金と緑の記憶


「こんにちは。ゼフェル様。ゼフェル様? ………いない。またお留守なのかしら? ………。」
 鋼の守護聖ゼフェルの執務室を訪れた女王候補のアンジェリークは空っぽの室内に深い溜息を漏らした。
「……どうしたんだろぉ? この間公園でゼフェル様とデートのお約束をしてから全然お会いできなくなっちゃった。結局その日もゼフェル様とは会えなかったし……。私…。ゼフェル様に嫌われちゃったのかなぁ。」
 悲しそうに肩を落として聖殿を出たアンジェリークは、重い足取りで公園へと向かっていった。
「あら。アンジェリーク。ちょうど良かったわ。ねぇ。聞きたい事があるの。」
 噴水の前でしょんぼりとしていたアンジェリークは背後からもう1人の女王候補のロザリアに声をかけられた。
「ロザリア……。何?」
「守護聖様方の事なんだけど……。おかしいと思わない? 少し前から執務室にいらっしゃる守護聖様の数が極端に少ないのよ。ひどい時はどなたもいらっしゃらない日があったりして……。そうかと言って公園でお散歩してらっしゃる訳でも王立研究院のパスハ様の所にいらっしゃる訳でもないし、ましてや占い館のサラさんの所にもいらっしゃらないし……。育成のお願いが出来なくて困ってしまうわ。あんたはどう?」
 アンジェリークの短い問いかけにロザリアが溜息混りに尋ねた。
「えっ? そうだったっけ? …でも…そう言われれば……。あっ! ねぇ。ロザリア! ロザリアは最近ゼフェル様にお会いした事ある? 私ね、もうずっとゼフェル様にお会い出来ないの。日の曜日にね。ゼフェル様と会う約束してたのに会えなかったし……。」
「そう言われればって。あんたねぇ。……まぁ、いいわ。だけど……。そうねぇ。私も他の方達とはそれでも何度かお会いしたけどゼフェル様のお姿は全然見てないわ。それに第一! ゼフェル様があんたとのデートの約束を破るなんて変よ。そんな事、私には信じられないわ!」
 ゼフェルとアンジェリークの親密な関係を知っているロザリアがきっぱりと言い切った。
「そ…そうかな? でもロザリアの言う通り最近変だよね。ロザリアはどなたと会った事があるの?」
 ロザリアの言葉に頬を染めてアンジェリークは尋ねた。
「そうねぇ。クラヴィス様は大体執務室にいらっしゃったわ。ジュリアス様もいらっしゃるけど御気分がすぐれないっておっしゃって会って下さらないし……。ルヴァ様はいる時といない時があって……。後は……。ごめん。今忙しいんだ。って言ってマルセル様を連れて次元回廊を通っていくランディ様なら見た事あるわ。」
「ふーん。私はね。リュミエール様とオスカー様とオリヴィエ様の三人が一緒になって歩いてるとこを見た事があるの。あれもそう言えば次元回廊の扉の所だったな。」
「………変ね。」
「………変だよね。」
 互いに見かけた守護聖を教えあったロザリアとアンジェリークが顔を見合わせる。
「………やっぱりゼフェル様だけいないね。あっ! ねぇ。ロザリア。ディア様にご相談してみようか?」
 アンジェリークがポンと手を叩きロザリアに提案する。
「無駄よ。ディア様ならいらっしゃらないわ。女王陛下に御用とかで聖地に戻ってるんですって。」
「そっかぁ〜。じゃ。どうしようか?」
「……………行くわよ。」
 考え込んでいたロザリアが突然歩き出す。
「ロ…ロザリア? どこに行くの?」
「聖殿よ。誰でもいいから守護聖様のどなたかを捕まえてお聞きするの。このままじゃ試験が滞るわ。あんたも一緒にいらっしゃい。」
 あくまでも試験第一に考えるロザリアの後を、アンジェリークは慌ててついていった。


「ルヴァ様! はっきりおっしゃってくださいませ。」
「えー。あのー。そのー……ですね? ロザリア。」
 聖殿にやってきたロザリアとアンジェリークは大地の守護聖ルヴァの執務室を訪れた。
 ロザリアの厳しい追及にルヴァはしどろもどろで言葉を濁していた。
「ルヴァ様っ!」
「ですから〜。」
「ルヴァ様。ゼフェル様のお姿がどこにもないんです。お願いです。何かご存じなのでしょう。教えて下………。」
「あっ! あー。泣かないで下さい。アンジェリーク。」
 言葉を濁していたルヴァが目の前で大粒の涙を零すアンジェリークに大いに慌てた。
「そうですわ。このままじゃ試験にも影響が出てしまいますわ。私のフェリシアの民は鋼の力を必要としているんですのよぉ〜。」
「あー。ロ…ロザリアまで………。」
 アンジェリークの横でロザリアが同じように涙を流す。
「……ルヴァ。邪魔をするぞ。」
「ク…クラヴィス〜。」
 泣き続ける二人の少女を目の前にしてただオロオロと狼狽える事しか出来なかったルヴァが、静かに自分の元を訪れた闇の守護聖クラヴィスの名をすがるように呼んだ。
「教えてやればよかろう。何が起こったのか。」
「あー。でもですね。」
「構わぬ。どうせあれは己の非を多くに知られたくなくて口止めをしているだけだ。」
「あー。そんな身も蓋も無い言い方をしなくても……。」
「?????」
 クラヴィスとルヴァのそんな会話に、泣いていたロザリアとアンジェリークが不思議そうな顔で二人を静かに見つめていた。
「……仕方ありませんねぇ。アンジェリーク。ロザリア。この事は守護聖とディア以外誰も知らない事なんであなた達もなるべく黙っていて下さいね。実はですね………。」
 深い溜息をついたルヴァはゆっくりと話し始めた。


 女王陛下への謁見の無い土の曜日の午後。
 九人の守護聖達は聖殿内の瞑想の間と呼ばれる広間に必ず集まる事と決められていた。
「ちょっと。ゼフェル! 何そわそわしてるのよ。」
 夢の守護聖オリヴィエが落ちつかない様子で隣に座っているゼフェルに気づき声をかけた。
「……なんでもねーよ。それよりよー。もう止めよーぜ。早く部屋に帰ってやりてー事が山程あるんだからよー。」
「ゼフェル。お前とマルセルの坊やがナドラーガに落ちた時に俺達のサクリアを一つにまとめて助け出した事を忘れたのか? 同じ様な事態が起きた時に備えてこうして訓練しているんだぞ。少しは真面目に取り組め。」
 ゼフェルのぼやきをオリヴィエとは逆隣にいる炎の守護聖オスカーがたしなめる。
「んな事言ってもよー。どうしたって折の合わねー奴等があそこにいるってーのに……。そん時にならなきゃ出来もしねー事ダラダラやってたってよー。」
 ゼフェルが光の守護聖ジュリアスとクラヴィスが並んで座る姿を見ながら呟く。
「まぁね。それを言ったらしょうがないんだけど……さ。だけどどうも変ね。ゼフェル。あんた何隠してるの?」
「何もねーって。」
 オリヴィエの問いにゼフェルは素気なく答えた。
 そんなゼフェルの答えを不服そうに訝しむオリヴィエの服の端を緑の守護聖マルセルが脇から引っ張った。
「ん……? なぁに? マルセル。」
「オリヴィエ様。教えてあげますよ。僕見てたから知ってるんです。ゼフェルはねぇ……………。」
「ば…莫迦野郎! マルセル! てめえっ。それ以上しゃべったらただじゃ……………。」
「明日、アンジェリークとデートなんですよ。」
 ゼフェルの制止の言葉も終わらぬ内にマルセルがオリヴィエに告げる。
「あっらー。ふーん。どーりでね。落ちつかない訳だ。」
「……やれやれ。仕事もキチンとやらない坊やが恋愛にうつつを抜かすのはまだ早いんじゃないのか?」
 マルセルの言葉にオリヴィエは納得し、オスカーは意地の悪い笑みを浮かべて嫌みを言った。
「…っせーよ。てめーほど早くねーと思うぜ。オスカー。どーせ、てめーはおむつつけてる時から女のケツ追っかけ回してたんだろーからよ。」
「はっはぁ〜。きっとそうだわ。そうに違いないわ。ゼっフェル〜。あんたも言うようになったじゃない。」
 ゼフェルの言葉にマルセルとオリヴィエはお腹を抱えて笑いだした。
「貴様等……。」
「オスカー。オリヴィエ。ゼフェル。マルセル。」
 苦い顔でオリヴィエを睨むオスカーがジュリアスの声にハッとする。
「そなた達……。そなた達は今ここで何を行っているのか分かっておるのか? 特にオスカー。オリヴィエ。両名とも年若いマルセル、ゼフェルと一緒になって何をしておる。…………何がおかしいクラヴィス!」
 立ち上がりゼフェル達の前に立ったジュリアスが背後で微かに聞こえた忍び笑いに怒ったように振り返った。
「別に……。」
「いいや。今そなたは確かに笑った。何がそんなにおかしい。言いたい事があるのならはっきり言わぬか。」
「ほらな。あの二人が一番折が合ってねーんだぜ。だからこんな事無駄だって……………。」
「無駄とは何だ! ゼフェル!」
 ジュリアスの堪忍袋の尾が切れた。
 怒り声と共にジュリアス本人も知らず知らずの内に光のサクリアをゼフェルに向けて放出する。
「げっ!」
「うわ〜ん。」
「あら。嫌だ。」
「うっ!」
 そんな光のサクリアを正面から受けたゼフェル、マルセル、オリヴィエ、オスカーの四人が短い叫び声と共に壁にしたたかに打ちつけられた。
「あー。ジュリアス? 落ちついて下さい。大丈夫ですか? 四人と……も……………?」
「頭痛〜い。気持ち悪〜い。」
「嫌〜ね。最悪ー。」
「……他の守護聖のサクリアを吸収する事は出来ないと聞いていたが成る程な。これは効いたぜ。」
 慌ててジュリアスを宥めるルヴァが壁に打ちつけられた四人に声をかけてその場に固まる。
 その場にはマルセル、オリヴィエ、オスカーの三人しかいなかった。
「……ゼフェル! ゼフェルは何処にいったのだ?」
 それに気付いたジュリアスが青い顔で叫ぶ。
「……ジュリアス。ゼフェルはおまえの光のサクリアに包まれてどこかへ消えた。」
「何? そんな……。莫迦…な………。」
「ああっ! ジュリアス様っ!」
 クラヴィスの言葉を聞いたジュリアスはその場にへたり込む三人を信じられないといった顔で見つめていた。
 そして何度見てもゼフェルの姿が無い事実にその場に卒倒してしまったのだった。
 そんなジュリアスを風の守護聖ランディが慌てて支えた。
「ゼ……ゼフェル。……う〜ん。」
「ルヴァ様。しっかりなさって下さい。」
 じっと壁を見つめるように固まっていたルヴァがジュリアスと同じように倒れたのを、水の守護聖リュミエールが静かに助け起こした。


「……………と言う訳なんですよー。それで皆でゼフェルを探していましてねー。試験が遅れてしまう点に関しては本当に申し訳ないんですけど、ゼフェルを無事に見つけだしてから何とかしますんで今はちょっと許してもらえませんかねー。どうですか? ロザリア?」
 長いルヴァの話にアンジェリークとロザリアは目を丸くしていた。
「それは……。育成さえきちんとやって頂ければ私はそれで構いませんけど……。でも……………。」
「そうですよ。それよりゼフェル様の居場所に心当たりがあるんですか?」
 ルヴァの言葉にロザリアが隣にいるアンジェリークを横目で見ると、アンジェリークはもの凄い勢いでルヴァに尋ねていた。
「ええっとですねー。私達守護聖はそれぞれ違うサクリアを持っていますけど仲間のサクリアを感じ取る事は出来るんです。ですからね。どんなに離れていてもサクリアを感じ取る事で仲間の無事が確認できるし、ある程度どちらの方角にいるのかとかも分かるんですよ。」
「だったら……すぐに見つかりますよね。」
 ルヴァの言葉にアンジェリークの顔に安堵感が浮かぶ。
「ええ。と言いたい所なんですけどね。アンジェリーク。分かるような分からないようなって言う所なんですよ。ゼフェルの鋼のサクリアを私はここにいても確かに感じ取る事が出来ます。ですから何処かで無事にいる事は分かるんですけど………酷く微弱なサクリアなんです。本来のゼフェルのサクリアとは考えつかない程の……ね。そのせいで何処にいるのか全く見当がつかないんです。それで他の皆もあちこち探してるって訳でして……。今、ディアが女王陛下の所へ事情を説明しに行ってます。陛下ならゼフェルの居場所を見つけられると思いますよ。だから……。安心して下さい。アンジェリーク。」
 自分の言葉に再び顔を曇らせたアンジェリークにルヴァが言葉のわりには自信のなさそうな笑顔を見せていた。


「ルヴァ。失礼しますね。まぁ。クラヴィス。あなたもこちらにいらしたんですね。アンジェリークとロザリアも。ちょうど良かったわ。」
「ディア様っ!」
「ディア………。」
 突然やってきた女王補佐官のディアがルヴァの執務室にいた四人に笑顔を見せた。
「ディア。ちょうど良いとは……?」
「ゼフェルの事ですわ。残念ですけど陛下のお力でもゼフェルが主星にいる。と言う事位しか分からないそうです。ですから後はクラヴィスと女王候補達の力でゼフェルを探すように。と言うのが陛下のお言葉です。」
 クラヴィスの問いにディアが答える。
「……ディア様。陛下にも分からない事が私達に出来るんでしょうか……。」
「大丈夫ですよ。アンジェリーク。女王候補としての自分の力を信じて下さいね。」
 不安そうなアンジェリークにディアが慈愛に満ちた笑顔を見せた。
「……私の水晶球を使う。と言う訳か。」
「ええ。陛下はゼフェルの身を案じる女王候補達の想いがクラヴィスの水晶球にゼフェルの姿を映し出すだろう。とおっしゃっていました。これ以上、試験を遅らせる事も好ましくありません。ですからどうかクラヴィスもロザリアもアンジェリークも協力して下さい。」
「はい! 協力します! 私……。ゼフェル様が見つかるなら何だって………。」
 ディアの言葉にアンジェリークが勢い良く頷いて、五人はクラヴィスの執務室へと移動した。
「二人ともこちらで手をかざすのだ。」
 執務机の上に置かれた水晶球にアンジェリークとロザリアがクラヴィスに言われた通りに手をかざす。
「ゆっくりと…。心の中でゼフェルの事を想うが良い。」
 クラヴィスの言葉にアンジェリークとロザリアはじっと水晶球を見つめ、ゼフェルの事を強く祈った。
 やがて水晶球は白く輝きだし、ゼフェルの姿をぼんやりと映し出した。
「ゼフェル様っ! あっ……。」
 水晶球に映し出されたゼフェルの姿にアンジェリークが叫び声を上げる。
 恥ずかしそうな笑顔を見せるゼフェルの隣に、金色の巻き毛の女性がいた。
「ええっ!? ………お…おかあ……さん?」
 金色の巻き毛の女性の顔が映し出された途端、アンジェリークは叫び呆然と呟いた。
「あー。あのー。アンジェリーク? おかあさん。と言うとあなたの………。」
「母です。これは私の。でもどうして母とゼフェル様が一緒に………?」
 ルヴァの問いにアンジェリークが水晶球から目も逸らさずに答える。
「………そうか。」
「何か分かったんですの? クラヴィス様。」
 納得顔で呟くクラヴィスにロザリアが不思議そうな顔で尋ねる。
「ゼフェルが消えた次の日。日の曜日であったな。アンジェリークよ。その日お前はゼフェルと会う約束をしていたであろう。ゼフェルもその日を楽しみにしていた。ジュリアスのサクリアに包まれ消えていく瞬間、ゼフェルのお前への想いがゼフェル自身をお前に近しい者の所へ送ったのだろう。……おそらくな。」
「ゼフェル様はご自身の意志でアンジェリークの家に避難なさったとおっしゃるのですね。でも……。何故ゼフェル様は聖地に戻っていらっしゃらないのでしょうか?」
「そうですよクラヴィス。いくらゼフェルだって守護聖としての立場はちゃんとわきまえてますよ。色々と話をしていればそこが主星のアンジェリークの家だって分かると思うんですけどねー。」
 ロザリアの新たな疑問にルヴァが同意する。
「………記憶に混乱が生じている。と考えるのはどうだ? 何故か分からぬが水晶球が微妙に歪む。鋼の守護聖を探そうとすると……な。もし己の名前も守護聖である事すら忘れているとしたら……。水晶球の歪みは納得できる。」
「……光のサクリアを受けた事による記憶喪失。とおっしゃりたいんですか? クラヴィス。」
「そうだ。だとすれば迂闊な者の迎えでは本人もこの家の者も納得すまいな。」
 ディアの問いかけにクラヴィスがアンジェリークを見ながら答える。
「まさか! クラヴィス。」
 クラヴィスの視線の先に気がついたディアが驚いたようにクラヴィスの名を呼んだ。
「あのー。もしかしてクラヴィス? アンジェリークに迎えに行かせるつもりですか?」
「ルヴァ様。嫌ですわ。そんな莫迦な事………。」
 ルヴァの言葉にロザリアがあり得ない話だと一蹴する。
「……………私、行きます!」
『アンジェリーク!』
 ディア、ルヴァ、ロザリアの三人の声がハモる。
「私…行きます。私が行けば家族は私の言う事を信じてくれます。この方は鋼の守護聖ゼフェル様なんだって。いくら記憶が無くても私の家族が納得すればゼフェル様本人も納得するかも知れませんでしょ? だから行きます。」
「……ディア。急ぎ女王に伝えてアンジェリークの帰宅許可を取ると良い………。」
「………分かりました。アンジェリーク。一緒に聖地に参りましょう。」
「あのー。アンジェリーク。私もあなたを信じています。ゼフェルの事を宜しくお願いしますね。」
「アンジェリーク! 早く帰っていらっしゃいよ。ゼフェル様を連れて………。」
「うん。ロザリア。すぐに戻るから……。行って来ます。ルヴァ様。クラヴィス様。」
 その場に残ったクラヴィス、ルヴァ、ロザリアに笑顔を見せたアンジェリークはディアと共に女王のいる聖地へ通じる次元回廊を通っていった。


「アッシュ。そんな所にいるとまた頭痛を起こして倒れるわよ。暖かい飲み物を用意するから中にお入りなさい。」
「……大丈夫だよ。おばさん。」
 中庭の芝生の上に寝ころんだゼフェルに中年の優しそうな婦人が家の中から声をかけた。
 そんな婦人に返事を返しながらゼフェルはぼんやりと青い空を眺めていた。
 目が覚めた時、この家のベッドの上だった。
 激しい頭痛と吐き気に襲われていた自分を優しく介抱してくれたのが先程声をかけてきた婦人であった。
 婦人の金色の巻き毛と深い緑の瞳に何か親しみと懐かしさを感じ、この家の主の優しい言葉にも甘え、ここで暮らすようになってから既にかなりの日が過ぎていた。
 その間、自分の名前も家族の事もどこに住んでいたのかすら思い出せなかった。
 ただ心の中ではいつも、鮮やかな金色と深い緑色がどこか遠い所で自分の帰りを待っているような錯覚を自分自身に与えていた。
「アッシュ。何を笑っているの?」
 知らず知らずの内に笑っていたゼフェルに、いつの間にかすぐ近くまで来ていた婦人が尋ねる。
「別に……………。」
 身体を起こしたゼフェルは婦人の深い緑の瞳を見つめたまま黙り込んでしまった。
「どうしたの? アッシュ。私の顔に何かついてる? それとも何か思い出したの? 最近のあなた。少し様子が変よ。私が呼ぶと少し遅れて返事が返ってくるし……。きっと思い出しかけているんでしょうね。……あなたの名前。本当はなんて言うのかしらね。」
 アッシュと言う呼び名は婦人がつけた。
 名前がないと不便だと言う事で、ゼフェルは婦人にAからZまでのアルファベットの中で好きなのはどれかと尋ねられた。
 何故か頭の中に真っ先にAの文字が浮かび、そう告げた事で婦人がアッシュと名付けたのだった。
「そんなんじゃねーんだ。たださ。おばさんの緑色の目を……何かどっかで見たような気がしてさ。俺のすぐ近くにいた奴でこんな目の色をした奴がいるのかもなぁ。って考えてたんだ。」
「そうなの? ……そうね。あなたのご家族の誰かが私と同じ目の色なのかもね。」
「!?」
 小首を傾げて微笑む婦人の顔に婦人とよく似た少女の顔が重なる。
「アッシュ? ……………!」
 幻でも見たかのように激しく目を擦るゼフェルを不思議そうに見ていた婦人がゼフェルの背後に見えた人影に息を飲んだ。
「おばさん……?」
 ゼフェルがそんな婦人の様子に後ろを振り返ると、そこに婦人に似た金色の巻き毛の少女の姿があった。
「……………ゼフェル様っ!」
 アンジェリークはゼフェルに駆け寄った。
「ゼフェル様。ゼフェル様。ご無事で良かった。」
「お…おい。ちょっと待てよ。おまえ……誰だ? ゼフェル……って俺の名前か?」
 アンジェリークに抱きつかれたゼフェルが焦ったようにアンジェリークを引き剥がした。
「ゼフェル様……。本当にクラヴィス様のおっしゃった通り何も覚えていないんですか?」
「ゼフェル? クラヴィス? そんな奴知らねーよ! 大体! お前は一体何者なんだよ!」
「……落ちついてアッシュ。その子は私の娘のアンジェリークよ。この間話したでしょ。」
 涙を浮かべるアンジェリークに訳の分からない憤りをぶつけるゼフェルに婦人が静かに声をかけた。
「娘………? 遠い所へ行ったって言ってた……?」
「そうよ。……どうしたの? アンジェリーク。帰ってきたりして……。詳しい話をして頂戴な。」
「おかあさん……………。」
 婦人はそう言って優しい笑顔を二人の子供に向けた。


「ふーん。じゃあ。お前は俺がその鋼の守護聖って奴だって言うんだな? で、お前は女王候補だ……と。」
「はい。」
「でも……変だよなぁ。守護聖とか女王ってのはよぉ。聖地って特別な場所にいるんだろ? もし俺が本当にその守護聖って奴ならよ。何で俺はここにいたんだ?」
「それは……。私も聞いた話なんですけど、ゼフェル様は守護聖様達の集まりの時に別の守護聖様のサクリア……。あっ! それぞれの守護聖様がもってらっしゃる特別な力の事なんですけど、そのサクリアに包まれてここへ来てしまったんだそうです。」
「まぁ。そんな不思議な事があるの。道理でねぇ。」
「おかあさん?」
「おばさん?」
 アンジェリークがゼフェルに延々と説明しているのを黙って聞いていた婦人が二人にお茶を出しながら感心したように呟いた。
「アッシュ……。あっ! ごめんなさい。ゼフェル様よね。こっちの方が言い慣れてるからつい……。このまま続けさせてね。私達がアッシュを見つけたのはこの庭でだったんだけどね。とても不思議な光景だったのよ。星の綺麗な晩でね。おとうさんと外を見てたの。そしたら空の上から真っ白な光がゆっくりと家の庭に降りてきたのよ。二人で慌てて外へ出て行ったらその光の中にアッシュがいたの。この子は何か不思議な力を持っている子だろう。もしかしたら女王になったアンジェが私達を心配してこの子を私達の所へよこしてくれたのかも知れないね。っておとうさんと話していたのよ。………どうしたの? アッシュっ!」
「ゼフェル様っ!?」
 話を続けようとしていた婦人がゼフェルの異変に気付いて慌てて叫ぶ。
 ゼフェルは突然激しい頭痛に襲われそのまま倒れて意識を失ってしまった。
「ゼフェル様。しっかりして。ゼフェル様。」
「落ちつきなさい。アンジェリーク。とにかく二階の寝室に運ぶから手伝って。」
 意識を失ったゼフェルの身体を激しく揺するアンジェリークを押し止めて、婦人は娘の手を借りてゼフェルを寝室へと運んだ。
「お医者様を呼ぶの?」
「いいえ。アッシュは守護聖様なんでしょう。だったら普通のお医者様じゃ駄目でしょうね。それにね。以前から何度かあるのよこんな事が。記憶を思い出せば大丈夫だと思うけど……。静かに寝かせてあげましょう。」
 アンジェリークの問いに婦人は首を振った。
「……ここでゼフェル様についていても良い?」
「駄目。……って言っても聞かないでしょ。変わった事があったらすぐに呼ぶのよ。」
 そう言って婦人は静かに部屋を出ていった。


 暗い…真っ暗闇の空間の中でゼフェルは目を覚ました。
「ん……。何だぁ? ここは?」
 辺りを見回すが一筋の光も見えない。
 ゆっくりと立ち上がり歩き出そうとしたゼフェルの手を何かが掴んだ。
「!? ……うわぁっ!」
 自分の手を掴む骨だけの手にゼフェルが叫び声をあげた。
 気がついてみるといつの間にかゼフェルは無数の骸骨に囲まれていた。
「な…何なんだよ。こいつ等……。来るんじゃねーよ!」
 骸骨達はすさまじい憎悪を漂わせながらゼフェルに近づいていった。
「来るなよ! 来るなっ! っつってっだろ!」
 叫びながら後ずさりをするゼフェルを無視して骸骨達はどんどん近づいてきた。
「や……。止めろよ! 俺に触るな!」
『こっちです。』
「?」
 骸骨達に押さえ込まれ身動きが取れなくなりそうになったゼフェルの耳に聞き慣れた少女の声が聞こえた。
『早く! こっちに……。』
「…っくしょー。離せ!」
 骸骨達の輪の中から逃れ出たゼフェルは声のする方向へ走り出した。
 いつの間にか足下はドロドロの沼地になっていた。
 骸骨達は何の障害もなく後ろから追いかけてくる。
 だと言うのに自分はふくらはぎまで泥に浸かり、思うように走れない。
 そのうち泥の中から無数の手が自分を捕まえようと伸びてきた。
「……うわっ! ……どっちだよっ!」
『ここです。』
 伸びてきた手に足を取られ泥沼の中に転んだゼフェルが叫ぶと目の前に大きな扉が見えた。
 その扉の前に一人の少女が立っていた。
「あ……。そこか?」
『そうです。ここです。早く。』
 少女の声にゼフェルは何とか沼を這いあがり少女の元へと走り出した。
 少女の存在に気がついた骸骨達がゼフェルだけでなく少女へもその憎悪を向けた。
 数体の骸骨達がゼフェルよりも早く少女の元へ辿り着き少女を取り囲む。
 少女は恐怖に顔を強ばらせながらも気丈にゼフェルが自分の元へ辿り着くのを待っていた。
 一体の骸骨が少女の金色の髪に手を伸ばした。
「な……! ア……アンジェリーク!」
 ゼフェルは少女の名を自分でも知らず知らずの内に叫び少女に向かって手を伸ばしていた。
 その叫び声と共に辺りは真っ白な、光輝く世界へと変わっていった。


「! 気がついたんですか? ゼフェル様。」
 意識を取り戻したゼフェルの目の前に金色の巻き毛と心配そうに自分を見つめる緑の瞳があった。
「良かった。……酷くうなされてたんですよ。ほら。こんなに汗をかいて………。」
 自分の額に浮かぶ汗をタオルで拭う少女の手をゼフェルは握った。
「あの………。ゼフェル様?」
「……アンジェリーク。」
 ゼフェルは少女の名を呼んで笑った。
 アンジェリークが初めて見る優しい笑顔で………。
「……莫迦野郎。何泣いてんだよ。」
「だって……。ゼフェル様が……。泣きたくなる位優しいお顔をなさるから……………。……ゼフェル様? 私の事が分かるんですか?」
 大粒の涙を零しながら尋ねるアンジェリークの金色の髪をゼフェルが撫でる。
「おまえ……お袋さん似なんだな。」
「ゼフェ……………。」
 ゼフェルはアンジェリークの髪を撫でていた手をそのままに彼女を引き寄せ口付けた。
 しばらくしてゆっくりと唇を離し互いに見つめ合う。
 その内ゼフェルの顔の上にパタパタとアンジェリークの涙が降ってきた。
「……泣くなよ。」
「だって……。だって……。」
 優しい笑顔で宥めるゼフェルの姿にアンジェリークは涙が止まらなかった。


「ゼフェル様。本当にもう大丈夫なんですか?」
 聖地へ戻る道すがらアンジェリークが先を歩くゼフェルに心配そうに尋ねた。
「もう平気だって。……あのよ。アンジェリーク。」
「はい? 何ですか? ゼフェル様。」
 振り返り自分を見つめるゼフェルにアンジェリークが首を傾げる。
「……………何でもねぇ。」
 アンジェリークの金色に輝く巻き毛と深い緑の瞳にゼフェルは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……どうしたんですか? ゼフェル様。……ぼんやりしてると先に行っちゃいますよ。」
『……アンジェリーク。記憶が無かった時、いつも俺の中にあった金色と緑色はお前の髪と目の色だったんだな。あん時…扉の前で俺を待っててくれたのはお前だったよな。ありがとよ。待っててくれて………。』
 前を歩きだしたアンジェリークの後ろ姿にゼフェルは心の中で呟いていた。
「ゼフェル様〜。本当に置いて行っちゃいますよ〜。」
「待てよ。アンジェリーク。」
 金色の髪を風になびかせ振り返るアンジェリークの元へゼフェルは駆け寄っていった。


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