天使の目覚め


「げっ? 莫迦野郎! そこ退けっ!」
「えっ? ……きゃあっ!」
 よく晴れたある日。
 聖殿にやってきた女王候補のアンジェリークは、頭上からかけられた声に空を見上げ落ちてきた人物と接触し、その場に尻もちをついてしまった。
「痛ぁ〜い。」
「悪りぃ。大丈夫か? アンジェリーク。」
 二階の窓から飛び降りてきた鋼の守護聖ゼフェルがアンジェリークに謝罪しながら手を差し伸べる。
「は…はい。大丈夫です。でもゼフェル様? どうしてあんな所から……………。」
「あー。待って下さい。ゼフェル! まだ話は終わっていませんよぉー。」
「やべっ! ルヴァの奴もう追いつきやがった。」
「えっ? えっ?」
 二階の窓から顔を出した大地の守護聖ルヴァを見るなりゼフェルはアンジェリークの手を握ったまま走り出した。


「ここまで来りゃあ大丈夫か。」
「あのぉ……………。手を……………。」
「ん? ……わっ!」
 王立研究院の裏手の森の中でようやっと立ち止まったゼフェルに、アンジェリークが戸惑いがちに声をかける。
 そんな言葉に、最初の内は何の事なのか分からないと言った顔のゼフェルが、己がしっかりと握りしめている物の正体を確認して大慌てで手を離す。
「あービックリした。……えっと。その……。俺…おめえをこんなトコまで連れて来ちまったけど……。聖殿に何か用事があったんじゃねーのか?」
 真っ赤な顔をしたゼフェルがアンジェリークに尋ねる。
「ええっ。育成のお願いに行こうと思ってたんです。」
「あちゃ〜。悪りぃ。誰のトコに行くのか知んねーけどよ。そいつが出かけちまう前に行ってこいよ。」
 しまったと言った顔を見せたゼフェルにアンジェリークが首を振る。
「大丈夫。平気ですよ。ゼフェル様の所へ行こうと思ってましたから。……ゼフェル様。エリューシオンの育成、お願いしますね。」
「あ…ああ。分かった。任せとけよ。」
 笑顔でアンジェリークに頼まれたゼフェルが、一瞬戸惑った表情を見せ、すぐに笑顔で片目を瞑る。
「ところでゼフェル様。ルヴァ様と何かあったんですか?」
 自分の頼みを快く了承してくれたゼフェルにアンジェリークが小首を傾げて尋ねる。
「……別に。大した事じゃねーんだよ。あれしちゃ駄目だのこれは良くないだのいつもの小言だよ。ルヴァの奴よ、毎回同じ事繰り返しやんの。いい加減聞き飽きたぜ。」
「それって……。毎回毎回同じ事を言わせるゼフェル様が悪いんじゃ……………。」
「何だと?」
「あっ、いいえ。何でも……。それよりもゼフェル様? 私…こっちの方に来たの初めてなんですけど……。これから何処かに行かれるんですか?」
 ゼフェルの笑顔が一瞬の内に不機嫌な表情に変わったので、アンジェリークが慌てて話題を変える。
「おう。この先に俺の秘密の隠れ家があるんだ。おめえも来るか?」
「良いんですか?」
「絶対誰にも言わねーって約束するならな。」
「あ……。お約束します! どなたにも言いません。」
「よーし。じゃあついてこいよ。」
 歩き出したゼフェルの後をアンジェリークは小走りに追いかけていった。


「うわぁー。凄ぉーい。ここ……ゼフェル様がお一人で直されたんですか?」
 森の中の一軒の小屋の中に入ったアンジェリークが感嘆の声をあげる。
 外側はボロボロで今にも倒れそうに見えるのだが、内側は余計な装飾を一切省いたシンプルで落ちついた作り。
 機械作業の好きなゼフェルにしては珍しく、機械や工具類が一切見受けられない部屋の片隅にかろうじて置かれた設計机が、この部屋の中でゼフェルの趣味を示す唯一の物であった。
「凄げぇだろ? 本当はメカとか持って来ようかと思ったんだけどよ。何だかこの部屋をオイル臭くするのが嫌でな。ここではメカの設計だけやる事にしたんだ。……そうだ! これ見て見ろよ。今考えているメカの設計図だぜ。出来上がったらおめえにも見せてやるからよ。」
「あ……。楽しみにしてます! 絶対見せてくださいね。」
 設計机の上にあった一枚の図面を手に取り、誇らしげに広げるゼフェルにアンジェリークが笑顔で答える。
「ああ。絶対にな。それより何か飲み物でも持ってきてやるからその辺に座って待ってろよ。」
「あっ! そんな事は私がやります。ゼフェル様こそ座っててください。」
 隣の部屋へ行こうとするゼフェルを制して、アンジェリークが動く。
「そうか? じゃあ頼んじまおうかな。そっちの部屋の奥にキッチンがあるからよ。」
「はい。ゼフェル様は何が宜しいですか?」
「任せる。……甘くなきゃ何でもいい。」
「はい。」
 照れたようなゼフェルに笑顔を返し、アンジェリークはキッチンへと姿を消した。


 キッチンでお茶の準備を終え部屋に戻ったアンジェリークは、真剣な表情で設計机に向かっているゼフェルの姿に声をかけられなかった。
『ど…どうしよう。あんなに真剣にやってらっしゃるのに声をかけちゃいけないわよね。でも…。このままじゃお茶が冷めちゃうし……………。きゃっ!』
 ガッシャーン。
 迷いながらテーブルの上にそっとトレーを置くつもりのアンジェリークが、手を滑らせて金製の空のポットを床に落とす。
 その激しい音にゼフェルがびっくりしたように振り返る。
「何だよ。派手な音たてやがって。準備終わってたのか。だったら声かけりゃいいのに……。」
「ごめんなさい! ゼフェル様があんまり真剣にやってらっしゃったから声をかけちゃ悪いと思って………。」
 設計机からテーブルへ移動してくるゼフェルにアンジェリークが申し訳なさそうに答える。
「悪くねーよ。俺よ、守護聖になる前からメカの設計を始めると周りに気がいかなくてよ。よく親に怒られたんだ。何度呼んだら気が付くんだ! ってな。だからおめーも遠慮無く声かけろよな。そうじゃねーと俺、おめーを無視して設計に没頭しちまうからよ。」
「……分かりました。そう言う事なら遠慮無く声かけさせていただきます。じゃあ。これ洗ってきます。お湯が冷めない内に飲みましょうね。ゼフェル様。」
 アンジェリークは落としたポットを手早く洗ってくるとカップにお茶を注ぎながら向かいに座るゼフェルに笑顔を見せていた。


 ゼフェルとアンジェリークの二人は、お茶を飲みながらたわいもない話を交わしていた。
 暫くして、アンジェリークが突然鼻をヒクヒクさせた。
「…どうしたんだ?」
「あっ。さっきから気になってたんですけど、何か匂いませんか?」
「臭い? 別に……。お茶の匂いじゃねーのか?」
 言われたゼフェルがやはりアンジェリークと同様に鼻をヒクつかせるが、匂いの元は分からない。
「いいえ。お茶の匂いとかじゃ無くて、何かこう……。」
「分かんねーな。……オイルの臭いか? 何せ俺の身体にオイルの臭いが染み着いてっからな。ここに泊まったりするのもしょっちゅうだし、執務室にいるよりこっちにいる時間の方が長いからよ。この部屋自体にオイルの臭いが染み着いてても不思議じゃねーぞ。」
 自分の腕に鼻を近づけるゼフェルにアンジェリークが首を振る。
「オイルや機械の油っぽい臭いとは違うんだけど……。」
「まっ。良いじゃねーかよ。そんな事。それよりおめえ、今日はこれからどうするんだ?」
 微かに香る匂いに疑問を抱いたままのアンジェリークにゼフェルが尋ねる。
「えっ? あっ。んー。……そうですね。まだ力もあるから誰か他の守護聖様の所に行っても良いし……。ゼフェル様は今日はどうなさるんですか?」
 人差し指を口元にあてて考えていたアンジェリークがゼフェルに尋ねる。
「俺はほとぼりが冷めるまで暫くここにいる。この設計図完成させちまおうとも思ってるしな。」
「あっ! でしたら。出来上がるまで見ていても宜しいですか? お邪魔はしませんから。」
「別に構わねーぜ。邪魔も何も俺は気がつかねーだろうからな。だけど……退屈じゃねーのか? 変わった奴だよな。おめえも。」
 アンジェリークの提案に心底不思議そうな顔で設計机に戻るゼフェルであった。


『凄い。本当に私の事に気がつかないわ。』
 使った食器を洗い終えて部屋に戻ったアンジェリークは真面目な顔で図面を描いているゼフェルに感心していた。
『ゼフェル様のあんな真剣な顔見たの初めて……。』
 ゼフェルの横顔の見える位置に椅子を置き腰掛けたアンジェリークが、先程からの匂いに再び気付く。
『やっぱり匂う。オイルの臭いじゃ無いわよね。これは絶対。何かスゥーっとしててミントみたいな爽やかな匂いなんだけど。ゼフェル様が香水つけてる訳無いし……。』
 匂いの元についてあれこれと考え始めたアンジェリークは、突然学校の友達との会話を思い出した。


「アンジェ〜。」
「ソフィア。どうだった? 彼氏の家に行ったんでしょ? 感想は?」
「すっごく緊張しちゃった。あのね。彼の部屋に入った時何かスゥーっとした爽やかな匂いがしてね、あぁ、彼の匂いなんだなぁ。って思っちゃったわ。」
「彼の匂い?」
「そうよ。彼もね、女の子独特の甘いいい香りがする。それとも香水でもつけてるの? って。私が香水とか嫌いなのアンジェも知ってるでしょ。そう言ったら、やっぱり君の匂いなんだね。って。だから私に匂ったのも男の子の匂いだと思うのよ。」
「はいはい。ごちそうさま。だけど……。ふ〜ん。男の子の匂いかぁ………。」


『…そう言えばソフィアがそんな事言ってたっけ。じゃあこの匂いは男の子の匂いなんだ! ……って事は、ゼフェル様の……匂…い……………?』
 匂いの正体について認識したアンジェリークの顔が火のついたように赤くなる。
『そ…そう言えばそうなのよね。守護聖様達って男の方なのよね。今まで全然気にしなかったけど……。』
 女王候補として聖地に呼ばれたアンジェリークにとって守護聖達は、かつては自分とはかけ離れた所にいた存在であり、今は自分の育てている大陸に力を贈ってくれる必要不可欠な存在であるだけであった。
『嫌だ。変に意識しちゃう。……そう言えば男の人と二人きりになるのってゼフェル様が初めてなんだわ。』
 改めてそう認識したアンジェリークがゼフェルを見る。
 まだあどけなさの残る褐色の横顔に光る赤い輝き。
 体格的にはまだまだ少年の域であろうが、アンジェリークにとっては十分過ぎるほど男を意識させていた。
『も……もう行こっと。』
 いたたまれない気持ちになったアンジェリークがそっと立ち上がり部屋を出る。
「よっしゃー。終わったぜ。アンジェ………。」
 暫くして図面を描き終えたゼフェルがテーブルの方へ向き直ったが、そこに人影は無かった。
「……何だ。行っちまったのか。出来上がるまで見てるとか言ってたクセによ。声かけていきゃ良いのに……。つまんねーな。折角凄いのが描けたのに。ん……………?」
 出来上がった図面を片手に持ったゼフェルは、鼻をくすぐるほのかな匂いに気づき鼻をヒクヒクさせていた。


「おい! アンジェリーク!」
「ゼフェル様……………。」
 それから数日後。
 アンジェリークの部屋にゼフェルが勢い良くやってきた。
「おめえよ! 言いたい事があるならはっきり言えよな。気に入らねーんだよ。最近のおめえ。ちょっと変だぞ。約束してたメカも見せてやるって言えば用事があるとかぬかして来ねーしよ!」
 明らかに怒りの色を浮かべているゼフェルにアンジェリークは俯いて何も言えなかった。
 実の所、アンジェリークは先日の件でゼフェルを異性として意識するようになり、まともにゼフェルの顔を見る事が出来なくなっていたのだった。
 名門私立女子校に通っていたアンジェリークには無理もない事かもしれなかった。
「よぉ。何とか言えよ。」
 ゼフェルがアンジェリークの目の前に立ち、彼女の顔を覗き込むように顔を近づける。
「…………………………。」
「……あっそ。」
 押し黙ったままのアンジェリークにゼフェルが溜息をもらす。
「そーかよ。分かったよ。もうおめえ何か知らねーよ。好きにしろよ。俺りゃあ、もう知らねーからな。おめえの事なんて……。……………じゃあな。」
「あっ! 待って! ゼフェル様。」
 無愛想に部屋を出ようとするゼフェルをアンジェリークが呼び止める。
「あの…私…。ゼフェル様の事が嫌いだとか……。そう言う訳じゃ無いんです。ただ……。あの……。この間秘密の隠れ家に招待して頂いた時、ゼフェル様の匂いに気が付いて……。それで…私……。ゼフェル様の事……変に意識しちゃって……。だから……………。!」
 しどろもどろに話すアンジェリークが突然ゼフェルに抱きしめられる。
「あ……あのっ。」
「……あのよ。アンジェリーク。」
 強く抱きしめられて身動きが取れないが、声の様子からゼフェルがかなり緊張しているのがアンジェリークには分かった。
「おまえ……。俺の匂いで俺を意識してるって言ったけどよ。俺だってそうなんだぜ。おまえ……香水とかつけてねーだろ? なのにいい匂いがするんだ。甘い。……いい匂いだよな。甘ったるい匂いって俺は好きじゃ無いんだけどよ。おまえの匂いは好きだぜ。」
「ゼフェル様。」
 真っ赤になったアンジェリークが顔を上げるとゼフェルは自分と同じように赤い顔をしていた。
「この間、おまえと二人っきりになった時…。あの時もこんな匂いがした。おまえが嗅いでたのとは違う匂いなんだろうな。おまえには俺の匂いが。俺にはおまえの匂いが。この部屋もそうだ。おまえがいる所は皆こんな甘い匂いがするんだ。」
「ゼフェル様。私……………。」
「だ…だからよ! おまえが俺を意識してくれてるように、俺もおまえを女として意識してんだよ。髪の毛だって……こんなに柔らかくていい匂いがするしよ。身体だって柔らかくて暖かくて……。相手を意識してるのが自分だけだと思うんじゃねーよ。……………俺を避けるなよ。」
「………はい。ごめんなさい。ゼフェル様。」
 耳まで赤くしたゼフェルが金色の髪の毛の一房を手に取り言った言葉にアンジェリークは小さく頷き謝罪した。


「はぁ〜い。アンジェ〜。遊びに来ちゃ……………。」
 アンジェリークを抱きしめていたゼフェルが、突然部屋にやってきた夢の守護聖オリヴィエの姿に、弾かれたようにアンジェリークの側を離れた。
 アンジェリークも慌ててゼフェルとの距離を取ったが、目敏いオリヴィエには見られてしまったようであった。
「……どうやらお邪魔だったみたいねぇ。また出直してくるわ。まったねぇ〜。アンジェ〜。ゼっフェル〜。ごゆっくり〜。あんまり乱暴に扱っちゃ駄目だよぉ〜ん。」
「ば……馬鹿野郎! 何が乱暴だよ! オリヴィエ! 妙な勘ぐりすんじゃねーよ!」
「そ……そうですよ。オリヴィエ様。別に何でもないんですよ……。ちょっとゼフェル様と意見の食い違いがあったからそれで……………。オリヴィエ様!」
 高らかに笑い声をあげながら立ち去るオリヴィエの後をゼフェルとアンジェリークの二人が真っ赤な顔で追いかけていった。


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