ブルームーン・マジック


 夜空に半分だけのお月様が浮かんでいる。
 私は出窓に腰掛けてぼんやりと外を眺めながら彼の帰りを待っていた。
 ブロロロロ。
 遠くから聞き慣れたバイクのエンジン音が微かに聞こえて私の耳がピクリと動く。
 カンカンカン。
 鉄製の階段を一歩一歩昇る音が徐々に大きくなる。
 私は待ちきれなくなって出窓から飛び降りると扉の前でドアノブが廻るのをじっと待っていた。
「ニャア!(ゼフェル!)」
「ただい…アンジェ! 来んじゃねーっ!」
 ドアが開いたと同時に彼に飛びつこうとした私は怒鳴られて身体を竦ませる。
 そうだった。
 彼は…ゼフェルは仕事から帰ってくると汚れているからと言って私を抱いてはくれないんだった。
「あー。悪りぃ。悪りぃ。怒鳴っちまって悪かったな。でも…おめーもいい加減覚えろよな。ちょっと待ってろ。シャワー浴びてくっから。」
 ゼフェルはそう言って私の頭を油の臭いの染み込んだ大きな手で撫でてシャワールームに消えていった。
 私は…この中に入るの嫌いなの。
 あのシャーシャー出てくる水も後でフカフカになるけど変な匂いのシャンプーも嫌い。
 でも…不思議よね。
 身体中を洗って出てきた時の石鹸の匂いが混じったゼフェルの臭いは大好きなの。
 私は長いシッポをユラユラと揺らしてゼフェルがシャワールームから出てくるのを待った。
「待たせたな。アンジェ。良いぞ。」
 まだ水滴を滴らせている頭にタオルを載せたゼフェルがシャワールームから出てきて腕を広げる。
「ミャウ。(お帰りなさい。ゼフェル。)」
「ただいま。アンジェ。寂しかったか?」
「ナァウ。(うん。とっても寂しかったの。)」
 腕の中に飛び込んだ私を撫でながらゼフェルが優しく話しかける。
 私とゼフェルは猫と人間だけど…ちゃんとお話が通じるのよ。
 だって私はゼフェルが大好きで、ゼフェルも私のことを好きでいてくれるから。
 だからお互いに相手の言っている言葉が判るの。
「そっか。腹も減っただろ? 飯にしような。」
 真っ正面から私の緑の瞳を覗き込むようにして呟くとゼフェルは私を床に降ろしてキッチンに向かった。
 簡単な食事を済ませると私の大好きなゼフェルとのスキンシップタイムが始まる。
「…っとに。おめーは甘ったれだよな。アンジェ。」
 ソファに斜めに座ってテレビを見ていたゼフェルが胸に顔を擦り寄せる私に苦笑する。
 だって…ホントに寂しかったんだモン。
 ここは街からずっと離れた森の中で…ここに住んでいるのはゼフェルの唯一の親類で学者さんのルヴァさんとルヴァさんの奥さんのディアさんしかいなくて………。
 人が大勢いるゴミゴミした所は嫌いだから別に構わないし、二人ともとっても優しくしてくれるけど…私はゼフェルが側にいてくれる方がずっとずっと嬉しいんだモン。
 ゼフェルの大きな手が私の顎の下を撫でる。
「ゴロゴロゴロゴロ。……ッア。」
「……くっ。何だ。アンジェ。おめー。眠みぃのか? でっけー欠伸しやがって。………そうだな。もう寝っか。」
 喉を撫でるゼフェルの手があんまり気持ちよくて私は大きな欠伸をしてしまった。
 そんな私にゼフェルは目を細めて立ち上がると私を抱いて寝室へと向かった。
「お休み。アンジェ。」
「ナウ。(お休みなさい。)……………?」
 耳の付け根にキスを一つ落としたゼフェルの頬にうっすらと赤い跡があるのに気付いた私は前足をゼフェルの頬に伸ばした。
「何だ? ……あぁ。まだ残ってるか?」
 前足の肉球でゼフェルの赤みの残っている頬をさする。
 爪を出さないように細心の注意を払って………。
「ミャアウ。(ゼフェル。ここ…どうしたの?)」
「どうしたのか聞きてぇってツラしてんな。ちょっと前にここに連れてきた女がいただろ? ……痛っ。痛てて。こら。アンジェ! 爪、立てんじゃねーよ。」
 ゼフェルの言葉に私は思わず爪を立ててしまった。
「…ったく。ホントにおめーは女嫌いだよな。」
 そんなこと無いモン。
 だってディアさんは好きだモン。
 私が嫌いなのはゼフェルに近づいてくる女の人だモン。
「…ったく。怒ってねーからんな拗ねたツラすんじゃねーよ。ま、とにかくだ。そいつにひっぱたかれたんだよ。俺にはついて行けねーってな。ま。どっちみち向こうから勝手に寄ってきた女だからどーでもいーけど理不尽だよな。そー思わねーか? アンジェ。」
「ニャー。(莫迦な人よね。でも…良かった。)」
「こら。俺が振られたからって満足したようなツラすんじゃねーよ。おめーも原因の一つなんだぞ。」
「ニャ?(私が? 何で?)」
 ピンと鼻の頭を指で弾くゼフェルに私は不思議そうな顔をして見せた。
「ここに連れてきた時おめー。爪立てただろ。あいつに。しかもバッグで爪とぎしやがって……。何とかってブランドもんだとかで弁償させられて…散財したんだぞ。」
「ミィー。(ごめんなさい。)」
「……ちったぁ反省しろよ。んで判ったらこの次はんな事すんじゃねーぞ。俺達だっていつまでもルヴァの世話になる訳にはいかねーんだからな。」
「ナァウ。(はぁい。お休みなさい。ゼフェル。)」
 ゼフェルの言葉に私はペロリとゼフェルの唇を舐めた。
 ちょっとだけ驚いたような顔をしたゼフェルは赤い瞳を細めて私にキスをして眠りについた。


 ゼフェルがすっかり寝入ってしまった頃。
 私はそっとゼフェルの胸の中から抜け出して思いっきり伸びをしてゼフェルの顔のすぐ横に座った。
 半分だけのお月様が部屋の中を明るく照らす。
 スースーと寝息を立てて眠っているゼフェルの頬のうっすら赤い跡が目についた。
 あのね…ゼフェル。
 私…猫で良かったっていっつも思ってるのよ。
 もし人間だったらきっとゼフェルの側にいられない。
 だって私…知っているのよ。
 ゼフェルが私と同じで人の多い所が嫌いな事。
 そして人間の女の子が嫌いな事………。
 キャーキャーうるさくて、自分の事をいつも束縛する…そんな女の子が嫌いなのよね。
 そう言えば…初めて会った時も頬が赤かったよね。
 私は血統書付きのお母さんから生まれたのに兄弟の中で何故か私だけがはずれっ子で、目が開くか開かないかって内に捨てられちゃったの。
 最初に私を拾ってくれたのは紫色の瞳の小さな男の子。
 でも、その子はお父さん達に私のことを怒られて私を元の場所に置いていったの。
 寒いのと心細いのとお腹が空いたのとで私はありったけの力を込めて助けを求めた。
 そして…それに答えてくれたのが今みたいに女の人に頬を叩かれて赤くさせているゼフェルだったんだよね。
 私の入っている箱を持ち上げて蓋を開けて…あの時、真っ赤なゼフェルの瞳が私の中に入り込んだの。
 ちょっと臭いけど我慢しろよなってジャンパーのファスナーを降ろして私を胸の中に入れてくれた。
 確かにゼフェルの言うように臭かったけど、それ以上にとっても温かくて…私はいつの間にか安心しきって眠ってしまった。
 あれから…ゼフェルが頬を赤くさせることは何度もあったよね。
 だってゼフェルってば女の子にもてるんだモン。
 なのに女の子達はちっとも自分の思い通りにならないゼフェルに怒って自分から近づいてきたクセに結局離れて行っちゃうの。
 ゼフェル自身もそれが当たり前だと思っているのかそんなこと少しも気にしてない。
 そんなトコってゼフェル…猫みたいだよ?
 ゼフェルがもし猫だったら…きっと人間でいる今よりももっと競争率が激しくなっちゃうんだろうな。
 だって…私は知らないもの。
 ゼフェル以上にかっこいい猫なんて………。
「どうした? アンジェ。眠れねーのか?」
 ぼんやりと考えていたらいつの間にか目を開けていたゼフェルが私の頭を撫でていた。
「ナァウ。(ううん。ゼフェルに見とれてたの。)」
 ゼフェルの胸に顔を擦りつけるようにして身体を丸める。
 この胸の中が大好き。
 何よりも温かくて何よりも優しいこの胸の中が………。
「お休み。アンジェ。」
 丸くなった私の身体を優しく撫でながら私とゼフェルは今度こそ本当に深い眠りに落ちていった。


 ゼフェル…まだかなぁ。
 半分だけのお月様がまん丸になった夜。
 私はいつものように出窓に腰掛けてゼフェルの帰りを待っていた。
 カッツンカッツン。
 ゼフェルの足音とは明らかに違う音が階段をゆっくりと昇ってくる。
「あー。アンジェー。いますかー?」
「ミィー。(ルヴァさん。なぁに?)」
「あー。いました。いました。お腹が空いたでしょう。今ご飯をあげますねー。」
 ルヴァさんは私の姿を見つけて微笑むとキッチンに向かってご飯の準備を始めた。
「ニャー。(どうして? 何でルヴァさんが……。)」
「あー。はいはい。もうちょっと待って下さいねー。すぐ出しますから。」
 足元に寄ってきた私にルヴァさんはニコニコと微笑む。
 違うの…ご飯が欲しい訳じゃないの。
「はい。どうぞ。………あら? どうしましたー? お腹が空いてたんじゃないんですかー?」
 出された食事に手を付けずに出窓に戻る私にルヴァさんは首を捻った。
「……あぁ。ゼフェルの帰りを待っているんですねー。アンジェ。ゼフェルは帰りが遅くなるそうですよ。」
 さっき連絡が入りましたから…と続けるルヴァさんの言葉が私には理解できなかった。
 どうしてゼフェルは帰ってこないの?
 ……………どうして?
「ミィ。(ゼフェル………。)」
「お腹が空いたら食べて下さいねー。また来ますねー。」
 ルヴァさんはそう言い残して部屋を出ていった。
 ゼフェル…ゼフェル……ゼフェル!
 何で…どうして………?
 私は哀しくなって泣いた。
 思いっきり大きな声で泣いた。
 声が枯れるんじゃないかと思うくらいに。
 でも…声なんか枯れたって良いの。
 それでゼフェルが帰ってくるんなら………。
「アンジェー。どうしたんですか。寂しいんですかー?」
 あんまり大きな声で泣いていたから部屋に戻った筈のルヴァさんがもう一度私の所に戻ってきた。
「ミィ。(ゼフェル〜。)」
「あー。アンジェ。良いですか? 今日。ゼフェルは。仕事が忙しくて。帰りが遅く。なるそうなんですよー。もしかしたら。帰って来れない。とも言ってました。だから。良い子で。ゼフェルが。帰ってくるのを。待ちましょう……あっ! アンジェ! どこに行くんですかー。」
 ルヴァさんが私にも判りやすいようにと一言一言区切って話してくれる。
 そんなルヴァさんの言葉に私はルヴァさんが止めるのも聞かずに部屋を飛び出した。
 だって…そんな事がある訳ないもの。
 今までだって一度も無かった。
 ゼフェルが家に帰ってこない事なんて………。
 絶対絶対すぐ近くまで帰ってきてる。
 だから私は迎えに行くの。
 早くゼフェルの姿が見たいの。
 あの大きな手で撫でて貰いたいの。
 涙でくしゃくしゃになって目の前が霞む。
 一度、立ち止まって身体中を震わせて涙を拭った。
 目を開けた私は足元から長く伸びる自分の影にビックリした。
 長く長く…今まで一度だって見た事もないような影の長さに私は空を見上げた。
「!」
 青く輝くまん丸なお月様に私は息を呑んだ。
『良いかい。お前達。ブルームーンの夜には決して外へ出てはいけないよ。』
 遠い昔…まだ目も開いてない子供の頃に、暖かなお母さんの胸の中で聞いた言葉を思い出す。
 ブルームーン・マジック。
 青い月の光を浴びた猫は猫でない別の生き物に変わってしまうと言う猫の世界の言い伝え。
 私………。
 青い月に私は怖くなって一目散に家に帰った。
「あ…あー。アンジェー。帰ってきてくれたんですねー。良かったですよー。あなたがいなくなったらゼフェルは大騒ぎでしたからねー。」
 家の近くで私を捜していたらしいルヴァさんが安心したように呟いて部屋の扉を開けてくれる。
 扉が開いたと同時に私はベッドの中に潜り込んだ。
 怖い…怖い………怖いの。
「あー。大丈夫ですよ。アンジェ。大人しくしていればゼフェルはすぐに帰ってきますからねー。」
 毛布の下でブルブルと震えている私の身体を優しく撫でてルヴァさんが部屋を出ていく。
 ゼフェル…早く帰ってきて………。
 あまりの怖さに声も出せずにいた私は一晩中震えていたけどいつの間にか眠ってしまっていた。


「悪りかったな。手間かけさせて。アンジェの奴。大人しくしてたか?」
「ええ。一度部屋を飛び出してしまいましてねぇ。だけどすぐに戻ってきてベッドの中に入っていきましたよ。」
 うつらうつらしていた私の耳にそんな会話が届く。
 ん……誰?
「そっか。…ったく。あいつは。」
 この声………。
「ただいま。アンジェ。」
「ゼフェルっ!」
 カギを開ける音が微かに聞こえて扉が開く。
 私はベッドの中から飛び起きた。
「う…うわあっ!」
 えっ……………?
 飛び起きてゼフェルの顔を確認出来たと思ったらゼフェルが扉を閉めてしまった。
 なん…で……………?
 大慌てでベッドを降りて扉の前に立つ。
「………ルヴァ。」
「……………はい?」
「見たよな?」
「はぁ。」
「何で俺の部屋に女がいるんだよ。しかも素っ裸で。」
「さぁ。と…取り合えず。ディアを呼んできますねー。」
 扉の外からそんな声が聞こえる。
「ゼフェル。ゼフェル? ねぇ。どうしたの?」
「どうしたの? じゃねーよっ! おめー。誰だよ。何だって俺の部屋にいんだよっ!」
「誰って……。私はアンジェよ。何で入ってきてくれないの? ねぇ。いつもみたいに入ってきて私を撫でて。夕べ帰ってきてくれなくて…とってもとっても怖かったのよ。」
「ふ…ふざけんなよっ! アンジェってのは拾った猫につけた名前だ。」
「だから私がそのアンジェなんだってば。」
「だから! ふざけんなって言ってんだろ。どこをどう見たらおめーが猫に見えんだよっ!」
 ドンドンと扉を叩いていた私の前足がゼフェルの言葉にピタリと止まる。
 前…足……………。
 ううん。
 これはどう見ても人間の手。
 白くて細長い指の先にあるピンク色の爪はどんなに頑張っても出したり引っ込めたりは出来ない。
 呆然と下を見る。
 後ろ足で立っているとばかり思ってた。
 でも、見えるのは人間の足。
 ゼフェルよりもずっと色が白くてずっと細い…人間の足。
 信じられない気持ちで後ろを見る。
 いつもゼフェルの足に絡めていた大好きな長いシッポが無くなって…白くて丸いつるんとしたお尻が見えるだけ。
 私…もしかして………。
 前足…手を顔にあてる。
 ヒゲがない…いつもゼフェルのおやすみのキスを受けていたピンと立った耳がない。
 私…人間……に………?
「あ……………。」
 口から零れる音も人間の声。
「や…嘘でしょぉ〜。こんなのって…こんなのって嫌ぁ。」
 ヘナヘナと身体中の力が抜けてその場にしゃがみ込むとそのまま大声をあげて泣いた。
 だって私はゼフェルの大嫌いな人間の女の子になってしまっていたから。
 ルヴァさんに連れられてきたディアさんが部屋の中に入ってくるまで私はその場を動くことが出来なかった。


『………マジかよ。』
 目の前でディアの用意した服に身を包みしゃくりあげる女を眺めながら心の中で呟く。
 女…自称アンジェは夕べの満月の光りで人間になってしまったと言い張るばかりだった。
『んなアホな事がある訳ねーだろっ!』
「嘘じゃないモン。」
 俺の口に出さなかった言葉を察したのか、自称アンジェは涙で潤んだ瞳で俺を見て呟いた。
 拗ねたような瞳の緑の色がアンジェとダブって俺は慌てて頭を振った。
「あー。もう一度確認しますけど……。あなたはホントーにアンジェなんですねー。」
 のんびりとしたルヴァの奴の言葉に自称アンジェはコクリと頷く。
「ふざけんじゃねーよ。誰が、んな話を信じるかよ。」
「あら。だけどね。ゼフェル君。それじゃあ、あなたはこの子がカギのかかっているこの部屋にどうやって入ったと思ってるの? それに何も着て無かったのよ? この子。裸のままで…何処から来たのかしら?」
 ディアの言葉に俺は二の句が告げなくなる。
 そうなんだよな。
 夕べ…ルヴァは確かにアンジェがベッドに入ったのを確認してからカギをかけたって言ってた。
 そして今朝、俺がカギを開けるまでルヴァもディアもこの部屋には来なかった…と。
 俺がカギを開けた時、ベッドの中から飛び出したのは素っ裸のこの自称アンジェで………。
 一瞬かいま見た白い身体を思い出して、俺は顔が赤くなるのが判った。
「ゼフェル?」
 不安そうな緑の瞳が俺を見上げる。
 首を傾げて俺の顔を見上げるその動作ですらこいつとアンジェは同じだった。
「……わぁーったよ。信じてやるよ。だからんな捨てられんじゃねーかって不安そうなツラで俺を見んな。判ったな。アンジェ。……………。」
 そう言いながら自称アンジェの頭に手を置いて…その金色の髪の手触りまでもがアンジェと同じ事に絶句する。
「ゼフェル〜。」
「わっ! おいっ! 止せっ! ……〜〜。」
 心底嬉しそうな笑顔を作って自称アンジェが俺にしがみついた。
 と思ったら、アンジェがいつも俺にしていたように唇をペロリと舐めやがった。
 真っ赤になった俺をルヴァとディアはニコニコしながら眺めていた。


 私が人間になっちゃってから何日もの日が過ぎた。
 ゼフェルは何とか私の言葉を信じてくれたけど、私とゼフェルの生活は今まで通りには戻らなかった。
 だって今夜も……………。
「おめーはあっちで寝ろっていつも言ってっだろ?」
「だって……。前はいっつも一緒に寝てたのに。」
「そりゃあ、おめーが猫の時だろ。」
「そうだけど………。」
 ゼフェルがソファで寝ようとするから側に行こうとして怒られる。
 私が人間の女の子になってからゼフェルは一度も私と寝てくれない。
 それがとても哀しかった。
 元の…猫のアンジェに戻りたかった。
 でもお母さんは戻る方法なんて無いって言っていた。
 ゼフェルの嫌いな人間の女の子になっちゃった私はこれ以上ゼフェルに嫌われないようにするしかなかった。
 仕方なくベッドに戻り頭の上からすっぽりと毛布を被って横になる。
「お休みなさい。ゼフェル。」
「……………ああ。」
 耳の付け根にしてくれるお休みのキスもなくなった。
 さすがに今日は我慢が出来なくなってポロポロと涙が溢れてしまった。
「………っ。…っく。」
 ずっと我慢していたけど、堪えきれなくなって泣き始めたらもう止まらない。
 押し殺していた声がホンの少しだけ漏れてしまった。
 そしたらガバッ! とゼフェルの起き上がる気配がしてズンズンと足音が近づいてきたと思ったら被っていた毛布ごと抱きしめられた。
「………泣くな。」
 毛布ごしにゼフェルの掠れた声が耳に届く。
「ゼフェル………。」
 毛布の隙間から顔だけ出すとゼフェルが辛そうに赤い瞳を細めたのが判った。
「泣くんじゃねー。」
「ごめ…なさ……。も…我侭…言わないから。嫌いにならない…で………。」
 毛布の端で涙を拭いながら呟いたら痛いぐらいに強く抱きしめられた。
「ゼフェ……………。」
 驚いて呟いた言葉がゼフェルの口の中に消えていく。
「ん………。」
 息苦しさに瞳を閉じた。
 猫の時に何回もゼフェルとキスをしていたけれど…こんなキスは初めてだった。
 ゼフェルの大きな浅黒い手が私達の身体の間にあった毛布をはぎ取り胸の膨らみに触れる。
「んっ!」
 全く知らない感覚に身体がピクリと跳ねた。
 ゼフェルの指が私の胸を包み込むように動く。
「く…ふぅん。」
 首筋に唇を寄せるゼフェルに私は首を竦めて身体をよじらせた。
 自分でも信じられないほど甘い声が口から零れた。
「アン…ジェ………。」
 胸をまさぐっていたゼフェルの手が私の頬に触れる。
 切なそうに唇を寄せるゼフェルの表情に私は生まれて初めてゼフェルにオスの気配を感じて少しだけ怖くなった。
「や…ゼフェ………。」
 ハッ! とした表情でゼフェルが全ての行動を停止させたのは私が胸の上のゼフェルの手を握って嫌々をして見せた時だった。
「…っそっ!」
「ゼフェル?」
 黙って私を見ていたゼフェルが怒ったように眉間にしわを寄せて部屋を出ていく。
 私は…何かゼフェルを怒らせるような事をしてしまったのだろうか?
 何が何だか判らなくなった。
 一人取り残されたベッドの上に座り込んでさっきまでゼフェルが触れていた胸に触れてみる。
 そっと…ゼフェルが動かしていたように指を動かしたけど、ゼフェルがくれたような感覚はこなかった。
「ゼフェル……………。」
 そっと名前を呟くけど誰も答えてくれない。
 結局その夜、ゼフェルは戻ってこなかった。


 ヤバイ…とはずっと思っていた。
 だからずっと自分自身に言い聞かせていた。
 俺は変態じゃねーんだ…と。
 目の前の女は人間じゃねーんだ…と。
 だけど目の前の女が元は猫だと理解していても、あの日俺の網膜に焼き付いた白い身体が頭から離れなかった。
 女の身体にドキリとしたのはあれが初めてだった。
 だから出来れば離れて暮らしたかった。
 俺の我慢に限度があるのは誰よりも俺自身が一番判っている事だったから。
 だけど寂しがり屋のあいつはどうしても俺と別々の部屋になるのを嫌がった。
 そして元々猫だったアンジェに自活など無理だろうと言うディアの言葉に結局俺は折れるしかなかった。
 毎晩のように俺と寝たがるアンジェを叱りつけて何とか一人で寝かせていた。
 だけど今夜は……………。
 微かにしゃくりあげる声を聞いて腹の底がカーッと熱くなった。
 被っていた毛布ごと抱きしめると震えていたのが判る。
「泣くんじゃねー。」
 毛布の隙間から覗かせた涙の溢れている緑の瞳に胸が苦しくなる。
 こいつを泣かせたくて別々に寝てる訳じゃねーんだ。
「ごめ…なさ……。も…我侭…言わないから。嫌いにならない…で………。」
『誰が嫌いになんだよっ!』
 涙を拭いながら呟くアンジェの言葉に炎が身体中を駆けめぐる。
 こいつほど気を使わないですむ女は今までいなかった。
 部屋で好き勝手やってて…ふと顔をあげるとアンジェが構って欲しそうなツラをして黙って俺を見ている。
 アンジェは構って欲しいなんて一言も言わねー。
 いつだってただ黙って見ているだけだった。
 そんなアンジェの甘えたいのを堪えている瞳を見ちまって…それでも好き勝手やろうとは思わなかった。
 そんな風に思わせた女はアンジェが初めてだった。
 初めて女を愛しいと思った。
 欲しい…とも………。
 気が付いたら唇を重ね舌を絡めていた。
 アンジェはただ震えているだけ。
 俺達の間にあった毛布をさっさととっぱらって胸に触れると初めての感覚にアンジェの身体がピクリと跳ねた。
 あとはよく覚えていない。
 アンジェに手を握られて俺は我に返った。
 怯えたように首を振る潤んだ瞳に俺は燃えさかっていた腹の中が凍り付くのを感じた。
 こいつは…アンジェは見た目は確かに俺と同じ年ぐらいだが、中身はまだガキだった事を思い出す。
 何にも知らないガキに手を出そうとした自分自身に腹が立つ。
「…っそっ!」
 吐き捨てるように呟いて部屋を出ていき、そのまま会社へ向かった。
 何でも良いから気を反らせるものが欲しかった。
 アンジェから気を反らすものが………。
 何日も何日も家に帰らず会社の夜勤室に泊まり込んだ。
 俺が家に戻ったのは、会社に休暇付きで帰れと命令されたのと、ルヴァとディアがそれぞれ一言だけ帰ってこいと言ってきたのが偶然重なった日だった。


 暗い夜道をなるべくゆっくり歩いて家へ向かっていた俺は木立の中にポツンと建ってるルヴァの家の二階…俺の部屋の出窓に何か金色に輝くものが見えて足を早めた。
『アンジェ………。』
 出窓に腰掛けて窓に寄り掛かるアンジェを見上げて腹の底がまた熱くなるのが判った。
 眠っちまってるのか閉じた瞳から涙を伝わせ身動き一つしない。
 そんなアンジェのやつれたようにも見える横顔に俺は静かに二階へとあがり部屋のカギを開けた。
 暗い室内は整然としていた。
 俺が帰らない間、一度も使われなかったらしいベッドの様子もテーブルの上に並べられている手をつけてない冷めた料理も…アンジェが俺の帰りをどれだけ待っていたのかを容易に教えてくれた。
「アンジェ……………。」
 出窓に寄り掛かったままのアンジェの頬を伝う涙を親指で拭いながらそっと名前を呼ぶ。
「ん………。ゼフェルっ! ……お帰りなさい。」
 ホンの少しだけ身じろぎをして目を開けたアンジェが俺を見て笑顔を作る。
「ただいま。……駄目じゃねーかよ。寝る時はちゃんとベッドで寝ろ。」
「ごめんなさい。」
 俺の言葉にしゅんとなるアンジェに愛しさが込み上がる。
 こいつが何だろうと…俺にはもう関係なかった。
「アンジェ…俺が好きか?」
 金色の前髪をかきあげて白い額にキスを一つ落として尋ねる。
「う…うんっ! 大好き。ゼフェル大好きっ!」
 驚いたように目を丸くしていたアンジェが顔をくしゃくしゃにして俺にしがみつく。
「ゼフェル……。私ね。もう猫のアンジェには戻れないの。でも…でもね。ゼフェルの大嫌いな人間の女の子になっちゃってもゼフェルが好きなの。ゼフェルの邪魔はしないから……。だからお願い。嫌いにならないで。猫の時の半分でも良いから私のこと好きでいて。おねが………。」
 涙声を唇で塞ぐ。
 この間の夜、アンジェが言った『嫌いにならないで』と言う言葉の意味を俺はようやく理解した。
 アンジェは自分が人間になっちまったせいで俺に嫌われたと思っていたらしい。
「……………関係ねーよ。」
「えっ?」
 ゆっくりと唇を離して呟いた俺にアンジェが聞き返す。
「おめーはアンジェだ。猫だとか人間だとか…んなもんは関係ねー。此処にいろ。アンジェ。ずっとだ。ずっと俺の所にいろ。良いな。」
「うん。……うん。」
 ポロポロと大粒の涙を零しながら何度も頷くアンジェにもう一度口付ける。
 味わうように唇を重ねていた俺の閉じた瞼に微かに光りがあたる。
 片目だけ開けて空を見ると雲の切れ目からナイフのように尖った三日月が青白い光りを放っていた。


もどる