横になった気配に寝袋の中のゼフェルが心の中で深く溜息を漏らす。
 泉で水浴びをしている彼女の姿を見たときは水の精霊ではないかと思った。
 人間だと判って…強烈に抱きしめたい衝動に駆られた。
 彼女を抱き寄せ唇を奪い………。
 しかしゼフェルの身体はそんな欲望のままには動かなかった。
 彼女に何か違和感を感じたからだったのかも知れない。
 純金のような髪も海の色を映す蒼い瞳も今まで見かけた少女達の中でも群を抜く美しさだった。
 しかしゼフェルには何故かそれらが彼女には不釣り合いに感じたのだった。
 それにゼフェルには彼女に触れられない最大の要因があった。
『くそっ。』
 ギシッと動かした腕が軋んだ音を闇の中に響かせる。
 夜の闇は初対面である筈の彼女への想いをゼフェルの心の中に溢れさせ乱れさせる。
『くそっ!』
 そんな想いを振り払うかのように身体をギシギシと言わせながら寝返りを打つ。
 忌まわしい身体だが今の自分には都合が良かった。
 ギシギシという軋んだ音が彼女に触れても無駄だと言うことを自分に知らせているからだった。
 事実、先程抱き上げたとき、彼女の柔らかさも温かさもゼフェルには伝わってこなかった。
『早いトコあのババアを見つけねーと………。』
 遠い昔から脳裏に強烈に焼き付いている魔女の姿を思い浮かべてゼフェルは眠れない夜を過ごした。


『………信じられない。』
 結局、一睡もできなかったアンジェリークが目の前で旅支度を整えているゼフェルを呆然と見つめる。
 ゼフェル自身も眠れなかったらしい事は、赤い瞳が更に赤く見えることからも判断できた。
 と言うことは、魔女の魔力は確実にゼフェルに作用していたと言うことだった。
『どうして?』
 アンジェリークは頭の中で繰り返し問いかけた。
『私…奥様が美しいって言ってくださるこの姿でもこの人には魅力的に見えないのかな? この人に…ゼフェルにだったら良かったのにな。』
 アンジェリークは今まで考えたこともない…自分でも信じられない考えに顔を赤くした。
「じゃあ。世話になったな。」
「……あ。ううん。私は別に何もしてないから。ここから東へ真っ直ぐ歩けば道に出るから…気をつけてね。」
 戸口に立ってこちらを見ているゼフェルに笑顔を見せる。
 歩き出したゼフェルの背中をアンジェリークはいつまでも見つめていた。
『不思議な人。……良かった。私…ゼフェルを奥様の所に連れていきたくないもの。』
 魔女の所へ連れて行った少年達の姿を思い出してアンジェリークがポロリと涙を零した。
 ガリガリに痩せた身体にドロンとした虚ろな瞳。
 ゼフェルのそんな姿は見たくなかった。
『あんな人…初めてだった。』
 ゼフェルの姿を思い浮かべるとアンジェリークの胸の中に暖かいものが溢れる。
 今までずっと冷たいものばかりで埋め尽くされていたアンジェリークの胸の中に初めて暖かいものが生まれた。
『この気持ち…忘れないようにしなきゃ。』
 ゼフェルがアンジェリークに何かをしたわけではない。
 むしろ何もされなかったことでアンジェリークの中にゼフェルに対して何かが生まれたのだった。
 それが何なのかアンジェリークにはまだ判らない。
 しかし忘れてはいけない大切な感情だと言うことだけは判っていた。
「………あら?」
 部屋の掃除をしようと振り返ったアンジェリークはゼフェルが寝袋を広げていた辺りに光る物を見つけて大急ぎで拾い上げた。
「……ペンダント?」
 拾い上げた大振りのペンダントのトップをパカリと開く。
 中に入っていたのは若い男女と銀髪に赤い瞳の赤ん坊の写真。
『これって…ゼフェルの………。』
 一瞬、追いかけようとして足を止める。
 もしかしたらゼフェルは今、自分から離れて緊張を解いているのかもしれない。
 そんな時に自分がゼフェルの目の前に現れたら…彼の自制心はたちどころに崩れてしまうだろう。
 そうなってしまったら………。
『ううん。彼なら大丈夫。ゼフェルならきっと………。』
 怖い考えを振り払うように頭を振ってアンジェリークはゼフェルの後を追うように走り出した。


「……またか。さっきっから同じトコをグルグル回ってるぜ。どうやらドンピシャリみてーだな。…って事はまさかあいつが? ……まさかな。ん? ………ちっ。」
 魔力によってすっかり方向感覚を狂わされたゼフェルが戦闘態勢を整えている毒蛇の群に舌打ちをする。
 飛びかかる蛇の群を腰に下げていた剣で払いのける。
「ゼフェルっ!」
「ば…莫迦。来んなっ!」
 そんなゼフェルが息を弾ませながら近づいてくるアンジェリークに怒鳴った。
「えっ? きゃあっ!」
 ゼフェルの一瞬の隙をついた一匹が剣の切っ先を逃れてアンジェリークの素肌に牙を立てる。
「…ちっ。大丈夫か? おいっ! ………っそ。」
 毒蛇の群を全て退治したゼフェルが倒れたアンジェリークを抱き上げ傷口の毒を吸い出す。
 ゼフェルの胸に抱かれたアンジェリークの耳に時計の秒針が時を刻むような音が聞こえた。
『ああ…このまま……………。』
 意識の朦朧としているアンジェリークがゼフェルの左胸に頬をつけて瞳を閉じた。
 簡単な治癒魔法なら自分でも唱えることが出来る。
 だから毒蛇に噛まれた時も魔法を唱えようとした。
 でも慌てて近づき自分を抱き上げるゼフェルに唱えるのを止めてしまった。
「おいっ! しっかりしろっ! ……毒消しだ。飲めっ!」
 口元にクスリの入ったビンを近付けるゼフェルにアンジェリークは弱々しく首を振った。
『このまま…あなたの腕の中で眠らせて。もう良いの。これで…これで良いの。あなたに抱かれて…初めて感じた暖かいものを持ったまま眠りたいの。』
 アンジェリークの閉じた瞳からツーッと一筋の涙が零れ落ちる。
「おいっ! 飲めってのが聞こえねーのか! ……っ。」
 突然、唇に温かさを感じてアンジェリークが目を開ける。
『な…何を………。駄目っ!』
 自分の唇を塞いでいるゼフェルにアンジェリークは力無く腕を突っ張った。
 唇を無理矢理こじ開けられたと思ったら口の中に液体が流れ込む。
 コクリと上下する喉に毒消し特有の苦みが広がった。
「………はぁ。」
 一度離れた唇が上下する喉を確認して安堵の溜息を漏らすと再びクスリを口に含む。
『駄目! ゼフェル! 私にキスしたらあなたは………。』
 唇にゼフェルを感じながらアンジェリークが再び涙を流した。
 これでゼフェルは虜になってしまったのだ。
 今まで魔女の元に連れていった男達と同じ道をゼフェルは辿ってしまうのだ。
「…っし。全部飲んだな。大丈夫か? アンジェリーク。」
『えっ?』
 凛と響くゼフェルの声にアンジェリークは驚いたように目を見開く。
「もう大丈夫だな。……おい。俺の言ってる事が判るか?」
 呆然と自分を見つめるアンジェリークの頬をゼフェルがペチペチと軽く叩く。
『……どうして? 奥様の魔力が効かなかったの?』
「…ったく。てめーの命が危ねーってのに毒消し飲むのを嫌がる奴なんて初めてだぞ。」
『あっ!』
 ゼフェルの言葉にアンジェリークは理解した。
 何故ゼフェルが虜にならなかったのかを。
 魔女の魔力は邪な思いを抱いたまま自分に口付ける者に対して効力を表す。
 しかしゼフェルは純粋に自分の命を助けるためだけに口付けたのだ。
 だから…だから虜にならなかった。
 嫌悪感しか持っていなかった唇がゼフェルに触れられたことでとても愛しいものに変化した。
「こ…れ……。」
「ん?」
 大切に握りしめていたペンダントをゼフェルに手渡す。
「俺の………。」
「部屋に…落ちてたから。」
「こんなモンのためにわざわざ……。すまねぇ。アンジェリーク。」
 ギュッと身体を抱きしめるゼフェルにアンジェリークは息が止まりそうな程の安堵感を覚えた。
 今まで数え切れないほどの男達に抱きしめられてきたがこんな想いを感じるのは初めてだった。
『私…この人が…ゼフェルが……………好き。』
 アンジェリークの中に生まれた暖かいものがようやく形を作る。
 震える指先でゼフェルの背中に手を回したアンジェリークがそのまま縋り付こうとして躊躇する。
 魔女の魔力がかかっているのだ。
 この森全体にも自分自身にも………。
 きつく瞳を閉じてゆっくりと手を戻す。
 してはいけない事だった。
 してしまったら…ゼフェルに縋り付くような真似をしてしまったら今度こそ彼は欲望のままに走り出し、虜になってしまうだろう。
「アンジェリーク。」
 名前を呼ばれてゆっくりと瞳を開いたアンジェリークはゼフェルの背後で巨大な蛇が狙いを定めているのを知った。
「ゼフェ…後ろ……………。」
 アンジェリークの言葉にゼフェルが振り返ったのと大蛇が飛びかかってきたのはほぼ同時だった。
 アンジェリークを庇うような動きを見せたゼフェルの右腕に大蛇が牙を突き刺す。
「ゼフェルっ!」
「向こう向いてろ。」
 先程自分に牙を立てた小さな蛇の毒とは比べものにならない程の威力を持っている蛇である。
 そんな大蛇に噛まれたうえに右腕を締め付けられたままだと言うのにゼフェルは冷静に言い放った。
「だって…ゼフェル。噛まれて………。」
「良いから向こうを向いて…耳塞いでろっ!」
 左手で大蛇の頭を抑えながらゼフェルが怒鳴る。
 そんなゼフェルの迫力に押されてアンジェリークが背中を向ける。
「ギャッ!」
 耳を塞ぐのに間に合わなかったアンジェリークの耳にグチャッと何かを潰す音と共に断末魔の悲鳴が聞こえた。
 次の瞬間、スゥーッと血の気が引いたアンジェリークは意識を失ってしまった。


 うっすらと目を開けると薄暗い室内に見慣れた天井が見えた。
『あれは…夢だったの?』
「気が付いたか?」
 ぼんやりと考えていたアンジェリークの視界にゼフェルが入り込む。
「ゼフェル? ………ゼフェルっ! あなた…傷。蛇に噛まれて…毒は………。」
 意識を失う直前のことを思い出してアンジェリークが飛び起きる。
「平気だ。」
「平気って…だってゼフェル。あの時、毒消しは全部私に飲ませて……。傷…傷口見せて……。」
「平気だって言ってっだろ? 止せっ!」
「!」
 制止の声を振り切りゼフェルの右腕の袖をまくり上げたアンジェリークが褐色の肌が所々に見える冷たい金属片と無数の配線コードが絡み合った腕に息を止める。
「離せっ! だから止せって言ったんだ。………アンジェリーク。おめーに聞きてー事がある。」
 生身と機械の共存している…そんな異様な姿を恐れたアンジェリークが弾かれたようにゼフェルから離れる。
「聞きたい…事? 村への道じゃなくて………?」
「ここに………。」
 ギシリとゼフェルの左腕がアンジェリークの顔に伸びる。
「ちょうどこの辺だ。ここにほくろのある魔法使いの女を探している。」
 手袋をしたままの…温かさを微塵も感じないゼフェルの冷たい指先を右目の下に感じたアンジェリークが目を大きく見開く。
「やっぱ知ってんだな。そのババアは今、何処にいる?」
「知らな……………。」
「アンジェリークっ!」
 俯いて横を向いてしまったアンジェリークの二の腕をゼフェルが掴む。
「おめーがそのババアに何の弱みを握られてんのかは知らねー。でも…俺がおめーを解放してやる。だから教えてくれ。あのババアは何処にいる? 俺は何が何でもあのババアを退治しなくちゃなんねーんだ。」
「………退…治?」
 ゼフェルの言葉にアンジェリークが戸惑ったように顔を上げた。
「そうだ。」
「どうし………あっ!」
 どうして? と聞こうとしたアンジェリークがゼフェルに抱きしめられる。
「ゼ…ゼフェル?」
「俺の…心臓の音を聞いてみろ。」
 小さく身じろぎしたアンジェリークがゼフェルの言葉に左胸に耳をつける。
 チッチッチッチッチ。
 時を刻む時計の秒針のような音にアンジェリークが目を丸くしてゼフェルを見上げた。
「……俺の両親は冒険者だった。あれは俺が五つの時だ。偶然立ち寄った町で若い男が何人も行方不明になるんで調べてくれと頼まれた親父達は森の中で右目の下にほくろのある魔女と対峙した。そいつは強かった。茂みに隠れて見ていたガキの俺の目にも親父達が苦戦しているのが判った。だから俺は木に登って…短剣を構えたまま魔女の頭の上から飛び降りたんだ。背中縦一文字に大きな傷が出来て…ヨロヨロになった魔女は鬼ババア見てーな形相で俺を睨み付けて…呪文を唱えて燃えて消えた。」
「やっつけたの?」
「俺達はそう思ったさ。だけど一年ほどしてそうじゃねーって事が判った。俺の身体がおかしくなったんだ。最初は暑さ寒さが判らない程度だった。そのうち痛みとか感覚まで判らなくなって…六つの時に足の一部の皮膚が金属に変わっていた。」
 淡々と続けるゼフェルをアンジェリークは黙って見つめていた。
「親父とお袋は大慌てで俺をマジックギルド直轄の教会に連れていった。そこで初めて魔女が俺に呪いをかけていたことが判った。もう…頭以外の殆どは機械に変わっちまってる。早えぇトコ魔女を退治しねーと俺はこのまま全身が機械になって錆びて死ぬ。タイムリミットは…多分あと三年ぐらいだ。………アンジェリーク?」
「こんなに…柔らかいのに?」
 自分の頬に手を伸ばして涙を零すアンジェリークをゼフェルは黙って見つめた。
「頬だって唇だって…こんなに柔らかいのに………。」
「でも温かくはねーだろ。もう血は通ってねーからな。」
「ゼフェル……………。」
 ギュッとしがみつくようにアンジェリークがゼフェルを抱きしめた。
『いけないっ!』
 思ったときには既に遅かった。
 ビクリとゼフェルの身体が硬直して…アンジェリークはベッドの上に押さえつけられていた。
「ゼ…ゼフェル。お願い。正気に戻って………。」
 首筋にゼフェルの冷たい唇を感じてアンジェリークが泣きながら叫ぶ。
 夜の闇が魔女の魔力が強めているのを知っていた筈なのに…切なそうな表情を見せるゼフェルを抱きしめたい衝動に駆られた。
 そしてアンジェリークは我慢出来なくなってゼフェルを抱きしめてしまったのだった。
 ゼフェルの自我が失われてしまう。
 それだけは何が何でも阻止しなければならなかった。
「痛っ!」
 右の胸を掴まれてアンジェリークが叫んだのとゼフェルの左手がギシリと軋んだ音をたてたのはほぼ同時だった。
 ハッ! と我に返ったような表情をゼフェルが見せる。
「……くそっ!」
 アンジェリークの顔の両脇に手を置いたゼフェルが吐き捨てるように呟いてギリリと拳を作る。
「ゼフェル………。」
「……おめーを感じてぇ。おめーの柔らかさや温かさや…おめーの全部に触れて感じて……。でも今の俺の身体じゃ何も感じられねーんだ。」
「だから…夕べ私に何もしなかったの? 今も……。」
「……………ああ。」
「良かった。」
 苦悶の表情を浮かべるゼフェルにアンジェリークが涙を浮かべながら笑顔を作る。
「何が良い……………。」
 怒鳴りかけたゼフェルが再び自分の唇に触れるアンジェリークの指に硬直する。
「……てめっ。誘ってる気かよ。」
「そうじゃない。そうじゃないけど…そう取られても仕方ない。魔法がかけられてるの。私には。道に迷って私の所に来た男の人達。皆、我を忘れて私に口付けて…自我を失って奥様に生気を吸い取られるの。ゼフェルがそんなことにならなくて本当に良かった。明日…夜が明けたら奥様の所に連れていってあげる。」
「ホントか?」
「うん。」
 コクリと頷くアンジェリークの乱れた前髪をゼフェルがそっと払う。
「アンジェリーク。おめーにキスしてぇ。」
「……駄目。そんなことしたらゼフェルが奥様の魔力の虜になっちゃう。」
「魔女のババアを退治するまでのお預け…か?」
 弱々しく首を振るアンジェリークに苦笑しながらゼフェルが身体を離す。
「明日…ババアの所へ行く前にふもとの町で買い物がしたい。道案内頼めるか?」
「うん。」
 もう一度アンジェリークがコクリと頷く。
「………もう寝ろ。」
「ゼフェルもね。おやすみなさい。」
「おやすみ。アンジェリーク。」
 寝袋の中に潜り込んだゼフェルは規則正しいアンジェリークの寝息を確認してから明かりを消して、明日の決戦のための眠りについた。


 ギシッ。
 つい最近聞いたばかりの軋んだ音にカウンターの商品を並べ変えていたルヴァが慌てて振り返る。
「あっ! あー。あなた! 無事だったんですねぇ。」
「よぉ。……無事って?」
「先程、森の奥の村人が何人か来たんですよ。心配だったからあなたのことを聞いてみたらそんな人間は来てないって言うじゃないですか。ですから私はてっきりあなたも行方不明になったんだと………。」
「そうか。心配かけて悪りかったな。それより…あんま時間が無ぇんだ。この店で抗魔力の一番強えぇ防具を一式見せてくれ。」
「は? ……あっ! ああ。はい。はい。」
 ゼフェルの言葉にルヴァは大慌てでカウンターの奥にある倉庫の中へ入っていった。
「えっと…こんな所なんですけどねぇ。」
 しばらくしてルヴァは両手いっぱいに荷物を持って戻ってきた。
「あの…お探しの魔法使いの女性って……。戦うお相手だったんですか?」
「ああ。」
「そんな身体で………。」
 ゼフェルが動く度に室内に響く軋んだ音にルヴァが眉を寄せる。
「こんな身体だからこそ尚更やんなきゃなんねーんだよ。………ん? おい。こいつは何だ?」
 キラキラと光るガラス繊維の素材のような布を手に取ったゼフェルが不思議そうに尋ねる。
「えっ? あっ! すみません。慌ててたんで女性用まで持って来ちゃいましたねぇ。これはどんな強力な攻撃魔法も完璧に弾き返す女性専用のドレスなんですよ。」
「完璧に? ………マジか?」
「はい。マジックギルドの保証書付きです。そのせいでちょっと…いえ、かなりお高いんですけどね。」
「これで足りるか?」
 ドサリとカウンターにお金の入った布袋を置く。
「はっ? あの…でもこれは女性専用で………。」
「良いんだよ。着れる奴がいるんだ。」
「………ああ。どなたかとパーティを組まれたんですね。ええっと…はい。これだけ頂戴しますねー。それと…こちらの盾はサービスしますよー。抗魔力のかなり強い物ですからきっとあなたのお役に立つと思いますよ。」
「おい。それだけで本当に足りてんのか?」
 袋の中身の三分の一ほどの金貨しか取らないルヴァにゼフェルが怪訝そうな顔をする。
 もっと高い武器を買った事もあるのだ。
 ギルドの保証書付きならば…あの時の物よりはるかに値がはる筈である。
「良いんですよ。これからお金は今まで以上に必要になりますよー。女性との二人旅になるんですからねー。」
 ドレスや盾と一緒にお金の入った布袋を戻すルヴァにゼフェルは戸惑ったようにそれらを受け取った。
「……思い出したんですよー。昔…旅の最中にモンスターに襲われましてねぇ。危ない所を冒険者のご夫婦に助けて頂いたんです。銀髪に赤い瞳の赤ちゃんを連れていましてねぇ。……あの時のご恩返しですよ。」
「……………。」
 ルヴァの言葉にゼフェルが目を丸くする。
「あの時の赤ちゃんがこんなに大きくなって…立派な冒険者になってこうしてお会いできる日が来るなんて夢にも思いませんでしたよ。あっ! そうそう。忘れてました。お探しの女性についてマジックギルドの方に確認を取ったんですよ。悪しき魔女と言い伝えられている女性なんですね。で、ですね。もしその女性と戦うのならこれを使うようにとギルドの方から渡された品がありますからこれも持っていって下さい。」
「…んだ? これ?」
 カウンターの下から取り出した白木の柄の小さな短剣をゼフェルが手に取る。
「聖なる力を宿した木を使い聖水で清めた短剣です。それを心臓に打ち込めば…その女性は二度と復活しないそうです。魂が清められ天に召されるそうですから。」
「………ありがたく貰ってくぜ。」
 短剣を腰に差したゼフェルが背中を向ける。
「お気をつけて。御武運を祈ってますよ。あの…全てが終わったらそのドレスを着た女性と必ずうちの店に寄って行って下さいねぇ。」
「……ああ。」
 ルヴァの言葉にゼフェルが振り返り苦笑する。
 キィキィと揺れる扉をルヴァはいつまでも見つめていた。


「おや。アンジェリーク。やっと連れておいでかい? 今回は随分と手間取ったみたいだねぇ。もう一日遅かったらお仕置きをしなければと思っていた所だよ。」
「申し訳ございません。奥様。この人…とても意志の強い人だったから………。」
 頭から布を被ったゼフェルを伴い魔女の元へやってきたアンジェリークが顔を強ばらせながら頭を下げる。
「意志の強い男は大好きだよ。」
「冗談じゃねーよ。てめー見てーなババアに好かれても嬉しくとも何ともねーぜ。」
「何だって?」
「よぉ。ババア。俺を覚えてるか?」
 アンジェリークの前に出たゼフェルが頭から被っていた布を取る。
「?」
「へっ。やっぱ見かけだけ若くてもババアはババアだな。耄碌して覚えてねーか。これを見ても思い出せねーか?」
 そう言いながらゼフェルが手袋を外し褐色の人間の皮膚と金属片の混ざりあった異様な姿をさらけ出す。
「お前は………?」
「…んだよ。まだ思い出せねーのか? こいつを見れば…てめーの背中の傷が疼くかと思ったのによ。」
 ニヤリと笑うゼフェルに魔女が目をむき出して鬼女のような形相になる。
「お前はあの時の………。アンジェリークっ!」
 すさまじい形相で叫んだ魔女がアンジェリークを庇うように立ち位置をずらしたゼフェルに目を細めた。
「お前…その娘に惚れたね?」
「ああ。それがどうした………何がおかしいっ!」
 自分の返事に高笑いを始めた魔女にゼフェルが怒鳴る。
「莫迦な男だよ。お前は。その娘…美しいだろう。惚れて当前だよねぇ。でも私の魔力で美しい姿になっているって事を知っておいでかい? ……アンジェリーク。お前も莫迦な娘だよ。私がいつも言っていただろう。私の魔力が無くなれば醜いお前を気にとめる男なんていないと。それとも知っているのかい? この娘の醜い本当の姿を。」
 魔女の言葉にアンジェリークが震える。
 まだゼフェルに話してない…知られたくない事なのだ。
「………関係ねーよ。俺はこいつの見た目に惚れた訳じゃねー。てめーの魔法がかかってようとかかってなかろうと俺には関係ねーんだ。」
「ゼフェル……………。」
 ゼフェルの言葉にアンジェリークは心底嬉しそうにゼフェルの名前を呟いた。
「面白い事をお言いだね。ふん。大人しく錆ついて死んでしまえば良かったものを。わざわざ目の前に現れてくるなんて。楽な死に方はさせないよ。私の背中に傷をつけてくれたお返しは十分にさせて貰うからね。」
「下がってろ。アンジェリーク。」
 呪文を唱えだした魔女に向かって剣を構えたゼフェルが走り出す。
 アンジェリークはそんなゼフェルに向かって呪文を唱えだした。
「黒こげになっておしまいっ!」
 すさまじい轟音とともに雷がゼフェルに落ちる。
「くっ。」
『………ん?』
 持っていた盾で雷を受け止めたゼフェルが普段よりダメージを受けない身体を訝しく思い頭を捻る。
 走る勢いを殺さずそのままに魔女に切りつける。
「………ちっ。」
 到底傷つけることは適わないだろうとゼフェルは思っていたのに、浅く傷を負った魔女が舌打ちをする。
『何だ?』
 よくよく自分の身体を調べるとキラキラと輝く光りが自分の身体を包んでいた。
 ハッ! として後ろを振り返る。
 アンジェリークが胸の前で手を組んで一心不乱に呪文を唱え続けていた。
 抗魔力のあがる呪文と防御力のあがる呪文。
 体力回復の治癒呪文に攻撃力増加の呪文。
 アンジェリークは知っている限りの呪文を唱えてゼフェルをサポートしていた。
「ゼフェルっ! 後ろっ!」
 アンジェリークが自分を見ているゼフェルに気付いて悲痛な叫び声をあげる。
 振り返ったゼフェルは腹部に魔女の放った攻撃魔法を受けて吹き飛ばされた。
「ゼフェルっ! ……………。」
 腹部を押さえているゼフェルにアンジェリークがすかさず治癒呪文を唱える。
 闘いは長引いた。
 魔女の力は強大だったし、どんなにダメージを負わされてもアンジェリークのサポートによりゼフェルの体力が復活していたからだった。
 しかしその内、アンジェリークの魔力が弱まってきた。
「アンジェ! 荷物の中に赤い丸薬がある。それを飲め!」
 フラリと疲労でよろけるアンジェリークを視界のはしに捉えたゼフェルが叫ぶ。
 言われた通りにアンジェリークがゼフェルの荷物の中から赤い丸薬を取り出しそれを飲むと弱まっていた魔力が回復した。
「万能薬だ。ヤバイと思ったら飲めっ! 良いなっ!」
「ええい。このままではラチがあかぬわ。」
 魔女は何度ダメージを負わせても疲れを知らずに立ち向かってくるゼフェルに歯ぎしりをした。
 自分の周りに強力なバリアを張ると瞳を閉じて長い長い呪文を唱えだした。
『一気に勝負をつける気だな。』
 そんな魔女の姿にゼフェルが魔女の周りを取り巻くバリアを剣で叩き壊し始める。
 魔女が呪文を唱え終わる前に切りつけようと思ったのだ。
 アンジェリークの補助魔法により攻撃力を増しているゼフェルの力にバリアは徐々にその範囲を狭めていった。
「こいつで…バリアはブッ壊れるぜ。」
 ゼフェルの振り下ろした一撃でパリーンっとガラスの割れるような音を立ててバリアが粉々に砕けたのとほぼ同時に魔女がカッ! と目を見開いた。
 そんな魔女の姿にゼフェルは慌てて後ろに飛び退き臨戦態勢を整えた。
 ゼフェルの周りにはアンジェリークが唱えた補助魔法が幾重にも円を描いている。
「忌々しい。最強の呪文でもって何もかも燃え尽くしてくれるわ。お前からだよ。愛しい女が生きながら燃える様をじっくりと味わうと良い。アンジェリークっ! 消し炭におなりっ!」
「しまっ……。アンジェ!」
 魔女の矛先が自分でないことを知ったゼフェルが慌てて魔女とアンジェリークの間に割って入る。
 しかし、それより早く魔女の放った呪文はアンジェリークの身体を包み込んだ。
「きゃ……………。」
「ギャーッ!」
 キン…と乾いた音が聞こえたと同時にもの凄い悲鳴があがる。
「アンジェ………。」
 何があったのか判らず呆然とその場に膝をついているアンジェリークを確認したゼフェルが魔女の方に向き直る。
 舞い上がる炎の中に魔女の姿があった。
「お…おお……。な…ぜ………。」
 業火に身を焼きながら魔女が一歩、足を踏み出す。
「今まで半信半疑だったけどよ。マジックギルドの製品ってのもあながち無駄じゃねーみてーだな。」
「マジッ…クギル……ド?」
「どんな強力な攻撃魔法も跳ね返すって代物だそうだぜ。おめーがギルドにいた頃にゃ無かった品だな。」
「お…のれ………。」
「…っと。こいつもギルドからの調達品だ。二度と復活すんじゃねーぞ。ババアっ!」
「ウギャーッ!」
 腰に差していた白木の短剣をゼフェルが魔女の心臓めがけて投げつける。
 断末魔の叫び声が屋敷中に響いた。
「んだ? ヤベェ。おいっ! 逃げるぞ。アンジェリーク。」
 ゴゴゴゴゴと地鳴りを起こして揺れ出した屋敷にゼフェルは未だに呆けているアンジェリークに走り寄った。
「おいっ! しっかりしろって。おいっ!」
 ピシャリとゼフェルがアンジェリークの頬を叩く。
「ゼ…フェル……………。」
「正気に戻ったな。逃げるぞ。」
「だ…駄目。腰が抜けちゃって立てない。」
「んだとぉ? …ったく。仕方ねーな。荷物持ってろ。落とすんじゃねーぞ。」
「うん…きゃっ!」
 ヒョイっとアンジェリークを肩に担ぎ上げたゼフェルは一目散に外へと走り出した。


「ここまで来りゃ大丈夫だろう。」
 草の上にアンジェリークを降ろしたゼフェルが息を弾ませながら呟く。
「奥様…死んだのね。今度こそ本当に。」
「さぁな。どうだかな。」
「ううん。判るの。だって…ゼフェルの肩は温かかったもの。それに手も足も軋んだ音がしないし………。」
 言われてゼフェルが慌てて自分の手を見る。
 冷たい金属片も配線コードも何処にも見当たらなかった。
「痛っ!」
 腰の剣で手の甲をなぞると痛みと共にスーッと一本の筋が血を滲ませた。
「は…はは。やったぜ。アンジェリーク。見て見ろよ。血だ。あのババアの呪いが解けたんだ。」
「駄目っ! 来ないでっ!」
 ゼフェルに背中を向けてアンジェリークは叫んだ。
「おめでとう。ゼフェル。良かったね。元に戻れて。でも……。私…やっぱり怖いの。ゼフェルは関係ないって言ってくれたけど…でもやっぱり醜い私を見たらゼフェルは私のこと嫌いになっちゃう。だから見ないで。」
「何言ってやがる。こっち向けよっ!」
「や…駄目ぇっ!」
「!」
 アンジェリークの腕を掴んで自分の方を向かせたゼフェルが息を呑む。
 アンジェリークは何処も変わってはいなかった。
 いや…強すぎる金髪は柔らかな太陽の色に変わり、深い蒼い瞳は木漏れ日に輝く森の色に変わっていた。
 彼女に対して感じていた違和感が何処かに吹き飛ぶ。
 ゼフェルはアンジェリークに見とれていた。
「や…駄目っ! ゼフェル離して。私を見ないで。そんな…そんなにゼフェルが絶句するくらい醜いなら私を見ないで。このままここに置いて行って!」
 しかしアンジェリークはゼフェルの沈黙の意味を悪い方に捉えた。
 涙を零しながらゼフェルから逃れようともがく。
「ば…莫迦野郎っ! 醜いかそうでないか自分の目で確認しやがれっ!」
「きゃあっ!」
 バッシャーン。
 再びアンジェリークを担ぎ上げたゼフェルは初めて出会った泉の中にアンジェリークを落とした。
「……………私?」
 髪から水を滴らせるアンジェリークが徐々に静けさを取り戻す水面に映る自分の姿を呆然と見つめた。
 そっと自分の頬に手を当てる。
 水面に映る自分が同じポーズを取った。
「どこも変わっちゃねーだろ? アンジェリーク。」
「ゼフェル……ん。」
 泉の中にしゃがみ込んでいたアンジェリークが後ろからのゼフェルの声に振り返り唇を塞がれる。
「何一つ変わってねーよ。あのババア。おめーを自分の思い通りに動かす為に醜いなんて大嘘ぶっこいてたんだな。」
 唇を離したゼフェルが嬉しそうに呟く。
「あ………。」
 引き寄せられてアンジェリークが小さく声を上げる。
 今までで一番強く抱きしめられた。
 背骨が折れてしまいそうなほど強く。
「ゼフェ…痛い。」
 あまりの強さに…息が出来ないほどだった。
「………足りねぇ。」
「えっ?」
 ゼフェルの呟きにアンジェリークが不自由ながらもゼフェルの顔を見上げる。
「どんなに力を入れても足りねぇぐらいだ。ずっと…初めてこの泉で水浴びしているおめーを見てからずっとこうしたかった。」
「ゼフェル……。それって…奥様の魔力のせ………。」
 言いかけたアンジェリークの唇がゼフェルに塞がれる。
「あのババアは関係ねー。いや…そうだな。もし今の姿のままのおめーをあの時見ていたら…俺はあんな身体だって事も忘れておめーに口付けて……。とっくの昔に虜になってただろうぜ。おめーに魔法をかけてたあのババアに感謝しなくちゃな。」
 苦笑するゼフェルにアンジェリークが目を丸くする。
「ゼフェル…それって……。あの………。」
「…ったく。判れよ。おめーも。魔力で変えられてた前の姿より今のおめーの方がよっぽどマシだっつってんだよ。それに…俺が想像してた以上だな。おめーの温かさも柔らかさも………。」
「ゼフェ………。」
 再び顔を近付けるゼフェルにアンジェリークがゆっくりと瞳を閉じる。
 今まで一度も味わったことのない…目眩がしそうな程の幸福感がアンジェリークを襲った。
「………行くぞ。」
「行くって…何処へ?」
 名残惜しそうに唇を離して泉から出るゼフェルにアンジェリークが尋ねる。
「さぁな。あてなんてねーから何処でも良いさ。ま。その前に町まで戻るぜ。あのルヴァの親父とも約束してっしな。………どうした?」
 泉の中に入ったまま動かないアンジェリークをゼフェルが怪訝そうに見つめる。
「行っても…良いの? 一緒に………。」
「来ねー気なのか?」
「だって…私……………。」
 今まで自分が魔女の元でしてきた事の数々が心の中で重りとなって残っているのだろう。
 動こうとしないアンジェリークにゼフェルは生身の左手を差し出した。
「来いっ! アンジェリーク。」
 差し出した手を戸惑いがちに握るアンジェリークの手を強く握り返してゼフェルが彼女を泉から引っ張り上げる。
「二度は言わねーからな。俺は…おめーを離す気はねぇ。……………行くぞ。」
 顔を見られないようにアンジェリークを抱きしめたまま呟いたゼフェルが歩き出す。
 耳まで赤くしているゼフェルに手を握られたままアンジェリークも真っ赤になってついていった。


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