天使に優しい雨が降る


「ちぇっ。ついてねーな。土砂降りになっちまった。」
 いつもの如く聖地を抜け出し外の世界で遊び呆けていた鋼の守護聖ゼフェルは、突然の雨にずふ濡れになり、一軒の家の垣根際に生えていた大きなアカシアの木の下で雨宿りをしていた。
「仕方ねーな。行くか。……………ん?」
 一向に弱まらない雨足に、諦めて走り出そうとしたゼフェルは突然何かに足を捕られ、その場に留まる事を余儀なくされた。
「何だぁ? ……………おいチビ。離せよ。」
 足下に視線を落とすと、ピンク色の合羽を着た小さな女の子が自分の足にしっかりとしがみついていた。
 女の子はプルプルと頭を横に振り、ゼフェルを見上げるとにっこり笑った。
「あ…あのなー……………。」
「アンジェリーク。こんな所にいたのか。探したよ。門から出ては駄目だろう。」
 垣根の向こうから聞こえてきた声にゼフェルが視線を移すと、そこに人の良さそうな印象を受ける一人の紳士が傘をさして立っていた。
「娘が迷惑をかけているようで申し訳ないね。アンジェリーク。お兄さんが困っているから帰っておいで。」
 父親らしきその紳士の言葉にも女の子は頭を振り、ゼフェルの足に更にしがみつく。
「アンジェリーク! ……ふうっ。仕方のない娘だ。…君、良かったら雨が止むまで家に来ないかい? まだ当分止みそうにないし、娘も君から離れそうにないし………ね。申し訳ないね。頑固な娘で……。」
 紳士の言葉にゼフェルは溜息を一つくと、門の方へと足を踏み出す。
「……………おい。おめえの家で雨宿りさせてもらうんだから離れろよ。歩けねーだろ。」
 自分の足に未だにしがみついている女の子に向かってゼフェルが声をかけると、女の子は一瞬きょとんとした顔を見せ、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん。抱っこ。」
 そう言って小さな両手を広げた女の子をヒョイと抱き上げたゼフェルは、門の方へと足早に歩いていった。


「本当にすまなかったね。娘が迷惑をかけて。あの娘は雨の中を歩くのが好きでね。こんな雨降りの日は外に出るって言って聞かないんだよ。」
「いえ。俺も着替えまで借りちゃって…すんません。」
 家の中に入ったゼフェルは、紳士が用意してくれた服に着替え、素直に詫びる。
「謝るのはこちらの方だよ。君も急いでたんじゃないのかい? 家の人も心配しているだろうし……。」
 申し訳なさそうに詫びる紳士と話をしていると、廊下をパタパタと走る小さな足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん! 遊ぼ!」
 勢い良く扉が開き、頭からバスタオルを被った女の子がゼフェルの腕の中に飛び込み、顔を擦り寄せ笑顔を作る。
 そんな女の子の笑顔に気恥ずかしさを覚えたゼフェルが顔を赤くする。
「ほらアンジェリーク。お兄ちゃんがお洋服着てない娘は恥ずかしいって。ちゃんとお洋服着なきゃ駄目よ。」
 そう言って女の子の母親が娘の服を手にやってくる。
「やー。お兄ちゃんと遊ぶのぉ。」
 女の子は引き剥がされまいと、ゼフェルの首にしがみついて離れない。
「お兄ちゃんはまだ帰らないから安心なさい。それに、ちゃんとお洋服を着ないと遊んでくれないわよ。」
 そんな母親の言葉に女の子が不安そうな顔でゼフェルを見上げる。
「……雨が止むまで帰れねーからな。服…着てこい。」
 ゼフェルがそう言うと女の子の顔にパァーっと喜びの色が広がる。
 ピョンとゼフェルの上から飛び降りた女の子は、母親の元に駆け寄り服に着替え始めた。
「……………何なんだよ。あいつ。」
「……どうも娘は君が酷く気に入った様だね。」
 ゼフェルの呟きに、向い側に座っていた紳士は笑いを堪えきれず肩を震わしながら答えていた。
「お洋服着たよ。お兄ちゃん。あっちで遊ぼ。」
 着替え終わった女の子に手を引かれ、ゼフェルは部屋を後にした。


「やー! お兄ちゃんと寝るの! 一緒に寝るの〜!」
 ゼフェルは一向に弱まらない雨と女の子の足止めに、結局この家に泊まる事になってしまった。
『さすがにジュリアスの野郎にバレただろうな。戻ったらうっせーだろうけど………ま、いいか。』
 聖地に戻った後の事を考えて憂鬱な気分になっていたゼフェルだが、今は目の前の事態に頭を痛めていた。
 女の子が、用意された客間で寝ようとするゼフェルと一緒に寝ると言い出して聞かなかったのである。
「いい加減になさい。アンジェリーク! もう赤ちゃんじゃ無いんだから一人で寝るお約束でしょ。」
「嫌だもん! お兄ちゃんと一緒に寝るんだもん。……お母さんの莫迦ぁ。ふぇーん。」
 母親に叱られて盛大に泣き出した女の子に溜息をつく。
「あの……俺だったら別に構わないですよ。」
 泣き声のあまりの騒々しさに辟易したゼフェルが、諦めに似た口調で女の子の両親に声をかける。
 女の子の両親は何度も何度もゼフェルに詫び、娘におやすみのキスをして寝室へ入っていった。
「………寝るか。」
「うん!」
 泣いたカラスがもう笑ったとばかりに、女の子がベットに横になったゼフェルの隣りに笑顔で潜り込む。
「ね、お兄ちゃん。おやすみのチューして。」
 眠たそうな目をした女の子がゼフェルにねだる。
「な……。莫迦言ってんじゃねーよ。さっき親にして貰っただろ。だから俺はしなくてもいいの。」
 守護聖として聖地に来てからはもちろん、来る前も、そんな事をした事の無いゼフェルが焦る。
「やーだー。お兄ちゃんもして。」
 言いながら徐々に涙目になってきている女の子に気づいたゼフェルが、仕方なく額に軽くキスをする。
「えへへ。あのね、お兄ちゃん。アンジェね。お兄ちゃんのお嫁さんになってあげる。だからこれ、お約束ね。」
 女の子は額を撫でながら笑顔でそう言うと、身体を伸ばし、その幼い唇をゼフェルのそれと軽く触れ合わせた。
 突然のそんな行為に固まってしまったゼフェルを余所に、女の子は両手で口元を押さえて恥ずかしそうに布団の中に潜り込んだ。
「……………な。おめえは……………。」
 我に返ったゼフェルが言いかけて口をつぐむ。
 頭から被った布団を除けると、女の子は幸せそうな寝息をたててすでに眠っていた。
「……ったく。何でこんなチビにキスされた位でこんなに動揺してんだよ。俺は……。」
 自分に擦り寄る様に眠る女の子の肩に布団を掛け直して、ゼフェルは眠りについた。


「それじゃあ。どうもお世話になりました。」
 雨も上がり青空が広がる翌日の早朝、ゼフェルはその家の門の外に立っていた。
「朝食位、食べて行けば良いのに。」
「いえ、これ以上は……。それにあのチビ…と、あの娘が目を覚ましたらまた足止めされそうですから。」
 夫人の言葉にゼフェルが首を横に振る。
「本当にどうもありがとうございました。」
「いや。こちらこそ一日中娘の面倒を見てもらって悪かったね。ありがとう。」
 深々と礼を取るゼフェルに紳士が笑顔で答える。
「親の口から言うのも何だけど。あの娘は愛想が良くってね。誰とでも同じように接していて、誰かを特別に…って言うのは今まで無かったんだよ。だからあんな行動を取るとは私達も正直驚いているよ。」
 そんな紳士の言葉にゼフェルが苦笑する。
 そうこうしている内に、家の中から女の子の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「どうやら目を覚ましたみたいだ。もう行きなさい。この手紙に詳しい事は書いておいたから、親御さんに見せるといいよ。」
 紳士はそう言って一通の手紙をゼフェルに手渡した。
 ゼフェルは手紙を受け取ると、もう一度ペコリとおじぎをして走り出した。
 途中で振り返ると夫妻の姿はすでに無く、女の子が自分を呼んで泣き続ける声がかすかに聞こえていた。
「子煩悩で人の良い夫婦と我侭娘………か。」
 久方ぶりに味わった家族団欒に面映ゆさを感じ、ゼフェルはポツリと呟いた。
 そしてゆっくりと聖地への道を歩いていった。


「こんなトコにいたのか。……アンジェリーク。」
 小雨の降る森の湖の畔で、滝の流れる様子を傘もささずにじっと見つめていた女王候補のアンジェリークを見つけ、ゼフェルが声をかける。
 現女王の力が衰えを見せ始め次なる女王として聖地へやってきたアンジェリークは、同じくやってきたロザリアとこの飛空都市で女王試験を受けていた。
 歴代の女王候補の中でもずば抜けて素質の高いロザリアは、突然の事に戸惑いを見せるアンジェリークを余所に順調に試験を進め、つい先日、圧倒的な力の差を見せつけて試験を終了させたのであった。
 そして今日は、アンジェリークが元の世界へと戻る日であった。
「………ゼフェル様。」
 かけられた声に驚いて振り返るアンジェリークは、本来の彼女とは想像もつかない程、生気の無い表情を浮かべていた。
「びしょ濡れじゃねーか。風邪ひくぞ。」
「……そう言うゼフェル様もびしょびしょですね。」
 おそらく、手にした傘をさす事もせず自分を捜していたであろうゼフェルに、アンジェリークが泣きそうな顔で微笑み、髪の毛から頬に伝う雨粒にハンカチをあてる。
「……………帰る……のか?」
 そんなアンジェリークの行為を素直に受けながら、ゼフェルが苦しそうに声を出す。
「……はい。仕方ありませんよね。私、試験負けちゃったし……。ロザリアとそんなに仲良くなれなかったし……。それに……。ロザリアは……。補佐官なんか…いらない位しっかり…してる……し………。」
「ここに居ろよ。」
 俯き声を殺して泣き出すアンジェリークを抱きしめたゼフェルが耳元で呟く。
「ここに残れよ。帰らなくても良いじゃねーか。」
「ゼフェル様………。」
 抱きしめられたアンジェリークが、ゼフェルの背に自分の手をまわし縋り付く。
「帰りたくない。このままゼフェル様のお側にいたい。でも……無理です。そんな事。ゼフェル様だって解ってらっしゃるでしょう。」
 そう言ってアンジェリークは、大粒の涙を零しながらゼフェルを見上げて笑顔を作る。
「お別れです。……さようなら。ゼフェル様。私………ゼフェル様の事…一生忘れませんから……………。」
「アンジェリーク!」
 ゼフェルは自分の元を離れようとするアンジェリークの手首をしっかりと捕らえる。
「お前、主星の出身だよな。家何処だよ。…会いに行く。毎日でも会いに行く。聖地を抜け出すなんざ俺にとっては朝めし前の事だからよ。だから……だから教えろよ。お前の家。そしたら俺が会いに行ってやる。」
「私…私の家は……………。」
 震えながら家の場所を話すアンジェリークの言葉に、ゼフェルの顔に驚きの色が浮かぶ。
「ゼフェル様……………?」
「ああ。こんな所に居たんですか? アンジェリーク。女王陛下が元の世界へ通じる次元の道を開いて下さいましたよ。急いで下さいね。」
 呆然としているゼフェルを訝しんでいたアンジェリークは、やはり自分を捜してやってきた大地の守護聖ルヴァの言葉にゼフェルの元を離れ、次元回廊へと向かって歩き出した。
「さようなら……………ゼフェル様。」
 次元回廊を通るアンジェリークは、ゼフェルの頬を伝う雨粒を拭ったハンカチを自分の頬にあて、もう一度別れの言葉を呟いていた。


「帰ってきてから元気が無いわね。」
 土砂降りの雨をぼんやりと眺めていたアンジェリークに、母親が声をかける。
 聖地より戻ってからかなりの日がたつと言うのに、元気な笑顔を見せない娘を父も母も心配していた。
「聖地で何かあったの? もしかして好きな人でも出来た? 守護聖様のどなたかとか……。」
「どうして解るの?」
 母の言葉にびっくりしてアンジェリークが尋ねる。
「やっぱりそうなの。解るわよ。私も同じだったから。好きな人に会えないのが辛い。そうなんでしょ?」
 母の言葉にアンジェリークは無言で頷く。
「………どんな方なの?」
「……鋼の守護聖の…ゼフェル様。口が悪くて短気で、初めてお願いに行った時なんか怒鳴られちゃって……。器用さを司る守護聖様なのに自分の事にとても不器用な方で……。初めてお会いする方のはずなのに、何だかとても懐かしい感じがして……。あのシルバープラチナの髪もルビーの瞳も何もかもが全部……………。」
「アンジェリーク。」
 泣き出した娘を母親はそっと抱きしめ何度も何度も優しく背中を叩いた。
「……アンジェリーク。いつまでもふさぎ込んでないで、気晴らしに散歩にでも行っておいで。これでも着て。」
 いつの間にやってきたのか、淡いピンク色のレインコートを手にした父親が涙を流す娘に声をかける。
「雨の中を歩くのは好きだったろう。庭をグルリと一周して来れば良い事がきっとあるよ。小さい頃から嫌な事がある度にそうしていただろ。そして早く元気になってお前の笑顔を父さんに見せておくれ。」
 父親からレインコートを受け取ったアンジェリークは雨の降りしきる庭へと出た。
 庭の木々を眺めながらも、アンジェリークの思考はどうしても聖地にいるゼフェルへと行ってしまっていた。
「……ゼフェル様のうそつき。毎日でも会いに来て下さるって言ってたのに……。ううん。出来る訳無いわよね。宇宙のバランスが乱れちゃうから……。でも……会いたい。ゼフェル様に会いたい。」
 雨と涙でアンジェリークの視界が霞む。
 涙を拭ったアンジェリークの視界の先に、大きなアカシアの木が映った。
 ふと、その木の下に人影を見つけたアンジェリークが何かに弾かれたように走り出した。
「うわっ!」
 突然後ろから体当たりをされて、ずぶ濡れのゼフェルが叫び声を上げる。
「あ…アンジェリーク。…よぉ。久しぶりだな。」
 信じられない…と言った顔をするアンジェリークに、ゼフェルが照れた様な笑顔を見せる。
「ゼフェル様……。本当にゼフェル……様?」
「おい。その、様ってのもう止めろよ。……おめえが聖地を出た次の日な、客が来たんだ。誰だと思う? 次の鋼の守護聖だぜ。俺はお役後免って訳だ。」
 呆然とするアンジェリークの金色の髪を撫でながら、ゼフェルが嬉しそうに話す。
「本当はすぐにでも聖地を出ちまいたかったんだけどよ。ジュリアスの野郎やルヴァが引き継ぎをちゃんとやってからでないと駄目だ。とか抜かしやがってよ。ちょっとばかし時間がかかっちまった。……待たせちまったな。」
 そんなゼフェルの言葉にアンジェリークは何度も何度も首を振る。
「もう離さねぇ。何処にも行かねぇからよ。」
「えっ? でも…ゼフェル様……。故郷には………。」
「馬鹿野郎! 今更故郷に帰っても誰もいねーのにどうしろって言うんだよ。……ここにおめーがいるのによ。」
 土砂降りの雨の中で、ずぶ濡れの二人は深い口付けを交わしていた。


「覚えているかい? あの娘が小さい頃の事。」
「ええ。覚えてますわ。あの時の男の子……。鋼の守護聖ゼフェル様だったんですね。」
 家の中に残った二人は窓辺に静かに佇む。
「……と言う事は、あの娘は初恋を見事に成就させたって事なのかな?」
「………寂しいですか?」
 夫の言葉に一抹の寂しさの感じられた妻が尋ねる。
「半分ね。」
「半分?」
「娘を嫁に出したようで寂しいよ。でも、新しく息子が出来るだろ。それが嬉しくもあるのさ。」
「……あの子が私達の本当の息子になるにはもう少し時間がかかりますけどね。」
 窓辺で外を眺める夫婦は、ピンク色のレインコートを着たアンジェリークがずぶ濡れの少年を招き入れる姿を笑顔で見つめていた。


もどる